許された危険

凪子

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【2】ヴェリナス

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弥生が職場に退職届を提出したのは、六月一日のことだった。

六月十四日の金曜日には入籍し、正式に向井の姓を名乗ることになる。

退職は業務引き継ぎ後、六月末日付ということだったが、有給消化の期間を差し引くと、入籍とほぼ同時に会社には姿を見せなくなるようだった。

「ちょっと、聞いたよ。どういうこと?」

英理の机には勤務中も時間外も、ひっきりなしに人が訪れて事の詳細を知りたがった。

三十歳以上年の離れた男性、しかも同僚の父親と結婚するというのだから、口の端に上らないはずはなかった。

六月から二週間余り、社内中を矢のように回る噂の的になることと質問の応酬に疲れ果て、英理は日ごとに出社するのが憂鬱になっていた。

朝はぎりぎりに出社し、昼は外食で済ませ、仕事を終えるとそそくさと帰ることで逃げを打ったものの、日は経つにつれ騒ぎは下火になるどころか、ますますエスカレートしていくばかりであった。

しかも、当の本人は澄ました顔で何を聞かれても取りつく島がないということで、英理はその余波をもろに喰らう羽目になる。

「疲れた……」

一人になれる場所を探し回り、非常階段に出てようやく一息つくと、口から言葉がこぼれ落ちてきた。

「邪魔だよ、どいて」

下から上がってきた浅間栄が、バケツと雑巾を手につっけんどんな態度で言った。

「あ、すいません」

慌てて左に避けた英理を一瞥し、簡潔に栄は罵った。

「何、辛気くさい顔してるの」

だが、彼女の目のかすかな柔らかさに、もしかすると気遣ってくれたのかもしれないという憶測が生じた。

「いやあ……ははは」

どう応えてよいか判じかねて、結果的に腰砕けのへらへら笑いしか出てこない。

栄は不審感を満載した表情で、心もち体を引き気味にした。

気持ち悪がられていると悟った英理は、慌てて取り繕う。

「浅間さんは、お元気ですか」

「お元気なわけないだろう」

愚にもつかない質問を、栄は鼻息一つで吹き飛ばした。

「ですよね……」

どうあっても噛み合わず、うまくいかない会話に、英理は無意味な敗北感を抱いて去ろうとした。

「金目当てでもいいんじゃないの」

背中に向かって、声が飛んできた。

およそこの場には不似合いの、穏やかでない単語に、英理は足を止めて振り向いた。

「食事から下の世話まで引き受けようって覚悟で嫁ぐんだから、周りがとやかく言うことじゃないよ」

どうやら、江本弥生のことを言っているらしい。

栄が知っているということは、噂は社内の末端まで蔓延しているに違いない。

「あと十年もすりゃ、介護だよ」

ほつれた後れ毛を耳の後ろに乱雑にかき上げ、栄は誰に言うでもなく吐き捨てた。

介護という単語が鉛玉のような重さで胸にぶち当たってくる。

返す言葉が見当たらず、英理は立ち尽くした。

「若い頃はそんなこと、考えもしないんだろうけどね」

栄の目が侮蔑を帯びる。

英理と、恐らくは弥生に向かって。

「あんたも認知症の人、相手にしてみなさいよ。一日で、首絞めて殺したくなるよ」

物騒な台詞と栄の表情の忌まわしさに、英理は及び腰になった。

これ以上聞いていられず、今すぐこの場を立ち去りたくなる。

だが栄の果てしない誰かに向けられた剣幕が、それを許さなかった。

「二十四時間いつでも徘徊するわ、物は壊すわ、糞尿は垂れ流しにするわ、暴れるわ、汚いわ臭いわ」

言い連ねて、栄は鋭利な鼻息で言葉を切った。

「それでも、生きてる限り誰かが面倒見なきゃいけない。人間、最後はそんなもんだよ」

英理は目の前にいるこの中年女性に、何とも言えない嫌悪感を覚えていた。

嫌な言い方も、土気色をした乾いた肌も、節くれだった指や腕も、白髪の混じったみすぼらしい髪も、全て。

視界に入れたくない、置き去りにしたいもの全てを、ありありと突きつけてくる。不愉快極まりない。

「結婚すれば、後悔するって言いたいんですか」

つい切り口上になって、英理は食い下がる。

栄は英理の内情を見透かしたような目で、にべもなく言った。

「そんなことは私は知らないよ。知ったことじゃない」

大きな音を立てて非常階段の扉が閉まる。

その瞬間を待ち受けていたかのように、灰色の空を割って、雨が降り始めた。










































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