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あの日、あの時

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 またゆっくりと歩いて俺たちは別荘へ戻った。
 子どもたちを風呂に入れようとしたが
 「タカさんと一緒にはいる!」
 「お願いします!」
 双子が頼んでくる。どうも今日は妙に懐かれている。
 「タカさん! 僕と一緒に入りましょう!」
 皇紀が言った。
 「そうだな、今日は皇紀と入るよ」
 散々文句を言う双子を制して、俺は皇紀と一緒に風呂場に向かう。

 「あのなぁ、皇紀。お前と一緒に入るのはいいんだが、俺の身体はちょっとなぁ」
 「え、何かまずかったですか?」
 まずいというか、子どもにはショックかもしれない。
 「ひどい傷跡があるんだよ。気持ち悪くなるかもしれんぞ」
 「あ、そんなのは全然平気です。何かと思っちゃったじゃないですか」
 皇紀は嬉しそうに言う。
 「ああ、一応言ったからな」
 俺は脱衣所で脱いでいくと、皇紀が見ている。
 俺の身体には全身に数多くの傷がある。
 大きな手術の縫合もあれば、喧嘩による引き攣れた傷跡、そして幾つもの銃痕。
 
 「気持ち悪かったら、後から入れよ」
 「全然大丈夫です!」

 皇紀はそう言ってスタスタと洗い場に入っていく。
 シャワーで軽く流してから、広い湯船に二人で浸かる。
 湯温は夏場だから低めにしてある。

 ここの風呂は広めの羽目殺しの窓をつけて、庭の景色が見えるようになっている。周囲は高い石垣を回しているので、外から覗かれることはない。
 「どうだよ、皇紀。少しは新しい生活に慣れてきたか?」
 俺は他愛のないことを聞く。
 「はい。最初はものすごくいろいろ考えていましたが、タカさんは本当に僕たちのことを思ってくれていることが分かりましたから」
 皇紀は手足を湯船の中で伸ばし、軽く両手で波を作る。
 「タカさんの傷ってどういうものなんですか?」
 「まあ、いろいろだよ。そのうちにお前には話すこともあるかもしれないけどな。時代もいろいろで、例えばこの肩と腕の傷な。これはお前くらいの年に外人とやりあったときのものだよ」

 俺は子ども時代を懐かしく思い出した。


 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■


 小学四年生で引越しをし、まったく知らない土地に移った。
 神奈川の山の中にある場所で、クラスが二クラスずつしかないような田舎の小学校だった。
 転校初日の朝礼で、外に全学年が並んで校長先生の話を聞いていた。
 その時、校庭の隅から誰かが走ってきて、いきなり六年生の男子の頭をバットで殴り飛ばした。
 「!」
 頭から血を盛大に吹き上げて倒れた隣に立つ、バットを持った少年を見た。
 白いひざ上の短パンに、白いダボシャツ。
 角刈りのいい筋肉をした少年が、血まみれで倒れている六年生を見ながら高らかに笑っていた。
 とんでもない場所に来た、と思った。
 すぐに先生たちが集まって、少年を取り押さえた。
 電話をかけに、別な先生が校舎へ走る。
 騒然となった朝礼は中断し、みんな校舎へ誘導された。

 俺はその日まで、そこそこ元気だが、決して暴力的な子どもではなかったように思う。
 悪ガキではあったが、喧嘩はあまりしなかった。
 しかし、少年、後から本間という名前を知ったが、彼が俺を変えた。
 この世には確かに暴力があり、それが振るわれるのだ。
 それを目の当たりにし、俺は自分の人生にそれを組み込んだ。
 幸いにして、俺は親父から暴力的な激しい躾をほどこされていた。
 武家の家系であることを誇りにしていた親父は、戦前というか、ほとんど江戸時代のような容赦ない折檻を俺にしてきた。
 さらに、俺の成長が完全に早熟型であったことも大きい。
 いち早く同級生よりも身体が大きくなり、俺は一年と待たず同学年はおろか、上級生、はては隣接する中学にまで知られる強者となっていった。

 小学五年生のとき。

 少し山に入ったところにある教会の存在を知った。
 そこでは子どもに聖書の話を日曜ごとにしていた。
 俺は興味がなかったが、ある日、そこへ行くと帰りにお菓子をもらえる、という話を聞いた。
 俺の家は貧乏だった。全責任は俺の病弱さにあった。
 三度、病気で死に掛け、その後も毎月四十度以上の熱を出すという。
 東大病院にまで行って精密検査を受けたが、そこで言われたのは
 「この子は二十歳まで生きられません」
 という言葉だった。

