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ドレスはやっぱりピンク

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 今をときめく貴公子の婚約破棄の噂は、瞬く間に根も葉もないおまけをつけて広がっていった。

「絶世の美女の恋人ができたとか」
「あら、私は隣国の王女様との縁談の話が来たって聞きましたわよ」
「この前の遠征先で運命的な出会いをしたって話じゃなかった?」

 どれも出どころは不明だが、新しい噂が出る度にクロエがどこからか仕入れてきて律儀に報告してくるので、レオニーも大体の内容は把握していた。

「もう良いわ」
 
 いつものようにお気に入りのソファにもたれかかり、レオニーは項垂れた。

「どこにも真実はなさそうね」

 かと言って、デマだと証明できる根拠もない。結局のところ、ユーグが本当のことを話さない限り真実は誰にもわからない。

 あれから2週間、様々な噂が飛び交う中でレオニーは次第に頭の中が整理できてきた。

 2年もユーグの婚約者をやっていれば、華やかな見た目とは裏腹に聡明で謙虚な彼の性格は、大体理解できている。
 おそらく、レオニーとの婚約破棄を決断する何かがユーグの身に起こった。そして優しいあの貴公子は、できるだけレオニーを傷つけないように、最大限の敬意を持って、けじめをつけるためにあの日訪ねてきたのだろう。真実は決して口にしないと誓って。

「私としましては、お嬢様の悪い噂は立っていないようで一安心致しました」
「そんなの当然よ。世の中は『ユーグ様の』婚約破棄に興味があるのであって、私なんかには毛ほどの関心もないもの」

 クロエの言葉に、レオニーは何を言っているのかと大袈裟に首を振って見せた。
 当のユーグに関しても、様々な話があるものの彼自身が悪く言われるような噂はなさそうだった。それがレオニーにとっても少し嬉しかった。自分とのことが原因で、あの清らかなユーグが悪者扱いを受けるのは耐えられそうになかった。





 ユーグとレオニーの婚約は、元々はお互いの母親同士が取り付けたものであった。

 王宮で育ったユーグの母親と、その執事の娘であったレオニーの母親は姉妹のように育ち、ユーグの母親が嫁いだ後も、唯一無二の親友とも呼べる仲だった。ユーグの両親の人気を確固たるものにした、かの有名な恋愛小説は、実はレオニーの母親が執筆した作品である。
 2人は互いに男の子と女の子を1人ずつ授かり、幼い頃から家族ぐるみで親しく行き来した。やがてユーグが17歳、レオニーが14歳で成人を迎えたその年に、母親達の強い後押しがあって2人は婚約を交わした。

 そんないきさつがあるから、今回の婚約破棄を知った母親はさぞ悲しんでいることだろうとレオニーは内心ビクビクしていたが、意外にも母はあっけらかんとしていた

「ユーグがわざわざ来てくれたんですってね。それでレオニーが納得できたなら、私は何も言う権利はないわ」
「がっかりなさらないの?」
「がっかり? それはもちろん、がっかりしてるわよ。ユーグのことは大好きだし、彼の義母になりたかったって気持ちもまだ燻っているわ。けれどだからと言って、それが貴方達の人生を勝手に決めて良い理由にはならない。ユーグが言ってくれたんでしょう、幸せになってって。それならレオニーもきちんと、その想いに応えなきゃ。しっかりと自分の幸せを見つけなさい」

 慈愛に満ちた母の表情に、レオニーはいくらか救われた。

 しかし母の言う幸せとは、ユーグの両親のような心ときめく恋物語を紡ぐことだということは、レオニーにはよくわかっていた。匿名で作品を発表し続ける母の小説を、レオニーはこっそりクロエに頼んで手に入れ、すべて目を通していた。
 どれもこれも夢のようなラブストーリー。いつも父と言い合いばかりしている気が強い母の、どこにこんな繊細で美しい感性が秘められているのかと未だに不思議だ。

 母の気持ちを汲んだクロエはさっそく、色とりどりの生地にレースやリボンなどを山ほど取り寄せて、レオニーの部屋に運び込んだ。

「何のつもり?」
「お嬢様の新しいドレスをお作りするのです。ここ最近は全くオーダーされていなかったですし、体型も少し変わられたようなので何着かお作りしないといけません」
「いつもゆったりサイズでお願いしてるから問題ないわ」
「普段着用ではなくて、社交用でございます。お嬢様も本当はわかっておいででしょうに」

 唯一心を許せる侍女にピシャリと諭され、レオニーは押し黙った。

 14歳で成人を迎えると同時に婚約したレオニーは、ユーグのエスコートで社交界デビューを果たしたものの、煌びやかで窮屈なあの空間が苦手で、ほとんど出席したことがなかった。

 本来、社交界とは交友関係を広めたり生涯の伴侶を見つけるための、貴族の嗜みの一つである。けれどレオニーには既にユーグという立派な相手がいたため、両親も嫌がるレオニーを積極的に舞踏会に連れて行こうとはしなかった。

 ところが今回の婚約破棄により、そんな悠長なことも言っていられない事態になってきた。レオニーももう今年で16歳。貴族令嬢は17歳にもなれば婚約者がいるのが普通だ。そこを過ぎると相手を見つけるのも難しくなってきて、田舎町にひっそりと移り住むか修道院に入るかしか道はなくなってくる。

「ちゃんとわかってるわ。でもあれからまだ1ヶ月も経ってないのよ。もう少し時間を置かせてくれても」
「お言葉ですが、どれだけ時間を置かれてもお嬢様がご自分から進んで舞踏会に出席する気分になるとは思えません」

 まったくその通りだ。またしてもレオニーはぐっと押し黙った。

 社交界は苦手なものの、ドレスを作ることはレオニーも他の貴族令嬢と同じように大好きで、胸がわくわくした。大好きなピンク色の生地に、少し大人っぽく水色の透けたフリルを組み合わせるのはどうだろう。モスグリーンのドレスに純白のリボンを締めるだけのシンプルなスタイルも渋くて心惹かれる。もうすぐ夏だから、マリンブルーのマーメイドドレスも涼しげで素敵かもしれない。あれこれ想像が膨らむ。

 けれどそのドレスを作った先には、それを着て舞踏会に行かないといけないと思うと、どうにも気が乗らない。レオニーにとってドレスはあくまでも観賞用で、見た目とかけ離れた鎧のような重さも、きつく締め上げられるコルセットも大嫌いだった。

 可愛らしいリボンを手にして、思わずため息が漏れる。

「お嬢様」
「何?」
「難しくお考えにならず、ただの気晴らしだと思われたらいかがですか」
「気晴らし、ねぇ」
「あれから一歩もお外に出られていないのは、さすがにお体に触ります。少し外の空気を吸いに行くだけと、軽いお気持ちで行かれたらよろしいのです」
「そんなこと言われても」
「ダンスや会話など無理になさらず、美味しいお食事を楽しんで来られるだけでも、充分かと思います。今度の夜会は王宮で開催されるそうですから、珍しいスイーツもきっとたくさんございます」
「スイーツを楽しむ、それは良いアイディアね。前にユーグが贈ってくれたギモーヴはあるかしら」
「確認しておきます」
 
 甘いものに目がない主人をよく熟知している侍女にうまいこと言いくるめられ、レオニーは仕方なくドレスの生地を選ぶべく、目の前のテーブルに身を乗り出した。
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