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【2】ヴェリナス
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マンションまで帰りつくと、身を投げ出すようにして英理はソファーに倒れ込んだ。
全身がだるく、水の中にいるように体が重かった。
「寝るならベッドで寝ろよ。風邪ひくぞ」
スーツケースを置き、ネクタイを緩めながら有理が声をかける。
「ほら、胃薬だけでも飲んどけ」
コップに水を汲んで持ってきてくれたのを受け取る。
「ごめん。どっちが客か分かんないな」
英理はすまなそうに言った。
先ほどまで意思の力で押さえ込んでいた吐き気は、家に帰りつくなり再び勢力を増大させていた。
下腹部から脇腹にかけてが鈍く痛みだし、額に脂汗が滲む。
――気持ち悪い。
流しそこねた石鹸のついた生ぬるい手で体中をさわられているような、たまらなく嫌な心地がする。
息子と同い年の女にトチ狂う父も、父親のような歳の男と平気で結婚する弥生も、どちらも消え去ってしまえばいい。
「実家だけどな」
「え?」
薬を飲んでうつらうつらし始めていた英理は、兄の声に聞き返した。
「うちの家、リフォームして減築するんだと。どっちにしろ俺たちはもうあの家には戻らないし、彼女もそのほうが住みやすいだろうって、親父が言ってた。退職金の一部で賄うんだってさ」
淡々と言った有理の言葉が、胸に痛く沁みてくる。
取り壊される家の姿を想像するのは辛い。
けれども、母と父と兄と四人で暮らした、思い出の詰まった場所に土足で踏み込まれるのは耐え難かった。
「何で……こんなことになっちゃったのかな」
冷蔵庫から勝手に取り出したビール片手に、有理はテレビのニュースを見つめている。
「俺には分からないよ。親父が何を考えてるのか、ちっとも分からない」
「そうだな」
宥めるでも慰めるでもなく、およそ温度の感じられない声で有理は答えた。
「俺にもよく分からないけど、多分、親父は寂しかったんだろう。寂しくて人恋しくて、誰かと一緒にいたかった。その思いに応えてくれたのが、彼女だったんじゃないか」
「江本さんでなければ、俺だって賛成したよ」
英理は切羽詰まった声で叫んだ。
「母さんが死んでから、俺だって兄貴だって、少しも親父を顧みずに放っておいたんだ。一人ぼっちにしておいた責任があることくらい、俺だって分かってる。今さら裏切りだとか、反対とか、責める筋合いなんてないんだ」
「まあ、落ちつけって」
有理は振り向いて言った。
「その点じゃ俺も共犯だ。というか、俺のほうが罪が重い。お前は少なくとも、大学卒業までちゃんと家にいてやったんだからな」
英理の呼吸が静まってくると、有理は続けた。
「確かに、お前の言いたいことは分かる。でも、どんなに素晴らしい人格者にせよ、どんな美人にせよ、何歳差にせよ、お前が親父の再婚相手を素直に好ましいと思えたかどうかは、正直微妙なところだと思う。
反発するのは、むしろ当然の感情だよ」
有理は言い、かすかに浅い笑みを浮かべた。
「それに、『あの女さえいなければ人生は狂わなかった』みたいなことを言う奴がいるけど、俺はあまりその言葉を信じてないんだ。身を持ち崩したのは、女のせいじゃないことがほとんどだからな。
実際そういう奴は、その女じゃなくても別の女にはまるか、酒か博打にでも足をすくわれてるもんだ。
親父はそこまで馬鹿じゃないと思うが、もし本当に騙されてるんだとしたら、それは彼女を選んだ親父の責任であって、止めなかった俺たちのせいじゃない」
「そういうことを言ってるんじゃない」
思わず声を荒げると、有理はビールを飲んでいた手を止めた。
――どうして分からないんだ。親父も、兄貴も。
抑えようのない苛立ちが込み上げてくる。
このままじゃ駄目だと分かっているのに、何一つ止める手立てを持たない自分に。
「江本さんは……親父の手に負える相手じゃない」
きつく唇を噛みしめる。
尋常ならざる様子に有理が目を丸くし、テレビを消してこちらを凝視した。
「どういう意味だ」
真剣な表情で問い詰める。
「親父は知らないんだ。彼女、今、俺の会社で働いてる」
有理は目をみはった。
彼女が目の前に現れた瞬間、悪夢のようだと思った。まるで悪夢だと。
会社に入ったときも――今日も。
多分、十年前のあのときも。
「普段は存在なんか忘れてる。でも気がつくと、いつもそこにいるんだ。何かが起こるときは、いつも」
こめかみに錆びた釘を打ち込まれたような痛みが走り、英理は顔を歪めた。
有理は何事かを考え込むようにうつむいていたが、はっとしたように顔を上げた。
「中学の同級生と言ったな」
その瞳が、弾力と硬度を増して引き絞られる。
「もしかして、あの時の事故の」
そうだと答えようとして、言葉にならなかった。
