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レーディング15(R15)・表現深化バージョン~刺激的な表現を含みます
第137話 泥の吐露~稲田みずほ視点~ 前編
しおりを挟む泥が静かに沈黙する。
女子Dの最後の声が、泡になって消えた。
その泡が、泥の表面で小さく弾けるたび、みずほの胸の奥が、焼けた鉄のようにじわりと熱を帯びていく。
「……沈んじゃった」
誰に言うでもなく、呟いた。
喉の奥が詰まって、声が掠れる。
それでも、言葉にしなければ、自分が『何かを感じてしまった』ことを認めることになる気がして。
カルマに命じられたから。
場所を守るためだから。
そう言い聞かせてきた。
でも――『それだけで済ませていいのかどうか、わからなくなってきている』。
制服は、泥のようにひび割れている。
その割れ目から覗く肌には、かつて田んぼ焼けた色が、まだかすかに残っていた。
泥に触れた足元が、じんわりと熱を持つ。
皮膚の奥にまで染み込んでくるような、湿った熱。
それは、誰かの後悔。
誰かの言えなかった言葉。
「ごめん」「待って」「好きだった」
その一つひとつが、みずほの足首を撫で、ふくらはぎを這い、膝裏にまとわりついてくる。
「……あの頃の泥は、もっと優しかったのに」
田んぼで泥だらけになって笑った夏の日。
稲穂の匂い、誰かと交わした視線、泥の中で繋いだ手。
「わたしも、言えなかった言葉がある」
その言葉を口にした瞬間、泥が、彼女の足元で静かに泡立った。
まるで、『わかってるよ』と応えるように。
熱が、太腿の奥まで届いてくる。
それは、痛みではない。
でも、心の奥をじわじわと焼くような、『忘れたくないのに、忘れさせようとする』熱。
「カルマ様は、これを『正義』って呼ぶのかな」
彼女は、カルマの言葉を思い出す。
「罪を沈めろ」「場所を守れ」「声を上げろ」
それは、命令だった。
でも、命令に従うたびに、自分の中の『誰かを想う心』が、少しずつ削れていく気がしていた。
泥の熱が、彼女の身体の奥にある『人間だった頃の記憶』を、ゆっくりと溶かしていく。
「わたしは、まだ『誰か』でいたいのかもしれない」
その呟きは、泥の静寂に、ぽたりと落ちる雫のようだった。
ウシガエルが、ぬるりと這い出してくる。
その背中から伸びる無数の腕が、空を掴もうと、ゆっくりと蠢いていた。
指先は震え、爪の先には泥が詰まり、皮膚はひび割れ、それでも、誰かに触れようとしていた。
でも、届かない。
届かないまま、泥に沈んでいく。
みずほは、その腕を見つめながら思う。
「わたしも、誰かに届きたかったんだよね」
その『誰か』の顔は、もう思い出せない。
でも、届きたいという気持ちだけが、胸の奥で、まだ熱を持っていた。
彼女は、泥の上に腰を下ろす。
泥の熱が、太腿からじわじわと染み込んでくる。
皮膚の奥にまで届くその温度は、まるで『言えなかった言葉』が、身体の内側から溶け出してくるようだった。
稲穂色の髪が、泥の匂いを撫でる。
その香りは、懐かしくて、苦しくて、でも、どこか安心する匂いだった。
風が吹くたび、赤いネクタイが揺れる。
それは、誰かに問いかける舌のように、彼女の喉元で、そっと揺れていた。
「……ひーきーかーえせー」
その声は、もはや警告ではなかった。
それは、誰かに届いてほしいという、最後の祈りだった。
◇泥のウシガエル(残滓たちの視点)◇
彼女が腰を下ろすと、泥の表面が、わずかに波打った。
ぬるく、重く、湿った熱が、わたしたちの皮膚の名残に触れてくる。
稲穂色の髪が揺れ、赤いネクタイが風に問いかける。
その姿は、かつての『誰か』に似ていた。
わたしたちは、もう名前を持たない。
