紀尾井坂ノスタルジック

涼寺みすゞ

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妻と妾 ②

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 宮内省へ行きたい――と 言っても、簡単に入れる場所ではない。他の官庁と違い、名の通り、つまり お堀の内にあるのだ。
 宮殿には、御座所や正殿、鳳凰の間などの表宮殿に加え、天皇の御所である奥宮殿まで収まっている。そこに宮内省庁舎が隣接しており、渡り廊下によって繋がっているのだから、訪ねて行っても宮内省どころか、二重橋も渡れないだろう。女中が引き留めたのは、当然のなり行きだ。

「お気持ちはお察しします。羽倉崎様には、お灸を据えて差し上げましょう。しかし、宮内省へ乗り込んで、婚約を無かったことにとの、直談判は無謀でございます。それと鼈甲櫛も、残念ではございますが、もっと良い物を探させましょう!」

 幸か不幸か、的を大いに はずした返答に晃子は、陰りのある笑みを浮かべた。
 鼈甲櫛のことを思うと、腹が立つが あんなケチがついた物など欲しくはない。晃子は、豊かな黒髪に咲く椿を ひと撫ですると、そのまま指を滑らせた。
 物言わぬ主の仕草に、同意を得たと女中は、路肩で煙管をふかせる車夫を一瞥し、細い顎先をクイッと上げる。

「ちょいと! 車夫さん、乗せてくださいな」

 おそらく早々に、この場を立ち去らなければならない、と 気持ちが急いたのだろう。些か、横柄な物言いだ。
 その高飛車な態度への応酬か? 
 辟易した心情を、尖らせた唇で表す 車夫が「へい、へ~い」と 軽い返事をし、灰を石畳に落とす。 ノソノソと、俥の後ろから踏み台を出すのを見届けると
「私は、別の俥で すぐに参りますから」
 女中は、言うなり カラカラと下駄を鳴らし、別の俥に小走りで 駆け寄った。
 何もかもが、煩わしいと思う晃子は、車夫の背に「構わないから、もう出して」と、気だるげな声で命じる。投げやりなソレは、雑踏の間をすり抜け、確かに車夫の耳に届いたようだ。

「へい!」

 威勢の良い声と共に、ゆっくりと景色が流れた。すれ違う馬車の金輪かなわが輝き、クルクルと回る様に、きらびやかな鹿鳴館の夜を思い出す。
 光留の胸の内を聞かされ「仰せのままに」と 答えはしたものの、晃子には婚約者がいる。その状況は、全く変わっていない。
 それなのに光留を待つということは、羽倉崎を責める立場にないのでは? という新たな疑問が沸々とわいてきた。
 それに 滝沢男爵夫人の話が、未だに引っ掛かっているのも事実だ。

 ―― 瀬戸物町のお話を、聞かなければならないのに、煩わしいこと。

 晃子には、わかっていた。
 羽倉崎は、男爵邸へ現れるだろう。話を一方的に切ってしまったこともあるが、5日後には 鬼怒川まで、出掛けることになっているのだ。晃子が出向かないことを想定し、釘を刺しに来ると。


 ◆◆◆◆◆


「泰臣君、可笑しいと思いませんか?」
「ええ、可笑しいですね」

 男爵邸の応接室では、泰臣と羽倉崎がテーブルを挟み、難しい顔をしていた。
 とは、云っても、本当に難しい顔をしているのは、羽倉崎だった。
 日本橋で、不貞が露見した羽倉崎は、晃子の予想通り、その日の夜に現れた。面会を求めた羽倉崎に、渋々会ってやるといった風なのは、予想はしていたが、畳み掛けるように なじられる予測は見事に外れた。晃子は、咲のことには一切触れないのだ。
 羽倉崎が、昼間のことを口に仕掛けると直ぐ様「もう、仰らないで」と遮る始末。
「それでは、お許しいただけるのか?」と問えば、「一生許さない」と言う。
 羽倉崎は、首を捻る。
 一夜明け、様子を窺いに来たが、家令曰く、出立の準備をしていると言う。

「聞きたくないが、許しはしない……姉の性格から、文句を言わないのが変ですね。それに鬼怒川へ行くのも……」
「私も、拒否されると思っていました」

「ははっ!大いにあり得る……けど、何でしょうね? そうだ、少々お待ちを」

 泰臣は、テーブルに置かれた金色の鈴を指先でつまみ上げ、左右に振る。
 チリ――ン、チリ――ン、小さな呼び鈴は、見た目以上の甲高い音を鳴り響かせた。すると、続き部屋で控えていたのだろう。直ぐ様、ドアが開く。
「お呼びでしょうか?」年季の入った物腰、下げた頭をゆっくりと上げたのは、泰臣付きの女中、ヨネだ。

「昨日、お姉様の供をしたのは誰だ?」
志賀しがさんですが」

「呼んで」
「かしこまりました」

 志賀は、晃子付きの女中頭だ。鬼怒川の準備を本当にしているのか?などを聞き出すには、1番適していた。もちろん、正直に答えれば――。
 そんな懸念は あるものの、やって来た志賀は、隠しだてをしている様子もない。
 ほぼ準備は出来ており、あとは当日の準備だけだと言う。

「お姉様は、鬼怒川へ行くつもりか?」
「え?」

「いや、何の話だったか?と聞かれたら、準備のはかどりを聞かれたと答えるように」
「かしこまりました」

「あ、そうだ!」

 泰臣は、さも今、思い出したと言わんばかりに、拳を手のひらに打ち当てた。
 パチン!と、軽快な音と共に
「咲のことで、恨み言を言っていなかったか?」と、問う。

「いいえ、何も……」

 心当たりのない志賀は、素直に首を振るがベルベッドに深くもたれる泰臣は、ニヤニヤと緩む唇と、勘ぐる視線を隠しもしない。

「本当かなぁ? ギャーギャーと、路上で騒いだんじゃないか?家名に泥を塗るような……」
「まあ!お嬢様に限って、そのようなことはございません!」

 気色ばむ志賀を、ジロジロと眺め回す泰臣の目は 眇められ、さも お前の言うことは、信じられないと言わんばかりだ。志賀は、キッと目尻を引き上げると「ご立派でございました」と、胸を反らす。

「立派? 何が?」
「辛い状況であるのに、ご自分で何とかなさろうと」

「何とか? はは!馬鹿な。自分でどうにかって何だ? 咲に危害を加える算段か?」

 泰臣は、天井を仰ぎ見て 大笑するだけに止まらず、手を打ち鳴らす始末。あきらかに小馬鹿にしている。自分の主人を笑われ、黙っている筆頭女中などいないだろう。志賀の身体に、カッと血が巡った。

「何という!あんまりでございます!お嬢様は、ご自身で宮内省へ出向き、ご婚約を止めようとされました。それも、これも、羽倉崎様のせいです!」
「宮内省?」

 ピタリと、泰臣の笑いが止まった。
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