英理が目顔で頷くと、有理は天を仰いで息をついた。
「何てこった……。親父の奴、とんでもない拾い物をしちまったらしい」
全身がだるく、水の中にいるように体が重かった。
「寝るならベッドで寝ろよ。風邪ひくぞ」
スーツケースを置き、ネクタイを緩めながら有理が声をかける。
「ほら、胃薬だけでも飲んどけ」
コップに水を汲んで持ってきてくれたのを受け取る。
「ごめん。どっちが客か分かんないな」
英理はすまなそうに言った。
先ほどまで意思の力で押さえ込んでいた吐き気は、家に帰りつくなり再び勢力を増大させていた。
下腹部から脇腹にかけてが鈍く痛みだし、額に脂汗が滲む。
――気持ち悪い。
流しそこねた石鹸のついた生ぬるい手で体中をさわられているような、たまらなく嫌な心地がする。
息子と同い年の女にトチ狂う父も、父親のような歳の男と平気で結婚する弥生も、どちらも消え去ってしまえばいい。
「実家だけどな」
「え?」
薬を飲んでうつらうつらし始めていた英理は、兄の声に聞き返した。
「うちの家、リフォームして減築するんだと。どっちにしろ俺たちはもうあの家には戻らないし、彼女もそのほうが住みやすいだろうって、親父が言ってた。退職金の一部で賄うんだってさ」
淡々と言った有理の言葉が、胸に痛く沁みてくる。
取り壊される家の姿を想像するのは辛い。
けれども、母と父と兄と四人で暮らした、思い出の詰まった場所に土足で踏み込まれるのは耐え難かった。
「何で……こんなことになっちゃったのかな」
冷蔵庫から勝手に取り出したビール片手に、有理はテレビのニュースを見つめている。
「俺には分からないよ。親父が何を考えてるのか、ちっとも分からない」
「そうだな」
宥めるでも慰めるでもなく、およそ温度の感じられない声で有理は答えた。
「俺にもよく分からないけど、多分、親父は寂しかったんだろう。寂しくて人恋しくて、誰かと一緒にいたかった。その思いに応えてくれたのが、彼女だったんじゃないか」
「江本さんでなければ、俺だって賛成したよ」
英理は切羽詰まった声で叫んだ。
「母さんが死んでから、俺だって兄貴だって、少しも親父を顧みずに放っておいたんだ。一人ぼっちにしておいた責任があることくらい、俺だって分かってる。今さら裏切りだとか、反対とか、責める筋合いなんてないんだ」
「まあ、落ちつけって」
有理は振り向いて言った。
「その点じゃ俺も共犯だ。というか、俺のほうが罪が重い。お前は少なくとも、大学卒業までちゃんと家にいてやったんだからな」
英理の呼吸が静まってくると、有理は続けた。
「確かに、お前の言いたいことは分かる。でも、どんなに素晴らしい人格者にせよ、どんな美人にせよ、何歳差にせよ、お前が親父の再婚相手を素直に好ましいと思えたかどうかは、正直微妙なところだと思う。
反発するのは、むしろ当然の感情だよ」
有理は言い、かすかに浅い笑みを浮かべた。
「それに、『あの女さえいなければ人生は狂わなかった』みたいなことを言う奴がいるけど、俺はあまりその言葉を信じてないんだ。身を持ち崩したのは、女のせいじゃないことがほとんどだからな。
実際そういう奴は、その女じゃなくても別の女にはまるか、酒か博打にでも足をすくわれてるもんだ。
親父はそこまで馬鹿じゃないと思うが、もし本当に騙されてるんだとしたら、それは彼女を選んだ親父の責任であって、止めなかった俺たちのせいじゃない」
「そういうことを言ってるんじゃない」
思わず声を荒げると、有理はビールを飲んでいた手を止めた。
――どうして分からないんだ。親父も、兄貴も。
抑えようのない苛立ちが込み上げてくる。
このままじゃ駄目だと分かっているのに、何一つ止める手立てを持たない自分に。
「江本さんは……親父の手に負える相手じゃない」
きつく唇を噛みしめる。
尋常ならざる様子に有理が目を丸くし、テレビを消してこちらを凝視した。
「どういう意味だ」
真剣な表情で問い詰める。
「親父は知らないんだ。彼女、今、俺の会社で働いてる」
有理は目をみはった。
彼女が目の前に現れた瞬間、悪夢のようだと思った。まるで悪夢だと。
会社に入ったときも――今日も。
多分、十年前のあのときも。
「普段は存在なんか忘れてる。でも気がつくと、いつもそこにいるんだ。何かが起こるときは、いつも」
こめかみに錆びた釘を打ち込まれたような痛みが走り、英理は顔を歪めた。
有理は何事かを考え込むようにうつむいていたが、はっとしたように顔を上げた。
「中学の同級生と言ったな」
その瞳が、弾力と硬度を増して引き絞られる。
「もしかして、あの時の事故の」
そうだと答えようとして、言葉にならなかった。
英理が目顔で頷くと、有理は天を仰いで息をついた。
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