 両親の嘆きは相当だっただろう。

 だが、俺はそんなことも知らず、病弱にして元気なときは喧嘩三昧というわけの分からない生活をしていた。
 毎月の病院代が原因でうちが貧乏であることは、ずっと以前から分かっていた。
 今から思えばその鬱憤が捻じ曲がって暴力沙汰にのめり込んでいたのかもしれない。
 お菓子が食べたかった。
 同級生たちは小遣いを毎月もらい、買い食いなどをしていた。俺は1円もない。
 だから襲った。
 教会の話が終わる頃合に、山道で俺は待ち伏せて、毎週二、三人からお菓子を奪い取った。
 「もう食べちゃいました」
 そんな奴は数発ぶん殴って、次は食べるなと言い聞かせた。
 一月もそんなことをやっていた。
 そして神父が現われた。

 俺は神父を見たことがなかった。
 だからその大きさに驚いた。
 身長は二メートルを超え、少々太ってはいたが、筋肉の量が半端ないことが分かった。

 「オマエがやったのかぁー!」

 ちょっと発音がおかしい神父が、有無を言わさず俺に殴りかかる。
 俺は身長170センチを少し超えたばかりで、食糧事情の影響で筋骨隆々というわけにはいかなかった。
 だが喧嘩慣れした俺は、はるかに体重差のある神父とやりあえた。
 身体は大きいとはいえ、小学生の子ども相手にフルパワーで襲う男。
 一方は「武士道とは死ぬことと見附たり」という教育を施された狂人。

 凄絶な戦いが繰り広げられ、俺は肋骨5本骨折。左手の上腕骨折と肩の裂傷に左足の脛の骨折。
 神父は肋骨二本の粉砕骨折と右中指の開放骨折。
 両目の眼底骨折と左上奥歯の欠損。
 上等じゃないか?
 それらの話は、俺が散々お世話になっていた病院の看護婦から教えてもらった。
 


 皇紀は黙って話を聞いていたが、立ち上がって言った。
 「やっぱタカさんはすげぇや!」
 「おい、チンコ見えてるぞ」
 湯船を出て、皇紀に背中を流してもらい、俺も皇紀の背中を洗ってやる。
 「今度お前たちに見せてやるつもりだけどなぁ。『白い巨塔』という映画があるんだよ。山崎豊子という作家の原作で、大学病院の優秀な外科医の話なんだ」
 「へぇ、楽しみです。あ、もしかしてタカさんがモデルなんですか!」
 「そんなわけあるか!」
 俺は簡単にあらすじを話した。
 「ドラマにもなって、日本中が田宮二郎演ずる主人公に圧倒されたんだ。それでな、その中で「財前教授の総回診です!」っていうシーンがあるんだよ」
 俺は大学病院での教授の回診がいかに権威のあるものかを教えてやる。
 准教授や平医者、院生や多くの看護婦たちを引き連れて患者の病室を回りながら、教授が病状や治療法を解説していく、というものだ。
 「あのシーンが本当にカッコ良くてなぁ。俺がよく入院してた病院では、俺は常連の人気者だから。誰かが俺のために回診簿を作ってくれた。だから俺はしょっちゅう「石神教授の総回診です!」ってやって、あちこちの病室を回ってたんだ」
 「子どもの頃からタカさんは変わってないんですね」
 皇紀がおかしそうに笑った。
 「そうだなぁ。思えばあのときから医者になるつもりがあったのかもしれんな」
 「そういえば、なんでタカさんは医者になろうと思ったんですか?」
 俺は再びあの日あの時へ帰っていた。



 俺が外で遊んで家に戻ったあの日。両親が喧嘩をしていた。
 大きな声で言い合うのが聞こえ、俺は玄関で入りかねていた。
 「高虎は、二十歳まで生きられないんですよ!」
 お袋の声だった。二人が俺の病弱さのことで喧嘩をしていることが分かった。
 本当に申し訳なかった。
 生んでもらったのに、何の恩返しもできずに死んで両親を悲しませるのか。
 俺が散々悩んだ挙句に考えたのは、お袋に何とか喜んでもらおうということだった。
 お袋は、俺がしょっちゅう入院する度に、そして助かって退院するたびに、お世話になった医者たちに深々と頭を下げて感謝していた。
 お袋は医者を心底尊敬し、感謝していた。

