21 / 26
【2】ヴェリナス
21
しおりを挟む
弥生が職場に退職届を提出したのは、六月一日のことだった。
六月十四日の金曜日には入籍し、正式に向井の姓を名乗ることになる。
退職は業務引き継ぎ後、六月末日付ということだったが、有給消化の期間を差し引くと、入籍とほぼ同時に会社には姿を見せなくなるようだった。
「ちょっと、聞いたよ。どういうこと?」
英理の机には勤務中も時間外も、ひっきりなしに人が訪れて事の詳細を知りたがった。
三十歳以上年の離れた男性、しかも同僚の父親と結婚するというのだから、口の端に上らないはずはなかった。
六月から二週間余り、社内中を矢のように回る噂の的になることと質問の応酬に疲れ果て、英理は日ごとに出社するのが憂鬱になっていた。
朝はぎりぎりに出社し、昼は外食で済ませ、仕事を終えるとそそくさと帰ることで逃げを打ったものの、日は経つにつれ騒ぎは下火になるどころか、ますますエスカレートしていくばかりであった。
しかも、当の本人は澄ました顔で何を聞かれても取りつく島がないということで、英理はその余波をもろに喰らう羽目になる。
「疲れた……」
一人になれる場所を探し回り、非常階段に出てようやく一息つくと、口から言葉がこぼれ落ちてきた。
「邪魔だよ、どいて」
下から上がってきた浅間栄が、バケツと雑巾を手につっけんどんな態度で言った。
「あ、すいません」
慌てて左に避けた英理を一瞥し、簡潔に栄は罵った。
「何、辛気くさい顔してるの」
だが、彼女の目のかすかな柔らかさに、もしかすると気遣ってくれたのかもしれないという憶測が生じた。
「いやあ……ははは」
どう応えてよいか判じかねて、結果的に腰砕けのへらへら笑いしか出てこない。
栄は不審感を満載した表情で、心もち体を引き気味にした。
気持ち悪がられていると悟った英理は、慌てて取り繕う。
「浅間さんは、お元気ですか」
「お元気なわけないだろう」
愚にもつかない質問を、栄は鼻息一つで吹き飛ばした。
「ですよね……」
どうあっても噛み合わず、うまくいかない会話に、英理は無意味な敗北感を抱いて去ろうとした。
「金目当てでもいいんじゃないの」
背中に向かって、声が飛んできた。
およそこの場には不似合いの、穏やかでない単語に、英理は足を止めて振り向いた。
「食事から下の世話まで引き受けようって覚悟で嫁ぐんだから、周りがとやかく言うことじゃないよ」
どうやら、江本弥生のことを言っているらしい。
栄が知っているということは、噂は社内の末端まで蔓延しているに違いない。
「あと十年もすりゃ、介護だよ」
ほつれた後れ毛を耳の後ろに乱雑にかき上げ、栄は誰に言うでもなく吐き捨てた。
介護という単語が鉛玉のような重さで胸にぶち当たってくる。
返す言葉が見当たらず、英理は立ち尽くした。
「若い頃はそんなこと、考えもしないんだろうけどね」
栄の目が侮蔑を帯びる。
英理と、恐らくは弥生に向かって。
「あんたも認知症の人、相手にしてみなさいよ。一日で、首絞めて殺したくなるよ」
物騒な台詞と栄の表情の忌まわしさに、英理は及び腰になった。
これ以上聞いていられず、今すぐこの場を立ち去りたくなる。
だが栄の果てしない誰かに向けられた剣幕が、それを許さなかった。
「二十四時間いつでも徘徊するわ、物は壊すわ、糞尿は垂れ流しにするわ、暴れるわ、汚いわ臭いわ」
言い連ねて、栄は鋭利な鼻息で言葉を切った。
「それでも、生きてる限り誰かが面倒見なきゃいけない。人間、最後はそんなもんだよ」
英理は目の前にいるこの中年女性に、何とも言えない嫌悪感を覚えていた。
嫌な言い方も、土気色をした乾いた肌も、節くれだった指や腕も、白髪の混じったみすぼらしい髪も、全て。
視界に入れたくない、置き去りにしたいもの全てを、ありありと突きつけてくる。不愉快極まりない。
「結婚すれば、後悔するって言いたいんですか」
つい切り口上になって、英理は食い下がる。
栄は英理の内情を見透かしたような目で、にべもなく言った。
「そんなことは私は知らないよ。知ったことじゃない」
大きな音を立てて非常階段の扉が閉まる。
その瞬間を待ち受けていたかのように、灰色の空を割って、雨が降り始めた。
六月十四日の金曜日には入籍し、正式に向井の姓を名乗ることになる。
退職は業務引き継ぎ後、六月末日付ということだったが、有給消化の期間を差し引くと、入籍とほぼ同時に会社には姿を見せなくなるようだった。
「ちょっと、聞いたよ。どういうこと?」
英理の机には勤務中も時間外も、ひっきりなしに人が訪れて事の詳細を知りたがった。
三十歳以上年の離れた男性、しかも同僚の父親と結婚するというのだから、口の端に上らないはずはなかった。
六月から二週間余り、社内中を矢のように回る噂の的になることと質問の応酬に疲れ果て、英理は日ごとに出社するのが憂鬱になっていた。
朝はぎりぎりに出社し、昼は外食で済ませ、仕事を終えるとそそくさと帰ることで逃げを打ったものの、日は経つにつれ騒ぎは下火になるどころか、ますますエスカレートしていくばかりであった。
しかも、当の本人は澄ました顔で何を聞かれても取りつく島がないということで、英理はその余波をもろに喰らう羽目になる。
「疲れた……」
一人になれる場所を探し回り、非常階段に出てようやく一息つくと、口から言葉がこぼれ落ちてきた。
「邪魔だよ、どいて」
下から上がってきた浅間栄が、バケツと雑巾を手につっけんどんな態度で言った。
「あ、すいません」
慌てて左に避けた英理を一瞥し、簡潔に栄は罵った。
「何、辛気くさい顔してるの」
だが、彼女の目のかすかな柔らかさに、もしかすると気遣ってくれたのかもしれないという憶測が生じた。
「いやあ……ははは」
どう応えてよいか判じかねて、結果的に腰砕けのへらへら笑いしか出てこない。
栄は不審感を満載した表情で、心もち体を引き気味にした。
気持ち悪がられていると悟った英理は、慌てて取り繕う。
「浅間さんは、お元気ですか」
「お元気なわけないだろう」
愚にもつかない質問を、栄は鼻息一つで吹き飛ばした。
「ですよね……」
どうあっても噛み合わず、うまくいかない会話に、英理は無意味な敗北感を抱いて去ろうとした。
「金目当てでもいいんじゃないの」
背中に向かって、声が飛んできた。
およそこの場には不似合いの、穏やかでない単語に、英理は足を止めて振り向いた。
「食事から下の世話まで引き受けようって覚悟で嫁ぐんだから、周りがとやかく言うことじゃないよ」
どうやら、江本弥生のことを言っているらしい。