声は泡になり、記憶は泥に溶け、言葉は蒸気になって空へ消えた。
でも、彼女の姿だけは、まだ忘れていない。
あの夏の光、あの泥の匂い、あの時、笑っていた横顔。
彼女は、まだ『揺れている』。
命令に従いながら、問いを抱えている。
罪を沈めながら、罪を見つめている。
その矛盾が、彼女を『こちら側』に近づけ、同時に、遠ざけている。
だから、腕を伸ばす。
泥の中から、空へ向かって。
指先は、泥に削られ、皮膚の下から骨の白が覗いている。
それでも、伸ばす。
それは、彼女を引きずり込むためではない。
彼女が沈まないように、その足元を支えるため。
「……まだ、戻れるよ」
そんな言葉が、泥の蒸気に混ざって、彼女の耳に届くことを願っていた。
彼女が気づくかどうかは、わからない。
でも、わたしたちは、彼女が『こちら側』に来ないことを、どこかで願っている。
そして、それでも、来てくれる日を、どこかで期待して待っている。
彼女が立ち上がるたび、泥の温度が変わる。
その熱は、まだ『人間だった頃の心』が、彼女の中に残っている証。
わたしたちは、その熱を忘れない。
忘れたくない。
だから、見つめている。
問いかけるでもなく、責めるでもなく。
ただ、『かつての仲間』を、静かに、見つめている。
◇女子D(泥の中の心情)◇
「……いや、いやよ。わたしは……だれ?」
泥の中で、声が泡になって弾けた。
その泡が、頬を撫でて消えていく。
まるで、誰かのキスのように。
誰かの手が、わたしの手を握っている。
ぬるくて、ざらついていて、でも、どこか懐かしい温度。
優しい。
懐かしい。
でも、名前が思い出せない。
「この手、知ってる……はずなのに」
指先が、わたしの指をなぞる。
爪の形、関節の角度、全部、知ってる気がするのに、記憶の扉が開かない。
自分を泥に沈めた相手の姿が、ぼんやりと見える。
稲穂色の髪。
赤いネクタイ。
ひび割れた制服。
それは、かつての『誰か』に似ている。
でも、違う。
違うから、怖い。
違うから、悲しい。
「わたしは、まだ……人間でいたいの」
泥が熱を持っている。
太腿を撫で、腹を這い、胸元にまで届いてくる。
そのたびに、記憶が曖昧になっていく。
「ごめん」「待って」「好きだった」
誰かが言えなかった言葉が、わたしの中からも、じわじわと滲み出してくる。
でも、言えない。
もう、言葉が出てこない。
喉が塞がれているわけじゃないのに、声が、泡になって消えていく。
「ねえ……あなたは、まだ人間なの?」
問いかけたつもりだった。
でも、声は出なかった。
泡になって、泥に溶けていった。
わたしは、沈んでいく。
でも、まだ『誰か』でいたい。
名前を思い出したい。
誰かに届きたい。
その願いが、泥の奥で、熱を持って、静かに、静かに、わたしの心を灯していた。
◇
泥の表面で、小さな泡が弾けた。
その音は、まるで誰かが最後に吐いた息のように、静かで、儚く、確かだった。
「……あなたは、まだ人間なの?」
みずほは、その声が自分に向けられたものだと、わかっていた。
胸の奥が、ひとつ脈打つ。
それは、泥に沈めた者としての痛み。
それとも、かつて『人間だった』自分への問いかけ。
でも、答えは返せなかった。
喉が詰まっていたわけじゃない。
ただ、言葉にした瞬間、何かが壊れてしまいそうで。
『人間である』と答えれば、沈めたことが罪になる。
『人間ではない』と答えれば、自分の心が終わってしまう。
だから、みずほは黙っていた。
泥の熱が、足元からじわじわと上がってくる。
その温度が、答えを代弁するように、彼女の沈黙を包み込んでいた。
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