 だから俺は医者になろうと思った。
 正確に言えば、医者になろうとし続けようと思ったのだ。
 途中で終わるのは仕方がない。
 でも、お袋が尊敬する医者になろうとするだけで、少しは喜んでくれるかもしれない。
 その日から、俺は猛勉強した。
 喧嘩もした。
 もう、喧嘩は俺の一部だった。

 俺の成績はどんどん上がった。
 俺の努力というよりも、ある高校生のお蔭が大きかった。
 俺に勉強法を指南してくれた恩人だ。
 ある時、入院した同室に「静馬くん」という高校生の人がいた。
 俺のやんちゃ振りを気に入ってくれた。
 静馬くんは俺が二メートルの神父と喧嘩した話を知り、褒め称えてくれた。
 静馬くんは大変頭の良い人だった。
 成績が良いのもそうだが、彼が本当にスゴイのは、その教養だった。
 本物の知性が語る話のあれこれは、俺の心を一気に燃え立たせてくれた。
 ニーチェの話、クラシック音楽の話、シラーやマンの詩や文学の話。
 俺はずっと静馬くんにくっついていろいろな話をせがんだ。
 重い病気だった静馬くんはその後転院し、そこで手術の甲斐なく亡くなったことを聞いた。
 俺は生まれて初めて葬儀に参列した。

 静馬くんのご両親が俺の話を聞いていたらしく、葬儀の数日後に家に呼ばれた。
 静馬くんが俺に渡して欲しいと言い残していた数々の本やレコードをいただいた。
 「私たちが持っていると、あの子を思い出して泣いてしまうから」
 そう静馬くんの母親が言った。
 俺は家の外に出て泣いた。
 多くの荷物を車に積んで送ってくれると言った静馬くんの父親が、俺の背中をなでてくれた。

 すっかり静馬くんのお蔭でクラシックマニアになった俺は、いただいたレコードでは物足りなくなっていた。
 当時のLPレコードというのはずい分と高額なものだったと思う。
 今、CDは二、三千円だが、当時のLPレコードも同じ金額だったのだ。
 物価の格差を考えると恐らく数万円の価値があったのではないか。
 小学校で音楽の先生と親しくなったのは、当然のなりゆきだっただろう。
 クラシックなんて誰も興味がない田舎の小学校で、俺だけが異常に喰いついていたのだ。
 終業後に、ときには休日に音楽室を開けて、本多先生は俺に様々なレコードを聴かせてくれた。
 本多先生はさらに自分の私物のレコードも学校へ持ってきてくれた。
 俺はそのうちに先生の家へも遊びに行った。
 本多先生は心底のクラシックマニアだった。
 給料のほとんどをレコードやコンサートに注ぎ込んでいた。
 そんな先生の家には湯飲みが一つしかなく、先生が煎れてくれた薄い茶を、二人で交互に飲んだ。
 うちと張るほどの貧乏生活だった。

 喧嘩騒ぎばかりで問題児だった俺は、多くの先生方に嫌われていた。
 しかし本多先生と数人の先生、また校長先生は俺のことを認めてくれていた。
 ああ、よく校長室に正座させられていた。
 真冬にリノリウムの冷たく硬い床で数時間正座していた俺は、両足が真っ青になり、翌日から入院した。
 退院し、学校へ戻ると校長室にタヌキの毛皮の敷物が敷いてあった。
 「これ、お前のために校長先生が私費で買ってくれたんだぞ」
 俺は感動すると共に、また正座が前提かよ、と思った。
 卒業して中学校へ進んだ俺は、入学式の後で見知らぬ教諭に呼ばれた。
 音楽室に案内された。
 「僕は音楽の教師なんだけど、君のことは本多先生から聞いている。クラシックが大好きな生徒だから、どうか許す範囲で聴かせてやって欲しいと」

 俺はなんと幸せなのか。
 日頃ひどいことばかりしている問題児なのに、こうやって俺のためにいろいろな方が何かをしてくれようとする。
 俺は礼を言い、中学ではあまり問題を起こさないようにしようと思った。

 その誓いはすぐに破られた。
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