栄が知っているということは、噂は社内の末端まで蔓延しているに違いない。
「あと十年もすりゃ、介護だよ」
ほつれた後れ毛を耳の後ろに乱雑にかき上げ、栄は誰に言うでもなく吐き捨てた。
介護という単語が鉛玉のような重さで胸にぶち当たってくる。
返す言葉が見当たらず、英理は立ち尽くした。
「若い頃はそんなこと、考えもしないんだろうけどね」
栄の目が侮蔑を帯びる。
英理と、恐らくは弥生に向かって。
「あんたも認知症の人、相手にしてみなさいよ。一日で、首絞めて殺したくなるよ」
物騒な台詞と栄の表情の忌まわしさに、英理は及び腰になった。
これ以上聞いていられず、今すぐこの場を立ち去りたくなる。
だが栄の果てしない誰かに向けられた剣幕が、それを許さなかった。
「二十四時間いつでも徘徊するわ、物は壊すわ、糞尿は垂れ流しにするわ、暴れるわ、汚いわ臭いわ」
言い連ねて、栄は鋭利な鼻息で言葉を切った。
「それでも、生きてる限り誰かが面倒見なきゃいけない。人間、最後はそんなもんだよ」
英理は目の前にいるこの中年女性に、何とも言えない嫌悪感を覚えていた。
嫌な言い方も、土気色をした乾いた肌も、節くれだった指や腕も、白髪の混じったみすぼらしい髪も、全て。
視界に入れたくない、置き去りにしたいもの全てを、ありありと突きつけてくる。不愉快極まりない。
「結婚すれば、後悔するって言いたいんですか」
つい切り口上になって、英理は食い下がる。
栄は英理の内情を見透かしたような目で、にべもなく言った。
「そんなことは私は知らないよ。知ったことじゃない」
大きな音を立てて非常階段の扉が閉まる。
その瞬間を待ち受けていたかのように、灰色の空を割って、雨が降り始めた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
優しい雨が降る夜は
葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン
無自覚にモテる地味子に
余裕もなく翻弄されるイケメン
二人の恋は一筋縄ではいかなくて……
雨降る夜に心に届いた
優しい恋の物語
⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡
風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格
雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン
結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~
馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」
入社した会社の社長に
息子と結婚するように言われて
「ま、なぶくん……」
指示された家で出迎えてくれたのは
ずっとずっと好きだった初恋相手だった。
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
ちょっぴり照れ屋な新人保険師
鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno-
×
俺様なイケメン副社長
遊佐 学 -Manabu Yusa-
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
「これからよろくね、ちとせ」
ずっと人生を諦めてたちとせにとって
これは好きな人と幸せになれる
大大大チャンス到来!
「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」
この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。
「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」
自分の立場しか考えてなくて
いつだってそこに愛はないんだと
覚悟して臨んだ結婚生活
「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」
「あいつと仲良くするのはやめろ」
「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」
好きじゃないって言うくせに
いつだって、強引で、惑わせてくる。
「かわいい、ちとせ」
溺れる日はすぐそこかもしれない
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
俺様なイケメン副社長と
そんな彼がずっとすきなウブな女の子
愛が本物になる日は……
俺様御曹司に飼われました
馬村 はくあ
恋愛
新入社員の心海が、与えられた社宅に行くと先住民が!?
「俺に飼われてみる?」
自分の家だと言い張る先住民に出された条件は、カノジョになること。
しぶしぶ受け入れてみるけど、俺様だけど優しいそんな彼にいつしか惹かれていって……
踏み台(王女)にも事情はある
mios
恋愛
戒律の厳しい修道院に王女が送られた。
聖女ビアンカに魔物をけしかけた罪で投獄され、処刑を免れた結果のことだ。
王女が居なくなって平和になった筈、なのだがそれから何故か原因不明の不調が蔓延し始めて……原因究明の為、王女の元婚約者が調査に乗り出した。
罪悪と愛情
暦海
恋愛
地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。
だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています
紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、
ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。
「もう君は、僕の管理下だよ」
退院と同時に退職手続きは完了。
住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。
外出制限、健康管理、過保護な独占欲。
甘くて危険な“保護生活”の中で、
私は少しずつ彼に心を奪われていく――。
元社畜OL×執着気味の溺愛社長
囲い込み同棲ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる