紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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酒乱の閣下

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 ◆◆◆◆◆

 馬車から降り立った光留は、清浦にチラリと視線をやると「誰の屋敷です?」と聞いた。門前で下ろされたのは、目の前の屋敷が日本家屋だった為だ。立派な門構えから、それなりの人物の屋敷だと分かるが、清浦からは、何も聞いていない。誘われるままに馬車に乗ったのは、いつもの如く 何処ぞの料亭に連れて行かれると、思い込んでいた為だ。

逓信省ていしんしょうの大臣」
「逓信省……って、酒乱……」

「流石に、昼間から呑んではいないだろう」
「何で清浦さんが、黒田閣下の屋敷に?」

 逓信省とは、電気や鉄道、郵政などを扱う省であり、今回の組閣で黒田が就任していた。

「先頃、鉄道の管轄が内務省から逓信省に変わってね。その件で」
「僕は、全く関係ないのに連れてこられたのは、何故でしょう?」

「顔見知りになっていて、損は ないからだよ」
「関わると、損をしそうな気がしますが……」

「大丈夫。最近 閣下が騒ぎを起こしたとは、聞かない。最後は……ああ、黒田内閣が終わった頃か? ダメになったのは、お前のせいだ!と井上さん井上馨の屋敷に侵入して暴れたやつだ」
「何なんですか、もう……」

 膨れっ面の光留に、清浦は大きく息を吸い込むと、ニッと笑う。その動作は、気合いを入れたように見え、少し意外にも思えた。
「兎に角、少し話をするだけだから辛抱しなさい」
 こんなことを言う清浦が、1番辛抱していたことを光留は、すぐ知ることとなる。


 ◆◆◆◆◆


「ち、ちょっと!大丈夫ですか!? 」

 一室に通された光留は、辺りを見回し小声で話す。「あ~」と 生返事の清浦は、首筋や手の甲を ボリボリかきむしる始末で、白い爪痕が赤く腫れ上がるのに、そう時間は掛からなかった。
 恨みがましい目付きの清浦を尻目に、それらは 自由気ままに彷徨いている。
 猫だ。それも、1匹や2匹ではない。
 そもそも、屋敷の門をくぐった段階で、度肝を抜かれた。至る所に猫がいるのだ。玄関先だけで5匹は、いただろう。
「猫がたくさんいますね」こう、口にした光留に清浦は「まだまだ」とだけ答えた。屋敷に足を踏み入れても尚、猫はいた。
 柱で爪を研ぐ猫がいたかと思えば、物陰から此方を窺っている猫もいる。庭に目をやれば、灯籠の上にもいるし、松の根元にも、兎に角 20匹は、軽く越えているだろう。
 あり得ないことだが、あまりの多さに玄関にいた猫が素早く移動しているのではないか? と、さえ思った。しかし、それにしても多すぎる。
 清浦は、口数が少なくなり、同時に身体をかきだした。おそらくアレルギーだ。

「ちょっと、猫を追い出しましょう!障子を閉めます……あ!! 何です!? これは!」
「そう、無駄なんだよ。光留君」

 竪框たてがまちに手を掛けた光留は、驚愕した。何故なら障子の下部分には、穴が開けられていたのだ。

「猫の通り道だよ。私も初めて伺った時、絶望した。どうせ無駄なんだ、そのままで結構」
「はぁ……」

 清浦は、黒田邸に以前 訪れたことがあるという口振りだ。しかし、それならば清浦が、アレルギーを発症するのは、分かっていただろう。前もって連絡をしてある筈の黒田が、一向に姿を見せないのは……

 ―― まさか、わざとか?

 光留は、すり寄ってくる猫の顎を、撫でながら思った。鉄道の管轄が移る……内務省からとなると、内務大臣は井上馨。清浦が動いたということは、司法省が関係する手続きがあるのだろう。となると、司法大臣は山縣有朋。
 どちらも黒田内閣の時に、条約改正で一悶着あった顔ぶれだ。
 黒田は退陣した時に、井上の屋敷に乱入して騒いでいる位だから、相当根に持ってる可能性がある。そして、山縣は条約改正に時期尚早だと引導を渡した為、こちらも根に持ってる可能性がある。
 その関係の使者ならば、こちらも憎いと思って嫌がらせをしているのか?と。

「清浦さん……僕、帰りたいのですが……」
「そうかね? それでは失礼しよう」

「は?」

 光留は、意外な返答に妙な声を出してしまった。ゴホン!と、ひとつ咳払いをしてみせると「職務は?」と尋ねた。既に腰を浮かせた清浦は「この封書を渡すだけだから」と、ボソリと漏らすと、いつもの如く唇を引き上げる。

「同行者が、体調不良なのに我慢させる訳には、いかないだろう?帰ろう。書類は預ければ良い話だから」

 ニヤリと笑う清浦は、端から嫌がらせも念頭にあったのだろう。だからこそ、光留を同行させた。言い訳に使うために。

「ああ……してやられました。が、帰りましょう」

 光留は、清浦を素早く追い越し、行く手を塞ぐ猫を追い払うと、手を差し出した。

「何だい?」
「お預かりします。清浦さんは この後 相馬さんの件で、宮内省へ呼ばれているはずです。僕は、迎えの使者でしたが黒田閣下のお宅へご訪問と聞き、ご一緒しました。しかし、時間が押してしまい、黒田閣下に失礼になると渋る清浦さんを、侍従じじゅうが待ってると退出させました。はい!さようなら」

 光留は、清浦から封書を引ったくると、ピシャリと障子を鳴らした。
 足元に、まとわりつく三毛猫に視線を落とすと、ニャーと甘える声に混り、甲高い口笛が一鳴りした。ピューと楽しげな音色と共に「高くつきそうだなぁ」と、笑いを含む清浦の言葉。褐色の瞳を細めた光留は「ええ、いざとなったら」と、遠ざかる足音に柔らかな声を重ねた。
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