子鹿くんは狼

中山

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驚いたことに、正午は料理ができるらしい。

「ぜったい料理なんてしなさそうなのに…包丁よりナイフ持ってそうなのに」

「言うやん」

どうでもよくなったら、彼につられてデスマスは抜けてしまった。だいたい年下だろう、かまうものか。

愉快そうに笑う正午に言われるままボウルを出し鍋を出し、冷蔵庫を開けていいかと聞かれてどうぞと答えた。意外と礼儀正しい。そして笑うとずいぶん感じが変わる。

「すっからかんやん。水と調味料しかねえ」

「だから料理しないんだって。でも実家から送ってくるから冷凍庫はぱんぱんだよ、開けてみてよ」

「んじゃお言葉に甘えて…おお、ほんまや」

冷凍庫は、母がわざわざクール便で送ってくる惣菜や食材でいっぱいだ。下茹で済みのホウレン草やらひじきの煮物やら手製のたれで味付けをした肉やら、フリーザーバッグにまめに内容が書いてある。

母の料理は好きで、大人になったら同じものを作れるようになるとばかり思っていた。だから料理がまったく駄目なまま三十になってしまった自分の情けなさを突きつけられるようで、送られてきた料理はなんだか食べるのが気重なのだ。

「なんか食えんもんある?」

「何でも食べる、とりあえずお腹はすいてる」

何でも使ってくれと言っておいた。消費してくれるなら助かるぐらいのものだ。なんなら持って帰ってくれないだろうか。

「食いたいもんは?」

「…とくには」

調味料や食器の場所をひとわたり聞くと、正午はさらに紗季を驚かせた。

「作っとる間、紗季ちゃんは風呂でも入れば?」

「えっ…!いやでもそれはちょっと」

「ええからええから。起きてから顔も洗っとらんし、さっぱりしたいやろ? はい行った行った」

肩を掴まれて方向転換をさせられ、キッチンの向かいにあるユニットバスへ追いやられた。

「いや着替えとかあるから!ちょっと待って」

「そらそうやな。まあゆっくりしてき」

「言うポジション逆じゃない…?」

それを聞いて正午はけらけらと楽しそうに笑った。なんだか飄々としていて、彼のペースにすっかり乗せられている。



ワンルームのわりに広いユニットバスを、紗季は気に入っている。

古いマンションだから設備自体はくすんでいるが、気に入っているボディケアアイテムや見た目もきれいな入浴剤を集めて置いて、狭い浴室は彼女の小さな楽園だった。

しかし、鏡でメイクを落とさず寝入ったことをあらためて後悔した。三十になってお肌が…という実感はないのだが、こういうことは毎日の積み重ねが大事だというし、このメイクのほとんど落ちた顔をさっきまで晒していたのかと思うと恥ずかしい。身だしなみができていなくてみっともない、という方の恥ずかしさだ。

ジャケットはかろうじて脱いでいたものの、それ以外の衣服はすべて身につけたままだったせいか、全身が妙にこわばって気だるい。脱いだ開放感にほっとしたのもつかの間、鏡に写る肌に食い込んだストッキングとブラジャーの跡にげっそりする思いだった。

胸元を見ないように目をそらして、熱いシャワーを浴びる。扉一枚隔てた向こうに人がいるのを、今更ながらにどきどきするような汗が出るような、よく分からない気持ちで意識した。



紗季は自分の胸がずっとコンプレックスだった。

コンプレックスというなら文芸部一本槍のくせして170近くまで伸びた身長もそうだし、まばらで描くのが大変な眉毛も下だけ厚めの唇も、ウエストに合わせてボトムを買えない大きなお尻に太い腿もそうなのだが、胸がどうにかなるなら他は全部どうだっていいとすら思っている。

自分の手のひらにすっぽりおさまるサイズで理想にはぜんぜん足りないし、そのくせ妙に大きくて膨らみのある乳輪がすごく嫌だった。普段は埋まっている乳首も。笑った元彼もいたし、友達にもこんな胸を持っている子はいなくて、異様なものなのだろうかと真剣に悩んだこともある。

