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第9話「甘い波紋」
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冬の祭りが終わっても、ショコラの熱狂は冷めやらなかった。
むしろ、口コミで評判が広がり、注文は増える一方だった。
僕とミナ、そして両親を巻き込んだ家内制手工業は限界を迎えていた。
マルセルの提案で、アルンの街に小さな工房兼店舗を構えることになったのは、雪解けの頃だ。
店名は『ショコラトリー・ルカ』。
そのままの名前だが、覚えやすくていいとマルセルが押し切った。
村の若者を数人雇い、製法の一部を教えて手伝ってもらうことで、なんとか生産量は安定してきた。
順風満帆。
誰もがそう思っていた。
ある日の午後、店番をしていたミナが、青ざめた顔で工房に駆け込んできた。
「ルカ! 大変!」
「どうしたの? 砂糖が切れた?」
僕は作業の手を止め、振り返る。
「違うの。お、お客さんが……」
「クレーム?」
「ううん……神官様が」
神官。
その言葉に、僕は眉をひそめた。
この国では『星神教』という宗教が信仰されている。質素倹約を美徳とし、過度なぜいたくや快楽を戒める教えだ。
僕はエプロンで手を拭き、店先へと出た。
そこには、純白の衣服に身を包んだ、長身の男が立っていた。
歳は四十代半ばだろうか。銀縁の眼鏡の奥にある瞳は、氷のように冷たく、それでいて全てを見透かすような鋭さを持っていた。
店の華やかな雰囲気とは対照的な、静かで威圧的な空気をまとっている。
「……いらっしゃいませ。私が店主のルカです」
努めて明るく声をかける。
神官はゆっくりと僕を見下ろし、それからショーケースの中のチョコレートに視線を落とした。
「あなたが、この黒い菓子を作った者ですか」
声は低く、よく通るバリトンだった。
「はい、そうです」
「ふむ。街中で噂を聞きましてね。人々を魅了し、心を奪う『黒い魔石』のような菓子があると」
彼は『魔石』という言葉を強調した。
「それは過分なお褒めの言葉です。ただのカカの実を使った菓子ですよ」
「カカの実……あの忌まわしき森の実ですか」
神官の眉がピクリと動く。
「かつて、あの実は『悪魔の心臓』と呼ばれ、忌避されていました。それを加工し、民衆に広めるとは……興味深い」
彼の言葉には、明らかな敵意が含まれていた。
店内にいた他の客たちが、居心地悪そうに店を出ていく。
僕は背筋を伸ばし、彼の目を見つめ返した。
「悪魔の心臓などではありません。神様が森に隠した、恵みの実です。人々を笑顔にするための」
「笑顔、ですか」
神官は冷ややかに笑った。
「快楽は、魂を堕落させます。甘美な味に溺れ、勤勉さを忘れ、ただ欲求を満たすことのみを求めるようになる。……最近、教会の説教よりも、あなたの店に来る若者が多いのが気がかりでしてね」
それは警告だった。
教会の権威を脅かす存在は許さない、という無言の圧力。
「この菓子が、人々にどのような影響を与えるか……教会としても、注視せざるを得ません」
彼は懐から数枚の銀貨を取り出し、カウンターに置いた。
「一つ、頂きましょう。毒か薬か、私が確かめます」
僕は無言で一番シンプルな板チョコを包み、渡した。
神官はそれを受け取ると、丁寧な所作で一礼し、背を返した。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
「ルカ……どうしよう」
ミナが震える声でつぶやく。
「大丈夫だよ。何も悪いことはしてない」
僕は彼女の肩を抱き寄せたが、内心は穏やかではなかった。
中世的な世界観において、宗教権力は絶対だ。もし彼らが「チョコレートは異端の食べ物だ」と認定すれば、この店など一瞬で潰される。
最悪の場合、僕やミナの身にも危険が及ぶかもしれない。
「……マルセルさんに相談しよう」
そう決めた矢先だった。
店に再び、別の客が入ってきた。
今度は、見慣れない制服を着た兵士だった。
「店主はいるか」
「はい、僕ですが」
「城からの呼び出しだ。領主様が、お前の菓子に興味を持たれている」
領主。
またしても大物だ。
僕はめまいを覚えた。
ただ美味しいお菓子を作りたかっただけなのに、事態は僕の手を離れ、政治や宗教が絡む巨大な渦になりつつあった。
その夜、閉店後の薄暗い工房で、僕は一枚のチョコレートを見つめていた。
黒く、艶やかなその表面に、自分の不安げな顔が映っている。
バレンタイン。
愛と感謝の日。
その起源には、殉教した聖人の物語があることを、僕はふと思い出していた。
新しい文化を作るということは、既存の価値観と戦うということなのかもしれない。
