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第二章
第二十二話
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「名を伏せて語ること」
未明書房の静寂は、いつにも増して深かった。
翼は棚の隅にある古びたノートに手を伸ばす。
それは何度もページがめくられているのに、
語られた痕跡がほとんど残されていない一冊だった。
ページの中央に、余白の多い詩が書かれていた。
ただし、署名はなかった。
そして、名前に触れる言葉も――ひとつもなかった。
翼は、その詩の語りに呼吸を合わせるように目を閉じる。
「誰かを語ろうとするとき、
名を置き忘れることでしか書けない記憶があります。
あの人は、名ではなく、静けさでそこにいた」
その言葉を読んだ瞬間、翼は筆を取った。
自分の声を秋史という名に重ねることなく、
ただ記憶のかたちだけを綴りたいと願った。
ページの余白に、翼は書きはじめる。
「その人は、話し方で季節を変えてしまうような癖がありました。
沈黙を春に変えてしまうことも、言葉を冬のままにすることもできた。
でも名は、決してそこにありませんでした。
わたしは、その語りを灯りとして記憶しています」
名前を避けることに、翼は罪悪感を抱いていなかった。
それは「語られた記憶に、自由を与える手触り」だと感じていたから。
棚の奥で、本の背表紙がひとつだけ微かに軋んだ。
翼はその音を、名を伏せた記憶が動き出す気配として受け取る。
「語ることは、誰かの名を預かることではなく、
誰かの声を返すこと――
その返し方に、名が必要ない場合もあるのです。」
翼は最後に一行だけ、自分の語りを添えて頁を閉じた。
それは、「秋史」という記憶の続きを語ったものでありながら、
名を伏せることで、声そのものが自由になる瞬間でもあった。
棚に戻したノートが、やさしくそこに馴染んでいった。
静かな灯りだけが残り、
翼はそれを名前に縛られなかった語りの証として胸にしまった。
未明書房の静寂は、いつにも増して深かった。
翼は棚の隅にある古びたノートに手を伸ばす。
それは何度もページがめくられているのに、
語られた痕跡がほとんど残されていない一冊だった。
ページの中央に、余白の多い詩が書かれていた。
ただし、署名はなかった。
そして、名前に触れる言葉も――ひとつもなかった。
翼は、その詩の語りに呼吸を合わせるように目を閉じる。
「誰かを語ろうとするとき、
名を置き忘れることでしか書けない記憶があります。
あの人は、名ではなく、静けさでそこにいた」
その言葉を読んだ瞬間、翼は筆を取った。
自分の声を秋史という名に重ねることなく、
ただ記憶のかたちだけを綴りたいと願った。
ページの余白に、翼は書きはじめる。
「その人は、話し方で季節を変えてしまうような癖がありました。
沈黙を春に変えてしまうことも、言葉を冬のままにすることもできた。
でも名は、決してそこにありませんでした。
わたしは、その語りを灯りとして記憶しています」
名前を避けることに、翼は罪悪感を抱いていなかった。
それは「語られた記憶に、自由を与える手触り」だと感じていたから。
棚の奥で、本の背表紙がひとつだけ微かに軋んだ。
翼はその音を、名を伏せた記憶が動き出す気配として受け取る。
「語ることは、誰かの名を預かることではなく、
誰かの声を返すこと――
その返し方に、名が必要ない場合もあるのです。」
翼は最後に一行だけ、自分の語りを添えて頁を閉じた。
それは、「秋史」という記憶の続きを語ったものでありながら、
名を伏せることで、声そのものが自由になる瞬間でもあった。
棚に戻したノートが、やさしくそこに馴染んでいった。
静かな灯りだけが残り、
翼はそれを名前に縛られなかった語りの証として胸にしまった。
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