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BL小説家と私小説家がパン屋でバイトしたらこうなった1
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少しだけ触れさせたあと、私は身を引いた。
「遅刻は寝坊しただけなんだ。熱はないよ。急いで自転車こいできたから、そのせいだろ」
急いでいた事実はないが、尤もらしく口にする。本当に顔が赤いならば、それはたぶん直前の自慰のせいだろうが、さすがにそれを口にするのは憚られた。
穂積がほっとしたようによかったと呟いた。
「久見さんが来るまで、もし具合が悪くて家で臥せっているのなら、バイトを終えたら看病に伺おうと思っていました」
「それは、気にかけてくれてありがとう。心配かけて申しわけない」
「いえいえ。家に押しかける口実がなくなって、ちょっぴり残念です」
ふざけ半分な調子で流し目を送られ、私は笑って受け流す。
男に興味のない私にとって、彼のアプローチは冷静に考えると気色悪く感じてもおかしくないのに、学生時代のふざけあいのノリのようで、楽しいとすら思えている。
毒されているのだろうか。かように距離を縮めてノンケを落とすのがこの男の手口なのだとしたら、距離を置くべきなのかもしれないと薄々思うが、実際に行動に移す気は起らなかった。
じつは先週、穂積と独身女子の会話を立ち聞きしてしまったことがあった。帰り際にトイレへ立ち寄り、出ようとしたら廊下のほうから話し声が聞こえてきたので、出るに出られず一部始終を聞いてしまったというわけだが、要約すると、独身女子が穂積を遊びに誘い、彼女の有無を尋ねたのだが、穂積は誘いを断り、彼女はいないが好きな人はいると誠実な口調で答えていた。
いつもの私ならば振られた独身女子をあざ笑い、モテる穂積に嫉妬しそうだが、そのときの私は女子に対してなにも思わず、誘いを断った穂積に安堵を覚えたのだった。そして、好きな人というのはやはり私のことだろうかと、妙に意識した。
この感情はなんなのか。
ただ自意識過剰なだけであり、恋愛感情ではないはずだが、何やらわからなくなってくる。もう少し彼のそばにいたら、わかるようになるだろうか。それを突き詰めて言語化できたら、小説に生かせるだろうか。
私の作品は恋愛小説というジャンルにも拘らず、最も大事な恋愛心理の表現が弱いと指摘されている。それゆえに底辺から浮上できない。今の心理を表現できたなら、私の作品もワンランク上がるやもしれぬ。
私は打算と気まぐれから、先ほど受け流した穂積のまなざしを見返した。
「今日もバイト上がりに誘おうと思ってたんだが、もしうちに来たいなら、うちで飲むか?」
穂積が驚いた様子で立ちどまった。
「いいんですか」
「いいよ。そしてぜひ、幻滅してくれ」
「なんですそれ」
「クッソ汚くて狭いから。二度と来たくなくなる」
「それはそれで、興味湧きますね」
「あー、でもさすがにあれかな。穂積君ちのほうがいいかな」
男の一人暮らしなど似たり寄ったりだろう。が、話しているうちに穂積の本棚や机周りに興味が湧いたので、そう持ちかけた。
穂積は頬を紅潮させ、興奮気味に言った。
「ぜひ来てください。でも俺、久見さんちに行きたいです。あの、本当の本当に、お邪魔していいんですか」
「いいよ」
「やった」
穂積は小さくガッツポーズして、喜びに打ち震えている。そのあまりの喜びように、私は眉間を寄せて見上げた。
「言っておくけど、変な期待はしないでくれよ。家飲みで、いつもみたいに小説談議をしたいだけだから」
「わかってます」
彼は笑顔で大きく頷いたのだった。
やがて仕事を終えた私たちは、ショッピングセンターの食品売り場で酒とつまみを購入し、我が塒へと向かった。
食料を自転車のかごに入れ、徒歩の穂積につきあって私も自転車を押して歩く。
道中、穂積は言葉少なかった。それはいかにも意中の女子の部屋へ初めて行く男が緊張する様子そのもので、なにやら思い詰めてはいないかと、私は不穏なものを感じてしまった。
自分にアプローチをしている男を家に誘うのは、浅慮過ぎただろうか。
変な期待はするなと言いはしたが、その牽制がどれほど有効かいささか疑わしくなってきた。
もし自分が彼の立場だったら。ずっと好きで毎日ちょっかいをかけていた女子から家に来てもいいと言われたら、それはもう、セックスもOKと受けとめることだろう。期待するなと言われていたとしても、そんなのは建前。芸人の「押すなよ」と同義である。
そんなつもりで家へ誘ったわけではなかったと、襲われてから訴えたところで遅いだろう。体格差は歴然としており、その気になれば私の抵抗などいともたやすく封じられそうだ。
いいのか。
いや、全くもってよくない。
歩を進めるに従い隣から漂う緊張感が弥増し、私もつられて押し黙る。ついにアパートまでたどり着いたとき、いよいよ怖気づいた私は、玄関ドアの前で立ちどまり、端正な顔を見上げた。
「あのさ。言っておくけど、本当に、一緒に酒が飲みたくて誘っただけだからな。変な気起こさないでくれよ」
穂積が苦笑した。
「俺、いきなり襲い掛かりそうな男に見えますか」
「わからないよ」
そんなもの、わかるはずがない。これまで男に言い寄られた経験などないのだ。しかし彼の緊張はこちらへ伝播しており、このまま家に入れるのは身の危険を覚えざるを得ない。
