紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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官僚と商人

 座敷に入るなり、深々と頭を下げるのは2人の男。
 1人は、白髪混じりで丸々とした体躯だ。上げた顔は、温和が滲み出ている風貌。恵比寿のようだ――と、光留は思った。
 もう1人は、総髪撫付。総髪といっても御一新から20年は過ぎているのだから、襟足は短い。細面に、目まで切れ長ときているから少々、取っつきにくい雰囲気があった。

「頭が良さそうな顔をしている。眼鏡だし」
「眼鏡って、近さん……貴方、酔っていませんか?」

 一応、声を潜め話しているが、客人は清浦目当てであり、気にもしていないようだ。
 耳に入る情報では、恵比寿男は米の取引をしているらしい。
 蛎殻町かきがらちょうに、米商会所が置かれ、大変忙しくさせてもらっている――などと高笑いだ。
 一方、若い方は黙り、話を聞くのみだ。付き合いで連れてこられたクチだろうと眺めていると、バチリと目があった。
 お互い、じっと見つめ合う形になってしまったが、持ち前の人当たりの良さから光留が微笑んでみせると、意外なことに眼鏡の男は、口元を綻ばせた。

「なかなかの男振りではありませんか、光留さんとは少々、タイプが違う」
「貴方、白袴の仲間ですか?」

 顔を見合せることなく言葉を交わす。口元に寄せるお猪口が、隠れ蓑となり相手方は、何を言ったか読み取れないだろう。
 座敷では、清浦と恵比寿男のたわい無い話が続いた。面識を持ち、何かあればとツテを作っておくのは商売人にとって仕事の一環であるのだろうが、長居をする程 無粋ではない。
 恵比寿男は、相好崩す顔はそのままで「清浦様、こちらの方々は?」と、尋ねた。
 帰る前に、同席の男達が何者であるかも頭に入れておくつもりなのだろう。

「ああ、こちら……」
奏任官そうにんかんの田中と申します」
「……同じく、近……藤と申します」

 光留と違って、近衛は名乗りにくかったのか、いつもの如く偽名をつかった。
 奏任官とは、高等官三等から八等の文官を指す。何等ですか?など、商人が聞いてくるわけもないことから、上手い役職を名乗ったものだと清浦は、満足げに頷き「いずれ、きちんとご紹介する時があれば、その時に」と告げた。
 商人は、心得たもので「それでは、これにて」と、現れた時と同様深々と頭を下げた。誰もが、立ち上がり去る――と思っただろう。近衛などは、早くも手酌を始めようと徳利に指を伸ばした所だった。
 ドタ――ンッ!!
 けたたましい音が轟いた。恵比寿男が翻筋斗もんどり打って ひっくり返ったのだ。
 予想外のことに皆して、あっ!と腰を浮かしかけたが、音の割には痛めた部分など、なかったのだろう。体躯と似つかわしくなく、素早く起き上がると
「ああ……これは失礼。慣れない正座で両足が痺れてしまった」
 恵比寿男は、一声楽しげに笑い 連れの男に支えられ立ち上がった。

君」
「何です?」

 清浦は光留を指差し、その人差し指を恵比寿男に向ける、まさか――と嫌な予感がした。

「1人では危ない。田中君、肩を貸して差し上げて」

 奏任官ならば、清浦の部下のような者だと、面白がっているのだろう。
 光留は、鋭い視線で嗜めてはみるものの、奏任官と言った手前、清浦の言いつけを無視することはできない。仕方ない――と、立ち上がった。

「畏れ多い。ここは、私がおりますので大丈夫です」

 眼鏡の男が、慌てた様子で声を上げた。しかし、恵比寿のような者をスラリと細い男1人で大丈夫なのか?という不安は、皆が持つだろう。

「いいえ。丁度、厠へ立とうと思っておりましたので、座敷までお供致します」
「……申し訳ありません」

 光留は、障子を開け2人を誘導する。面白いものを見たと笑う清浦と、ヒラヒラと手を振る近衛をジロリと一瞥すると、ピシャリ!と 音を響かせた。


「お座敷は、どちら?」
「いやいや、田中さん。すまない、もう儂は帰る。玄関に連れて行ってくれ」

 商人に、こんな口の聞き方をされるとは思いもしなかったと、光留は「はい、はい」と軽く答えた。

「私は、女将に言って俥を呼ばせます」

 眼鏡の男は、それだけ言うと表へ向う。

「あの方、背が高いですね。米の商売をされているのですか?」
「いろいろな商売をやっているよ。米も取り扱うから、儂ともちょくちょく飲む仲だ」

「へぇ~」

 見えなくなった背中を追い、光留は感嘆とも取れる相づちを打った。
 いろんな商売とは、大したものだと。
 そんな横顔を、まじまじと見る恵比寿男は、これまた感嘆を思わせる溜め息を漏らす。

「田中さん」
「何です」

「あんた綺麗な顔をしているから、帰りは気を付けなさいよ」
「……ええ、白袴隊に刺されないように気を付けます」

 自棄っぱちに答えた。


 ◆◆◆◆◆

 意外と俥は、早かった。おそらく座敷が御開の頃合いまで稼ぎを見込めると、店の前で待っていたのだろう。
 しかし、肝心の恵比寿男の足元が覚束ない。2人して俥に押し込むが、タコのようにフニャフニャとした足どりの為、蹴込みに踏ん張れず乗せるのが至難の技だ。

「ちょっと!! この人、酔っぱらっていたのですか!」
「乗せたとしても、俥から転がり落ちそうですね」

「死にますよ!!」

 冷静な物言いの眼鏡男に、光留は突っ込んだ。その剣幕が面白かったのか、男はクスリと笑う。ツンとした印象が和らいだ。

「田中様。この人、就寝の時間になると何処ででも、この様で。単に眠いだけです」
「商談とか、どうしているんですか……」

「仕方ない。私がご自宅までお供いたします」
「それがいいですね」

 正直、恵比寿男が転がり落ちようが、それによって死に至たろうが、どうでもいい。光留は「それでは」と踵を返した。
「山寺さん」と、背後から気遣う声がする。
 恵比寿は、山寺というのか――光留は、今更か……と少し可笑しくなった。そういえば眼鏡男も名乗った筈だが、聞いていなかった。どうでもいい――と、一歩踏み出した時、低く静な声がお伺いを立てた。

「どうします?御本宅へ?」
「いや、瀬戸物町へ。羽倉崎君も寄っていくだろう?」

「羽倉崎?」

 光留は、振り返り2人を見た。街灯に照らされた俥の上からも、光留の声に反応するように顔が向けられている。
 如何にも、どうしたのか?と言わんばかりだ。

「あ、いえ。瀬戸物町……お気をつけて」
「ええ、ありがとうございます」

 眠たげな恵比寿男の代わりに、眼鏡男が頭を下げた。街灯の明かりが焦れったいと、これ程思ったことは今までにない。光留は、俥を見つめた。正確にいうと、それに乗る眼鏡の男を。
 こんなことなら、座敷で穴が開くほど見ておけば良かった――後悔先に立たず。光留は、ニッコリと微笑んだ。

「羽倉崎さん、またお会いしましょう」
「え?あ、はい」

「瀬戸物町です。行って下さい」

 光留は、車夫を促し見送った。
 男爵邸で泰臣が言った。
 相手の名は、羽倉崎はぐらざき。歳は28程だと。そして、珍しい名だと言った光留に、東京で1人しかいない名字だ――とも。

「あれが、晃子さんの御婚約者かぁ」
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