もういい歳だ、ある程度の折り合いはつけたつもりなのだが、気持ちが落ち込んだりすると屈折はふと顔を出す。ついこの間も嫌な思い出が追いかけてきて、ここ何日かは特にそうだった。

「はあ…おっぱい欲しい」

せめて豊かな胸があればこの乳首も目立たないのに、と胸に手をやったところで雷に打たれたような衝撃で思い出した。

昨日、正午にこれを触らせた。

「…ちょっ…」

胸がないでしょなどと言いながらさんざん触らせて、下着の下まで入り込んできた大きな手が嬉しくてもっとしてほしかったのに、今日はここまでと言われて抱きしめられて駄々をこねた。いい匂いがすると正午に抱きついて、腕枕をせがんで…鍵を隠した最低のくだりも思い出した。自分の部屋の鍵はベッドと壁の隙間に押し込んだことも。

約束も。



昨夜の私、何してるの!? どんな顔してお風呂出ればいいの!? 約束ってそんな、まさかそんな!

「あああああ……」

浴槽にしゃがみ込み、熱いシャワーに打たれながら、もうどうすればいいのか分からなかった。



「お、湯上がり美人や。飯できてるよ」

「…おっさんみたいなこと言う」

違う、こんな返しがしたいわけではない。ないのだがまともに顔が見られない、冷水で火照る顔をなんとかしたつもりだったのにもう顔が熱い。肩にかけたタオルでとっさに口元を隠した。

「えらい顔赤いけど、大丈夫?」

「大丈夫…」

ごく普通のトーンの正午の声にいたたまれなさが増す。水でも飲もうと冷蔵庫に近寄ると、正午がついてきた。

「紗季ちゃん」

声が一段、低くなった。

何も言えなくなって、冷蔵庫にすがるように顔を隠して一呼吸置いた。ドアを開けようとした手に、後ろから正午の大きくて骨ばった手が重ねられる。長い指だ。昨日この手にさせたことを思って、隠れられる場所もないのにどうしようもなくなって紗季は背を丸めて隠れようとする。さりげなく両腕の中に囲われて、つむじの上から低い声が降ってきた。

「昨日のこと、なんか思い出した?」

水は諦めて腕から抜け出そうとすれば、本格的にホールドされてしまった。ずいぶん細身で背だけがひょろ高いと見えたが、力はやはり男性だ。びくともしない。少しだけ、胸がきゅっとする。

「なあ。思い出したんやろ? こっち見てみ」

「…むり…」

「ええからほら、紗ー季ちゃん」

ほのかに甘いような正午の香りに包まれて、弱々しく逆らおうとすると腕の力が強まった。紗季の腕ごと抱きしめて囁いてきたのは、あやすような甘ったるい声だった。

「なんやった、やらしてくれるやっけ」

「違うよ!彼…」

にっと笑われた。

「やだもう…」

消えてしまいたい思いで呟いたのに、昨日もずっとやだやだ言ってたと楽しそうに返されて何も言えなくなってしまう。

「今彼氏おらんのよな?一応訊くけど」

「いるように見えます?」

「あーそれ昨日も言っとった」

「え?!やだ、ほんと?」

「フラれたん?」

「え、いやそういうわけじゃなくてもうかなりいな、いや何喋らせるの!」

「自分から言ったんやん」

可愛いな、という囁きが首元を掠めて、ふっと力が抜けた。高いところから降ってくる声が新鮮で、背が高い人っていいななどとのんきに思う。

「…他のことも言ってた?彼氏関係の…何か」

「…元彼が最低とか」

「ああそれ…言っちゃってたか…」

「やっぱそうなんや」

「えっ」

「かまかけた」なんだと。

話してみろと言うのでそれは無理と拒むといきなり肩に顔を埋めてきて、ひゃっと声が出た。

「声もやっぱ可愛いわ」

どうにでもしてくれと思いかけたところで腕は解かれ、えらくご機嫌に頭を撫でられた。

「飯食おう、飯」

どうも肩透かしだ。男というものはこんなに我慢がきくものだっただろうか。

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