約束の花言葉

桜糀いろは

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第3話 - 2

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「どうしたら、いいんだろ」
 陽夏は思わず独り言を口にした。コーヒーを淹れに「扉のないキッチン」へと来てみたものの、室内には立派なシステムキッチンを始め、大きなアイランドカウンターや戸棚など、非常にたくさんの収納場所があったのだ。
(どこに何があって、どれを使えばいいのやら……にしても、こんなすごい設備なのに、食事する場所と作る場所がまた別にあるなんて)
 歌緒理の説明では、この部屋をキッチンと呼んではいるが、もっぱら休憩場所として使用しているとのことだった。
(そうそう、あの時、歌緒理さん他にも用事があるとかで、細かいことまで聞けなかったんだよね)
 どうやら彼女はオーガニックカフェのオーナー以外にも仕事を持っているようだ。今朝、自分がこの家に到着した際も、彼女は入れ違うようにして玄関前に停まっていた車へと乗り込み、外出してしまったのだ。
(お店にはいつも午後来てたのに、あんな朝早くどこに行ったんだろう? あーあ、歌緒理さんのお家で働けたのはいいんだけど、歌緒理さんと一緒にいられる時間が減っちゃったのは残念……ていうか、この感じだともう会えないんじゃ……)
 二十畳はあると思われる広々とした室内に陽夏は目を遣った。
「わぁ……すごい」
 壁に掛かっていた絵画が目に留まる。今までシステムキッチンの方ばかりを見ていたせいで、反対側にあった絵画の存在にまったく気がつかなかったのだ。
(ヨーロッパの町並み、かな?)
 側に寄ってみる。すると筆遣いまでもが見て取れた。
(すごい、本物の油絵だ)
「て、しまった。コーヒー作らないと」
 ふと本来の目的を思い出した途端、陽夏は焦りを覚えた。
「コーヒーメーカーのでいいのかな? それともハンドドリップ?」
 ひとまずキッチンに備え付けられていたコーヒーメーカーの前へと立つ。コーヒーサーバーの中は空っぽだ。
(えっと、フィルターと豆は……)
 近くの戸棚に目を向ける。自由に使っていいと言われてはいたが、いざ開けるとなるとなんだか気が引けてしまった。しかし、時間は刻一刻と進んでいく。
(これはお仕事なんだし、いいよね)
 陽夏は小さく頷いた後、戸棚に手を伸ばした。
「またおまえかよ」
 陽夏の手がぴたりと止まる。声の調子からして、彼は相当不機嫌だということが、背を向けていても分かった。
(出来ればスルーしたいけど……)
 彼に聞いた方が良いのではないだろうか。陽夏はくるりと身体を回し、彼と向き合った。
「おはようございます、秋さん。って、なんですか! その格好はっ」
 陽夏の笑みが一瞬にして崩れる。彼はスウェットパンツを穿いていただけで、上半身裸の、しかも裸足だった。
(筋肉、すご……って、コラ! 秋さんの顔を見て、話さないと)
 そう思うも、彼の上半身に目が釘付けになってしまう。
(何かスポーツでもやってるのかな? じゃないと、こんな引き締まった身体にはなれないよね)
 思わず感嘆の声を漏らしそうになる。けれど秋の次の一声で、陽夏の声は引っ込んでいったのだった。
「あ? 俺がどんな格好をしてようが別にいいだろ。ここは俺の家だしな。つーか、そこ。使うから、どけよ」
 怖い顔をして秋が近づいてくる。陽夏は大人しく横にずれた。
「……マジかよ。紀愛のあの奴、また……」
 両手を突き、秋がコーヒーメーカーの前でガクリと首を折る。それを見た陽夏は咄嗟に口を開けた。
「あの、今からコーヒーを淹れようと思ってるんですけど、豆とかどこにあるか分からなくて……その、もしご存じでしたら――」
「知ってるけど、おまえに教える時間も、義務も、俺にはない 」
 秋が睨みを利かせて言葉を被せてくる。
(ですよね……)
 陽夏は苦笑しながら、心の中でそう呟いた。
「紀愛を呼べ」
「え?」
「おまえっ……。うち用のスマホ持ってんだろ。それで連絡取れよ」
「あ! そっか! そうですね! 秋さん、ありがとうございます!」
 解決策が見つかった嬉しさから、陽夏は声を弾ませて秋に礼を告げた。
(これ、鍵開けるだけじゃなかったんだ)
 昨日、歌緒理に渡されたスマートフォンを取り出す。鍵としての役割を果たしているため紛失には充分注意するように、との説明と一緒に受け取ったせいなのか、これで連絡を取り合える、とまで考えが及んでいなかった。
