許された危険

凪子

文字の大きさ
15 / 26
【1】アリオン

15

しおりを挟む
フロアに戻る階段の手前で気配もなく弥生が立っているのを見て、英理は足を止めた。

「ありがとうございました」

優美なお辞儀をされて、戸惑う。

「えっと。俺、何かお礼言われるようなことしたっけ」

弥生は答えず、じっと英理の目を見つめてくる。

限りなく透明な瞳の中に、彼女だけの国がある。

吸い込まれそうで、英理はおののいた。

「江本さんはさ……」

ぐっと足を踏ん張り、歯を噛みしめて言う。

「何でうちの会社に入ろうと思ったの」

弥生は奥ゆかしくまばたきをした。

ほんの数秒の沈黙でも、相手によっては数十倍長く感じられることがある。

英理にとって、弥生はそういう存在だった。

会話の継ぎ目に生まれる間を利用するために、決して自ら埋めようとはしない傲慢さ。

――気づけば、近づかなくていい理由ばかり探している。

「好きだから」

「えっ?」

「ピアノが好きだから。いつか、ピアノ教室を開きたいと思ってるんです」

その途端、脳内で何かが弾けた。

撃鉄が起こり、記憶の引き金を引く音がする。

――忘れてた。そうだ、あの時……。

放課後の音楽室、弥生の奏でていた調べ。

思い出した瞬間、連鎖のように追憶が一気に溢れ出す。

我知らず、英理の足は震え始めていた。

――駄目だ……思い出したくない。思い出したくない。

分かっていた。自分は、凜に嘘をついていたことを。

本当は、理由はあったのだ。

江本弥生を忌避する感情がどこから生まれくるのか、ちゃんと知っていた。

知っていたけれど認めたくなくて、だから、あんな風にぼやかした言い方しかできなかったのだ。

「向井君は、覚えていますか」

弥生のおとなしやかな声が、背後から忍び寄る。

「……何を」

声に出して初めて、喉がからからに乾いていることに気づいた。

三上保みかみ・たもつ君を」

痛烈な一撃がもたらす効果を見逃すまいと、弥生は英理の顔の表に研ぎ澄まされた視線を注いでいる。

叫び出したい衝動と逃げ出したい気持ちが、ないまぜになって英理の胸に押し寄せた。

堪えるのが精一杯で、ぎゅっと硬く目をつむる。

背中に冷たい汗が噴き出すのが分かった。

「いたいた。何してるの、向井君」

慶子の声が横合いから飛んできて、金縛りが解けたかのように英理は自由を取り戻した。

「十六時から会議って言ってたでしょう。部長、かんかんに怒ってるよ」

「すいません」

慌てて階段を一段飛ばしで駆け出した英理の背後で、ひとひらの言葉が風に舞う。

「ごめんなさい」

――え?

肩越しに振り向くと、弥生の姿はもうそこにはなかった。

聞き違いだったのだろうかと思い、特に心に留めず聞き流し、英理は業務へ戻る。

――その言葉の意味を思い知ることになるのは、ずっと後になってからのことだった。
















































しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

優しい雨が降る夜は

葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン 無自覚にモテる地味子に 余裕もなく翻弄されるイケメン 二人の恋は一筋縄ではいかなくて…… 雨降る夜に心に届いた 優しい恋の物語 ⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡ 風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格 雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン

結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~

馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」 入社した会社の社長に 息子と結婚するように言われて 「ま、なぶくん……」 指示された家で出迎えてくれたのは ずっとずっと好きだった初恋相手だった。 ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ ちょっぴり照れ屋な新人保険師 鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno- × 俺様なイケメン副社長 遊佐 学 -Manabu Yusa- ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 「これからよろくね、ちとせ」 ずっと人生を諦めてたちとせにとって これは好きな人と幸せになれる 大大大チャンス到来! 「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」 この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。 「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」 自分の立場しか考えてなくて いつだってそこに愛はないんだと 覚悟して臨んだ結婚生活 「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」 「あいつと仲良くするのはやめろ」 「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」 好きじゃないって言うくせに いつだって、強引で、惑わせてくる。 「かわいい、ちとせ」 溺れる日はすぐそこかもしれない ◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌ 俺様なイケメン副社長と そんな彼がずっとすきなウブな女の子 愛が本物になる日は……

俺様御曹司に飼われました

馬村 はくあ
恋愛
新入社員の心海が、与えられた社宅に行くと先住民が!? 「俺に飼われてみる?」 自分の家だと言い張る先住民に出された条件は、カノジョになること。 しぶしぶ受け入れてみるけど、俺様だけど優しいそんな彼にいつしか惹かれていって……

踏み台(王女)にも事情はある

mios
恋愛
戒律の厳しい修道院に王女が送られた。 聖女ビアンカに魔物をけしかけた罪で投獄され、処刑を免れた結果のことだ。 王女が居なくなって平和になった筈、なのだがそれから何故か原因不明の不調が蔓延し始めて……原因究明の為、王女の元婚約者が調査に乗り出した。

罪悪と愛情

暦海
恋愛
 地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。  だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています

紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、 ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。 「もう君は、僕の管理下だよ」 退院と同時に退職手続きは完了。 住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。 外出制限、健康管理、過保護な独占欲。 甘くて危険な“保護生活”の中で、 私は少しずつ彼に心を奪われていく――。 元社畜OL×執着気味の溺愛社長 囲い込み同棲ラブストーリー。

処理中です...