「きみは、いつも私にいろいろ言ってくるが、あれは、どの程度、その……本気と受けとめていいものか」
「百パーセント本気ですよ」
「遅刻は寝坊しただけなんだ。熱はないよ。急いで自転車こいできたから、そのせいだろ」
急いでいた事実はないが、尤もらしく口にする。本当に顔が赤いならば、それはたぶん直前の自慰のせいだろうが、さすがにそれを口にするのは憚られた。
穂積がほっとしたようによかったと呟いた。
「久見さんが来るまで、もし具合が悪くて家で臥せっているのなら、バイトを終えたら看病に伺おうと思っていました」
「それは、気にかけてくれてありがとう。心配かけて申しわけない」
「いえいえ。家に押しかける口実がなくなって、ちょっぴり残念です」
ふざけ半分な調子で流し目を送られ、私は笑って受け流す。
男に興味のない私にとって、彼のアプローチは冷静に考えると気色悪く感じてもおかしくないのに、学生時代のふざけあいのノリのようで、楽しいとすら思えている。
毒されているのだろうか。かように距離を縮めてノンケを落とすのがこの男の手口なのだとしたら、距離を置くべきなのかもしれないと薄々思うが、実際に行動に移す気は起らなかった。
じつは先週、穂積と独身女子の会話を立ち聞きしてしまったことがあった。帰り際にトイレへ立ち寄り、出ようとしたら廊下のほうから話し声が聞こえてきたので、出るに出られず一部始終を聞いてしまったというわけだが、要約すると、独身女子が穂積を遊びに誘い、彼女の有無を尋ねたのだが、穂積は誘いを断り、彼女はいないが好きな人はいると誠実な口調で答えていた。
いつもの私ならば振られた独身女子をあざ笑い、モテる穂積に嫉妬しそうだが、そのときの私は女子に対してなにも思わず、誘いを断った穂積に安堵を覚えたのだった。そして、好きな人というのはやはり私のことだろうかと、妙に意識した。
この感情はなんなのか。
ただ自意識過剰なだけであり、恋愛感情ではないはずだが、何やらわからなくなってくる。もう少し彼のそばにいたら、わかるようになるだろうか。それを突き詰めて言語化できたら、小説に生かせるだろうか。
私の作品は恋愛小説というジャンルにも拘らず、最も大事な恋愛心理の表現が弱いと指摘されている。それゆえに底辺から浮上できない。今の心理を表現できたなら、私の作品もワンランク上がるやもしれぬ。
私は打算と気まぐれから、先ほど受け流した穂積のまなざしを見返した。
「今日もバイト上がりに誘おうと思ってたんだが、もしうちに来たいなら、うちで飲むか?」
穂積が驚いた様子で立ちどまった。
「いいんですか」
「いいよ。そしてぜひ、幻滅してくれ」
「なんですそれ」
「クッソ汚くて狭いから。二度と来たくなくなる」
「それはそれで、興味湧きますね」
「あー、でもさすがにあれかな。穂積君ちのほうがいいかな」
男の一人暮らしなど似たり寄ったりだろう。が、話しているうちに穂積の本棚や机周りに興味が湧いたので、そう持ちかけた。
穂積は頬を紅潮させ、興奮気味に言った。
「ぜひ来てください。でも俺、久見さんちに行きたいです。あの、本当の本当に、お邪魔していいんですか」
「いいよ」
「やった」
穂積は小さくガッツポーズして、喜びに打ち震えている。そのあまりの喜びように、私は眉間を寄せて見上げた。
「言っておくけど、変な期待はしないでくれよ。家飲みで、いつもみたいに小説談議をしたいだけだから」
「わかってます」
彼は笑顔で大きく頷いたのだった。
やがて仕事を終えた私たちは、ショッピングセンターの食品売り場で酒とつまみを購入し、我が塒へと向かった。
食料を自転車のかごに入れ、徒歩の穂積につきあって私も自転車を押して歩く。
道中、穂積は言葉少なかった。それはいかにも意中の女子の部屋へ初めて行く男が緊張する様子そのもので、なにやら思い詰めてはいないかと、私は不穏なものを感じてしまった。
自分にアプローチをしている男を家に誘うのは、浅慮過ぎただろうか。
変な期待はするなと言いはしたが、その牽制がどれほど有効かいささか疑わしくなってきた。
もし自分が彼の立場だったら。ずっと好きで毎日ちょっかいをかけていた女子から家に来てもいいと言われたら、それはもう、セックスもOKと受けとめることだろう。期待するなと言われていたとしても、そんなのは建前。芸人の「押すなよ」と同義である。
そんなつもりで家へ誘ったわけではなかったと、襲われてから訴えたところで遅いだろう。体格差は歴然としており、その気になれば私の抵抗などいともたやすく封じられそうだ。
いいのか。
いや、全くもってよくない。
歩を進めるに従い隣から漂う緊張感が弥増し、私もつられて押し黙る。ついにアパートまでたどり着いたとき、いよいよ怖気づいた私は、玄関ドアの前で立ちどまり、端正な顔を見上げた。
「あのさ。言っておくけど、本当に、一緒に酒が飲みたくて誘っただけだからな。変な気起こさないでくれよ」
穂積が苦笑した。
「俺、いきなり襲い掛かりそうな男に見えますか」
「わからないよ」
そんなもの、わかるはずがない。これまで男に言い寄られた経験などないのだ。しかし彼の緊張はこちらへ伝播しており、このまま家に入れるのは身の危険を覚えざるを得ない。
「きみは、いつも私にいろいろ言ってくるが、あれは、どの程度、その……本気と受けとめていいものか」
「百パーセント本気ですよ」
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