(今朝すれ違った時に、何かあれば紀愛ちゃんに聞いてね、って歌緒理さん言ってたけど、それって直接じゃなくてもよかったんだ)
 スマホのロックを解除し、陽夏は連絡先一覧を開いた。
「えっ?」
 陽夏の顔がスマホへと吸い寄せられる。おそらく歌緒理が設定したのだろう。一覧には「あおいくん」、「あきくん」、「のあちゃん」と表示されており、名前の最後にはハートマークが付いていたのだった。
(しかも、写真まである……歌緒理さん以外、みんな子どもの頃のみたいなんだけど……)
 目の前にいる人物を見比べてみる。あどけない笑顔の男の子と、しかめっ面の青年。
「なんだよ」
「いえ、何でもないです」
 浮かびそうになる笑みを必死に抑え、陽夏は「のあちゃん」をタップし、スマホを耳にぴたりとあてた。
「きゃっ!」
 キッチンの外で悲鳴がした。続いて秋が走り出す。陽夏も電話を切り、秋の後を追った。
「おい、大丈夫か?」
 そう言葉を掛けて、秋がしゃがみ込む。すると、自分と同じメイド服を着た子が、四つん這いの格好で俯いている姿が見えた。
「……大丈夫、です」
 顔を上げ、女の子が答える。それから彼女は、差し出された秋の手を掴み、立ち上がった。
「おまえな、こんなにたくさん一気に持ってくんなよ。てか、なんで何もないところですっ転んでんだ」
「えへへ……いきなりスマホが鳴って、びっくりしちゃって……それで豆を落としそうになって、転んじゃったの」
「……とりあえず、怪我はないな?」
「うん。ありがとう、秋くん」
「次からは、絶対に、少しずつ運べよ。どうしてもって時は、俺を呼べ。ったく」
 怒ったように言いながらも、秋は床に散らばっていた小袋を拾い始めた。陽夏はふっと笑って、近くに落ちていた小袋に手を伸ばした。
「紀愛、コーヒー頼む。出来たら俺の部屋まで持ってきてくれないか?」
 アイランドカウンターに小袋を置くなり秋が口を開く。それに対し彼女は、非常にのんびりとした調子で言葉を口にしたのだった。
「あっ、わたしったら、また……ごめんね、秋くん。豆がなくなるなぁって思ったら、コーヒー作るのを忘れて、先に豆を取りにいっちゃった。出来上がり次第、持っていくね」
「…………やっぱいい。少ししたら、また来るわ」
 そう言い残して秋はキッチンを出ていく。彼の姿が見えなくなったところで、陽夏は紀愛に声を掛けた。
「紀愛さん、初めまして。ご挨拶が遅くなってすみません。私、昨日入った石崎陽夏と言います。よろしくお願いします」
「あ~、陽夏さんですか。歌緒理さんから、いろいろ伺ってます。はじめまして、紀愛です。先ほどはありがとうございました。いきなりお恥ずかしいところを、お見せしちゃいましたね……」
 紀愛が小首を傾げて、はにかむ。
「いえ、電話したのは私なんです。驚かせてしまって、すみません」
 そう言って陽夏は頭を下げた。すると――。
「いえいえ。わたしがいけないんです。わたし、音に少し敏感で……だから、陽夏さんが謝ることではないんです」
 今度は紀愛が「すみません」と言って、頭を下げてきたのだった。
 二人は同時に顔を見合わせ、同時に笑みを零す。
「そうだったんですね。わかりました。以後、意識するようにしておきます」
「えっ。あ、ありがとうございます」
 紀愛は一瞬驚きを見せたものの、ほんのりと頬を赤く染め、嬉しそうに礼を口にした。
「あ、そうだ。私、葵さんからコーヒーを淹れてくるよう頼まれていたのでした。でも、どうすればいいか分からなくて……。紀愛さん、もしご存じでしたら教えていただけませんか?」
「もちろんですよ~。では先に、秋くんの分を作っちゃいますね。陽夏さん、すみませんが五分程お待ちください」
「はい、ありがとうございます」
 紀愛がさくさくと準備を進めていく。彼女は宣言した時間内にコーヒーメーカーのスイッチを入れ、陽夏の方を振り返った。
「お待たせしました。葵さんはハンドドリップなんです。豆もこだわりがあるみたいで」
「そうなんですね。葵さんの分も、紀愛さんが淹れてくださってたんですか?」
「いいえ、葵さんはいつもご自分で淹れてます。そこに居合わせると、わたしの分も淹れてくれるんです。わたしはそれを見て覚えました」
「な、なるほど……」
 その対応の差は一体何なのだろうか。陽夏は思わずその場で考え込んだ。
(信頼度、とか?)
