未明書房

はぐ

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第一章

第八話

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第八話「火の輪郭」

喫茶「木霊」の椅子は、ひとつひとつ微妙に高さが違う。
腰を下ろした瞬間、背中から疲労が溶け出すような感覚があった。

彼は黙ってカップを見つめていた。
まだ誰もいない、と思っていた。だが入口のベルも鳴らずに、ふと視線の先の席に若い女が座っていた。

それだけで、心臓がわずかに軋んだ。

どこかで会った気がする――そう思った瞬間、指先が反射的に内ポケットの紙片を確かめた。
あの火事のあと、誰にも見せなかったノートの切れ端。あの子が持っていたものと、同じ筆跡。

「……本人じゃない。けど、似ている」

いや、そう思いたかっただけかもしれない。
火の中にいた少女の顔は、彼の記憶の中でもう朽ちかけていた。なのに、あの目だけは忘れられない。

その女は彼の方を見なかった。けれど、不思議なことに、店内の空気が静かに鳴った。
何も言葉が交わされないまま、あのとき語られなかった何かが、すぐそこにある気がした。

彼はそっと、手元の紙に目を落とす。

“火の中で、自分が動けなかったのは……
 誰かに赦してもらえると思っていたからかもしれない”

隣の席の女が、紙片を受け取ったわけではない。だが彼女の仕草のひとつひとつに、微かな既視感が重なる。

あれは、火の前に立っていた誰かの影だったのか。
あるいは――その火で、もう二度と会えなかった誰かの音。

カップが空になると、彼は立ち上がった。言葉は交わさない。けれど、カウンターの主に、煤けた紙だけを置いて出ていく。

静かな風が店内を通り過ぎたとき、女は微かに目を上げた。
誰もいない扉の方を見つめたその目には、わずかに“火の向こう側”が映っていたのかもしれない。

扉が閉まる音が遠く、やけに静かに響いた。
男が席を立ち、何も言わず出ていったあと、しばらく誰も動かなかった。
姉はただ、珈琲の余熱に掌を添えていた。

――そのときだった。

テーブルの端に、ふと紙片があるのに気がついた。
白く折られた紙。焦げたようにわずかに丸まった角が、確かに何かを語っている。

「……?」

彼女は紙を手に取り、そっと開いた。

“まだ言えなかった言葉が、
あなたの声に重なろうとしています”

それは、妹の筆跡だった。
間違いようがなかった。消えかけた筆圧の癖まで、覚えている。

胸の内側で、時間がひとつ、音もなく崩れた気がした。

もういないはずの妹が、
もう届かないはずの場所から、言葉を差し出してきた。

“火のあとは、灰にならなかったことだけが残る”

彼女はそっと目を閉じ、紙を丁寧に折り直す。
妹が、ずっとここで待っていたのだと思った。
それを、あの男が届けたのかどうか――わからない。けれど、
いまこの瞬間、確かに“何かが託された”気がした。

空になったカップの底には、微かに指の跡が残っていた。自分のものではない、煤のような印。

姉は紙を鞄にしまい、席を立つ。
店の外には夜の風。どこかで灯りが瞬いた。

扉のベルが、静かに鳴った。
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