黒覆面の若旦那は嘘つき花嫁をほだして愛する

ワタリ

文字の大きさ
42 / 48

第42話

しおりを挟む
「保胤さん……どうして……! 今日遅くなるって……!」

 保胤の背中越しに見える壁掛けの時計は六時半を指していた。
 夕方と夜の境目のこの時間、本来であれば保胤はまだ仕事中だ。しかも今夜は帰りが遅くなると言っていた。

「早くあなたに会いたくて帰ってきちゃいました」

 保胤はいたずらっぽく笑った。その笑顔に一葉は胸が一杯になり何も言えなくなった。

「お夕飯の準備、僕も手伝います」

 保胤は鞄を台所の隅に置いて背広の上着を脱いだ。玄関からそのままここへ直行したようだ。

「そ、そんなことあなたにさせられません……!」

 ワイシャツの袖を捲り始めた保胤を一葉は慌てて止める。

「どうして? 二人で作った方が早いじゃないですか」
「私がやりますから……保胤さんはどうか休んでいてください!」
「もしかして僕が料理できないと思ってる? これでもね、米ぐらい炊けるんですよ」

 保胤は手を洗い、慣れた手つきで米びつから桝で米をすくってザルに入れる。

「今日は二人だから一合でいいのかな? いや、足りないかな……一葉さんお腹の空き具合はどれぐらい?」
「あの、私がやりますから……ごめんなさい……作り始めるのが遅かったせいであなたにこんなことを」
「一葉さん」

 保胤は一葉の顔を覗き込む。その目があまりに真剣で一葉は息を飲んだ。

「前にも言ったけれど、あなたはこの家の家政婦さんじゃないよ。僕の妻だ。僕の世話をすることはあなたの仕事じゃない。だからそんな風に謝る必要もないんだ」

 保胤の真剣な眼差し。
 直球で優しさのこもった言葉。

(だめ……今、優しくされたら……)

 一葉の瞳に水の膜が張っていく。

「……肉じゃがの味付けお願いしていい? 僕、煮物は濃い目が好きだな」

 一葉はこくんと頷き火を止めた鍋の方を向く。
 泣きそうになっている顔を見られたくはなかった。

 再び鍋からふわふわと湯気が上がり始める。
 少し多めの砂糖と味醂みりんと醤油を鍋に入れると、ふわりと甘じょっぱい匂いが台所に広がる。その横で米を研ぐリズムカルな音が響く。

「あの、味見……お願いします」

 肉じゃがに味を染み込ませている間に一葉は味噌汁を作った。

 今日の具材は豆腐と葱だ。小皿に汁を少し注ぎ、保胤へ渡そうとした。

 二人きりだからか、保胤はマスクを外しっぱなしでいた。

 保胤は小皿を受け取らず一葉の手首を掴んでそのまま自分の口元へ持っていく。軽く頭を下げ小皿に唇を寄せて汁をちゅぅと吸った。

「……ン。うん、おいしいです」

 緒方家に初めて来た日、味噌汁を作った時と同じ光景。だけどあの時とは明確に違う。

 手首を掴んだ保胤の手の冷たさと前髪の感触がこそばい。そこからじわりと熱が生まれる感覚に一葉はまつ毛を震わせる。そして、そんな一葉の反応を保胤が見逃すはずはない。

 そのままゆっくりと、どちらからともなく互いに顔を近づけた。

「……ん」

 段々と合わせる唇が深くなる。一葉が少しでも唇を離すと追いかけるように保胤が唇をふさぐ。

「は……ッ」

 絡まる舌に腰が震えて立っていられずふるふると身体を震わせた。その様子をみて、唇を合わせたまま保胤は一葉の手から小皿をそっと取り上げ焜炉こんろの端に置いた。

 両手が自由になった一葉は保胤にしがみつく。保胤も彼女の腰に手を回して身体を密着させる。一葉は保胤に身を委ね必死についていく。保胤は薄く目を開けて一葉の痴態をしばらく堪能した後、そっと唇を離した。

「……あ……?」

 一葉は名残惜しそうな声を漏らす。

「ふふ……ご飯食べましょうか?」
「……!!!!」

 一葉の濡れた唇を指できゅっと拭う。

「それとも寝室へ行きますか?」
「ご飯を食べましょう!! なんだか私とってもお腹が空いてきました!!」

 一葉はぱっと保胤から身体を離し、水屋からお茶碗とお椀を取り出した。その後ろで保胤はおかしそうに笑った。

「僕、一度荷物を部屋に置いてきますね」

 そう言って鞄と背広の上着を拾って二階へと向かった。保胤の背中を見送り、その姿が見えなくなると一葉は両手で顔を覆う。

(ううううう……私ったらなんて真似を……)

 いつからこんな浅ましくはしたない行動をするようになったのだろう。自分が信じられない。

 一葉は顔を真っ赤にして別の意味で泣きそうになった。それでも、先ほどまでの暗く寂しい感情はどこかへ消え去っていた。










 保胤は書斎に入ると、手に持っていた鞄と上着をソファへ乱暴に投げた。つかつかと早足で机に向かい、受話器をとる。

「……ああ、三上さん? 僕です」

 電話をしながら保胤は机に腰かける。

「会社に電話くれてありがとう。先ほど戻りました。ええ……一葉さんはやはりいつもと様子が違ったよ」

 首元で受話器を固定しながら保胤は首元のネクタイを緩めていく。

「それで? 戻って来た時どこへ行っていたと言った?」

 ネクタイに掛けていた手がピタリと止まる。
 次第に保胤の眉間には深い皺が寄っていく。

「……そう。実家に」

 絞り出すような緊張感のある声は怒りが滲んでいた。

「……分かった。僕の不在中また彼女に異変があったらすぐに連絡してください。ええ、それじゃあ」


 バンッ!!!!!!!!!!!!!!