 それなら何故、彼は入ったばかりの自分に素を見せてきたのだろうか。
(たしか、何事もなく過ごしたいって理由で、当たり障りのない対応を取ってるんだよね)
 だとしたら尚更、よく知りもしない相手に素を見せるのはおかしくないだろうか。
(うーん……ただ単に、疲れるのが嫌だっただけなのかも。葵さん忙しそう、みたいなことを秋さんは呟いてたし。で、こいつなら素を見せたところで何もないだろう、くらいに思われてと)
 それだ。でなければ、あんな意地悪をしたり、言ってきたりするハズがない。
(……でも咄嗟に、ああやって助けてはくれたから、きっと――)
「陽夏さん」
「え?」
 気づくと紀愛が心配そうに顔を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか? なんだか少し顔が赤いようですけど、もしかして体調が悪いんですか?」
「い、いえ! 何でもないです。全然、元気です!」
「なら、良かったです。緊張で気疲れをして、それで体調を崩されたのかなとか、いろいろ考えちゃいました」
 気分を害した様子もなく、紀愛がにこりと微笑む。同じような笑みを陽夏が浮かべたところで、紀愛はふたたび口を開いた。
「それで、えっと、葵さんは毎回このミルで豆を挽くところからやるんです。陽夏さん、せっかくなので一緒にやってみましょう」
 紀愛の手に手回しのミルがあった。自分がぼーっとしている間に、彼女は準備を済ませていたようだ。他にもハンドドリップに必要な器材が、すべてアイランドカウンターの上に乗っていた。
「このスプーンで計量した豆をここに入れて、ハンドルが軽くなるまで回せばOKです」
 ミルの蓋を閉め、紀愛が楽しそうにハンドルを回し始める。彼女の空気に心が和んだからなのか、陽夏はふと思ったことを口にした。
「紀愛さんはどのくらい、このお仕事をされているんですか?」
「え……」
 紀愛の手がピタリと止まる。さらには笑みまでもが消えてしまった。
(あ……聞いちゃいけないことだったのかな)
 陽夏はドキドキしながら紀愛の返答を待った。
「……実はわたし、高校には行ってなくて……。なので、五年程やってます……」
 紀愛が苦しげに言葉を口にする。するとその直後、陽夏の目が輝いた。
「じゃあ紀愛さんは、私の大先輩ってことですね! やったぁ、紀愛さんからいっぱい教えてもらえるんだ。嬉しいなぁ」
 紀愛は虚を衝かれたかのように目を開き、陽夏を見ていた。
「それで、紀愛さんは普段どんなことをされているんですか?」
「え、ええっと。いろいろやってます。お料理とか、お裁縫とか、ガーデニングとか……」
「すごいですね!」
「えっ……いえ! 全然すごくないです! 大したことは何もっ」
 耳まで赤くし、紀愛は頭を左右にふるふると振った。ウェーブの掛かった彼女のミディアム丈の髪がふわふわと揺れる。
「それに、わたしっ、さっきみたいに、よくドジするんです……」
 そう言って紀愛はミルから手を離し、うな垂れてしまった。どうやら相当、気に病んでいるようだ。
「大丈夫ですよ、紀愛さん! 私もよくドジしますけど、なんとかなってますし。……て、慰めになってないですね、はは……。でも、似たもの同士、楽しく助け合っていれば、絶対に大丈夫ですよ」
 陽夏は満面の笑みを向け、ミルのハンドルを回し始めた。
 紀愛は鼻をすすり、コクリと頷いた。
「あ、紀愛さん。ハンドルが軽くなりました!」
「挽き終わったみたいですね。あとはお湯が沸くのを……あ! お湯沸かすの、忘れてました……」
「あ……私も全然気づいてませんでした。ふふっ、二人してやっちゃいましたね」
 陽夏につられてか、紀愛の顔に笑みが戻る。そのまま二人で笑い合っていると、突然、後方から別の声が割り込んできたのだった。
「いつまでやってんだよ」
 出入口に身体を寄り掛からせ、秋が呆れた顔をして立っていた。胸板と腹部がまだ少しだけ見えてはいたが、今度はパーカーを羽織っている。
「何が、『似たもの同士、楽しく助け合っていれば、絶対に大丈夫ですよ』だ。あれから30分以上経ってんぞ。葵兄をこれ以上待たせて大丈夫なのかよ」
 そう言いながら秋はコーヒーメーカーのもとへと向かっていく。彼の言葉を聞いた途端、眼鏡を外したまま極上の微笑みを送りつけてくる葵の姿が、陽夏の脳裏に浮かんだ。陽夏はアイランドカウンターにあったステンレス製のコーヒーケトルをさっと手に取り、ウォーターサーバーの水を入れ、火にかけた。
「ま、葵兄はそうそう怒らないけどな」 
 マグカップにコーヒーを注いでいた秋の横顔を、じっと見つめる。どうやら彼は本当のことを言っているようだ。
「そうですよ、陽夏さん。わたしがドジした時、葵さんはいつも優しく慰めてくれますから。なので、葵さんが怒ることはないです」
 心からそう信じているのか、紀愛は屈託のない笑みを見せてきた。
「……そ、そうですよね! きっと大丈夫ですよね! きっと……」
 二人の言う通りでありますように。陽夏はそう願いつつ、残りの作業をこなしていったのだった。
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