僕はチョコを口に放り込んだ。
ほろ苦い味が、口いっぱいに広がった。
甘いだけではない、大人の味がした。
むしろ、口コミで評判が広がり、注文は増える一方だった。
僕とミナ、そして両親を巻き込んだ家内制手工業は限界を迎えていた。
マルセルの提案で、アルンの街に小さな工房兼店舗を構えることになったのは、雪解けの頃だ。
店名は『ショコラトリー・ルカ』。
そのままの名前だが、覚えやすくていいとマルセルが押し切った。
村の若者を数人雇い、製法の一部を教えて手伝ってもらうことで、なんとか生産量は安定してきた。
順風満帆。
誰もがそう思っていた。
ある日の午後、店番をしていたミナが、青ざめた顔で工房に駆け込んできた。
「ルカ! 大変!」
「どうしたの? 砂糖が切れた?」
僕は作業の手を止め、振り返る。
「違うの。お、お客さんが……」
「クレーム?」
「ううん……神官様が」
神官。
その言葉に、僕は眉をひそめた。
この国では『星神教』という宗教が信仰されている。質素倹約を美徳とし、過度なぜいたくや快楽を戒める教えだ。
僕はエプロンで手を拭き、店先へと出た。
そこには、純白の衣服に身を包んだ、長身の男が立っていた。
歳は四十代半ばだろうか。銀縁の眼鏡の奥にある瞳は、氷のように冷たく、それでいて全てを見透かすような鋭さを持っていた。
店の華やかな雰囲気とは対照的な、静かで威圧的な空気をまとっている。
「……いらっしゃいませ。私が店主のルカです」
努めて明るく声をかける。
神官はゆっくりと僕を見下ろし、それからショーケースの中のチョコレートに視線を落とした。
「あなたが、この黒い菓子を作った者ですか」
声は低く、よく通るバリトンだった。
「はい、そうです」
「ふむ。街中で噂を聞きましてね。人々を魅了し、心を奪う『黒い魔石』のような菓子があると」
彼は『魔石』という言葉を強調した。
「それは過分なお褒めの言葉です。ただのカカの実を使った菓子ですよ」
「カカの実……あの忌まわしき森の実ですか」
神官の眉がピクリと動く。
「かつて、あの実は『悪魔の心臓』と呼ばれ、忌避されていました。それを加工し、民衆に広めるとは……興味深い」
彼の言葉には、明らかな敵意が含まれていた。
店内にいた他の客たちが、居心地悪そうに店を出ていく。
僕は背筋を伸ばし、彼の目を見つめ返した。
「悪魔の心臓などではありません。神様が森に隠した、恵みの実です。人々を笑顔にするための」
「笑顔、ですか」
神官は冷ややかに笑った。
「快楽は、魂を堕落させます。甘美な味に溺れ、勤勉さを忘れ、ただ欲求を満たすことのみを求めるようになる。……最近、教会の説教よりも、あなたの店に来る若者が多いのが気がかりでしてね」
それは警告だった。
教会の権威を脅かす存在は許さない、という無言の圧力。
「この菓子が、人々にどのような影響を与えるか……教会としても、注視せざるを得ません」
彼は懐から数枚の銀貨を取り出し、カウンターに置いた。
「一つ、頂きましょう。毒か薬か、私が確かめます」
僕は無言で一番シンプルな板チョコを包み、渡した。
神官はそれを受け取ると、丁寧な所作で一礼し、背を返した。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
「ルカ……どうしよう」
ミナが震える声でつぶやく。
「大丈夫だよ。何も悪いことはしてない」
僕は彼女の肩を抱き寄せたが、内心は穏やかではなかった。
中世的な世界観において、宗教権力は絶対だ。もし彼らが「チョコレートは異端の食べ物だ」と認定すれば、この店など一瞬で潰される。
最悪の場合、僕やミナの身にも危険が及ぶかもしれない。
「……マルセルさんに相談しよう」
そう決めた矢先だった。
店に再び、別の客が入ってきた。
今度は、見慣れない制服を着た兵士だった。
「店主はいるか」
「はい、僕ですが」
「城からの呼び出しだ。領主様が、お前の菓子に興味を持たれている」
領主。
またしても大物だ。
僕はめまいを覚えた。
ただ美味しいお菓子を作りたかっただけなのに、事態は僕の手を離れ、政治や宗教が絡む巨大な渦になりつつあった。
その夜、閉店後の薄暗い工房で、僕は一枚のチョコレートを見つめていた。
黒く、艶やかなその表面に、自分の不安げな顔が映っている。
バレンタイン。
愛と感謝の日。
その起源には、殉教した聖人の物語があることを、僕はふと思い出していた。
新しい文化を作るということは、既存の価値観と戦うということなのかもしれない。
僕はチョコを口に放り込んだ。
ほろ苦い味が、口いっぱいに広がった。
甘いだけではない、大人の味がした。
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