 受話器を置いた瞬間、保胤は机に拳を振り下ろす。振動で机上の書類がばらばらと落下した。保胤は肩を上下に動かし荒い呼吸を繰り返す。

 今度は弾かれたようにクローゼットへ向かう。シャツを脱ぎ部屋着用の浴衣にさっと着替えた。
 クローゼットにしつらえた姿見に自分の顔が映る。その形相を保胤は鼻で笑った。俯いてふーっと息を吐く。

 保胤は顔をあげる。

 一葉のためだけの、一葉にしか見せない優しい夫の顔を造って部屋を出た。


*********
最新話までお読みいただき本当にありがとうございます。
少しでも気に入っていただけましたら
♡やお気に入り登録いただけると嬉しいです。執筆の励みになります。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ふしあわせに、殿下

古酒らずり
恋愛
帝国に祖国を滅ぼされた王女アウローラには、恋人以上で夫未満の不埒な相手がいる。 最強騎士にして魔性の美丈夫である、帝国皇子ヴァルフリード。 どう考えても女泣かせの男は、なぜかアウローラを強く正妻に迎えたがっている。だが、将来の皇太子妃なんて迷惑である。 そんな折、帝国から奇妙な挑戦状が届く。 ──推理ゲームに勝てば、滅ぼされた祖国が返還される。 ついでに、ヴァルフリード皇子を皇太子の座から引きずり下ろせるらしい。皇太子妃をやめるなら、まず皇太子からやめさせる、ということだろうか? ならば話は簡単。 くたばれ皇子。ゲームに勝利いたしましょう。 ※カクヨムにも掲載しています。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

主人公の義兄がヤンデレになるとか聞いてないんですけど!?

玉響なつめ
恋愛
暗殺者として生きるセレンはふとしたタイミングで前世を思い出す。 ここは自身が読んでいた小説と酷似した世界――そして自分はその小説の中で死亡する、ちょい役であることを思い出す。 これはいかんと一念発起、いっそのこと主人公側について保護してもらおう!と思い立つ。 そして物語がいい感じで進んだところで退職金をもらって夢の田舎暮らしを実現させるのだ! そう意気込んでみたはいいものの、何故だかヒロインの義兄が上司になって以降、やたらとセレンを気にして――? おかしいな、貴方はヒロインに一途なキャラでしょ!? ※小説家になろう・カクヨムにも掲載

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

Melty romance 〜甘S彼氏の執着愛〜

yuzu
恋愛
 人数合わせで強引に参加させられた合コンに現れたのは、高校生の頃に少しだけ付き合って別れた元カレの佐野充希。適当にその場をやり過ごして帰るつもりだった堀沢真乃は充希に捕まりキスされて…… 「オレを好きになるまで離してやんない。」

『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』

鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、 仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。 厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議―― 最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。 だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、 結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。 そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、 次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。 同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。 数々の試練が二人を襲うが―― 蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、 結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。 そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、 秘書と社長の関係を静かに越えていく。 「これからの人生も、そばで支えてほしい。」 それは、彼が初めて見せた弱さであり、 結衣だけに向けた真剣な想いだった。 秘書として。 一人の女性として。 結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。 仕事も恋も全力で駆け抜ける、 “冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。

ハイスぺ幼馴染の執着過剰愛~30までに相手がいなかったら、結婚しようと言ったから~

cheeery
恋愛
パイロットのエリート幼馴染とワケあって同棲することになった私。 同棲はかれこれもう7年目。 お互いにいい人がいたら解消しようと約束しているのだけど……。 合コンは撃沈。連絡さえ来ない始末。 焦るものの、幼なじみ隼人との生活は、なんの不満もなく……っというよりも、至極の生活だった。 何かあったら話も聞いてくれるし、なぐさめてくれる。 美味しい料理に、髪を乾かしてくれたり、買い物に連れ出してくれたり……しかも家賃はいらないと受け取ってもくれない。 私……こんなに甘えっぱなしでいいのかな? そしてわたしの30歳の誕生日。 「美羽、お誕生日おめでとう。結婚しようか」 「なに言ってるの?」 優しかったはずの隼人が豹変。 「30になってお互いに相手がいなかったら、結婚しようって美羽が言ったんだよね?」 彼の秘密を知ったら、もう逃げることは出来ない。 「絶対に逃がさないよ?」

処理中です...