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1話 邂逅編
7.5 その陰に
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「――シロに見えるのはここまでです」
なよやかな手が、ちゃぷんと水面を撫でた。
淡く波紋を描くちいさな泉には、二つの人影が逆さまになって映っている。
一人は少女。肌も髪も酷く白い少女だ。まるで屋敷の奥で大事に飾る人形のような雰囲気だが、旅慣れたものか衣の裾が汚れるのも気にせず泉の縁にしゃがみ込み、市女笠から垂れる衣をやわく持ち上げて水面を覗き込んでいる。
少女は白魚の指で幾度か水面を撫で、波紋だけが立つ様に微かに肩を落とした。
「十分だ。ありがとう、シロ」
揺れる水面に映るもう一人は、青年だった。短い髪を結い上げ簡易な脛当てと籠手を身につけ、腰には刀を差している。如何にも旅の武士といった風情の青年は壊れものを扱うかのようにシロと呼んだ少女の手を取り、そっと水から掬い上げた。
羽織の懐から取り出した手巾で丁寧に少女の指を拭いながら、青年が問いかける。
「身体の具合はどうだ。大事ないか」
「恙なく。……氷雨の役に立つこと。それだけが、シロの望みですから」
「止めてもいいんだぞ」
青年――氷雨は少女のちいさな手を見つめながら、低く呟いた。
ゆっくりとシロは目を瞬かせる。水底の深い色をした瞳で、静かに氷雨の顔を見つめる。
「それは、氷雨の方ではありませんか」
「…………」
しばし沈黙が落ちた。
風に撫でられた水が囁く音と、周囲を囲む端を黄色く染め始めた笹の葉が遊ぶ声。静かで穏やかなそれだけが二人の間を支配する。
氷雨は硬く表情を強張らせていた。眉間に浅く皺を刻み、少女の白い手のひらを見つめる瞳は微かに揺れている。
シロは自らの手を拭う氷雨の手に、もう一方の手を重ねた。びくりと明確に震える身体を全部受け止めるように、大きく硬い青年の手のひらをやわく撫でる。
使命と信念と矜持を持って刀を振るってきた手だと、短い付き合いではあるがシロは知っている。
「シロは構いません。何があっても、氷雨の決めたことに従います。氷雨こそ、止めてもいいのですよ」
だからといって、振るい続ける必要はない。
使命など見ないふりをして、信念など捨てて、矜持など曲げてしまえばいい。氷雨が思うことを、氷雨が決めたようにすればいい。誰に何を言われようと何を背負っていようと、この青年は心優しいただの人なのだ。
決して心が楽になる道を選ぶ、そんなことはできない人だと知ってもいるけれど。
「……大丈夫だ」
臓腑の底まで浚うような、深い嘆息。
氷雨は声を吐き出して、今は風に揺れるだけの水面を見つめる。縋るようにやわくも強く、シロの手を握り返しながら。
「俺は、俺の罪を――確かめ、正す必要がある」
「……そうですね」
凪いだ水面に、氷雨にはまだ見えているのだろう。つい先ほどシロが見せた、ここから少し先で起こっていることが。
今上帝の住まう七宝の外、明るく賑やかな都の姿とは裏腹な一方的な蹂躙。
炎の名を持つ妖刀と、その持ち主たる尋常ならざる力を振るう男。快楽に身を任せ、命じられるまま、他人など芥のように扱う存在。
遠く高みから睥睨する、人外の刀と男を使い、他人をいいように弄ぶ存在。
シロは目を閉じて耳を澄ませる。
さらさらと笹の葉が、水面が揺れる音に、ここにはいない誰かの声が聞こえたような気がした。
「それが罪なのか、それとも善なのか。確かめてみないと、わかりませんから……」
その声は、誰かを待っている。
ただの気休めに聞こえたのか、氷雨は低く幽かな声で「ああ」と頷いた。シロよりもずっと大きな氷雨の身体が、今は幼い子どものように見えた。
僅かに丸まる背の向こうで、腰に差した刀が静かに蒼く刃鳴りを散らしている。
誰かを、呼ぶように。
◇ ◇ ◇
「ふむ」
山の頂ほどもある神楽殿。七宝の、あるいはヒノモトの全てを見渡せる拝殿に少女は佇んでいる。
やわく腕を振れば、しゃらり、しゃらりと、幾重にも重ねられた単が鳴った。宙にあった何かを掻き消して少女は満足げに頷く。その視線の先には朱塗りの欄干越しに黒く濡れ羽色に佇む羅城門が、あるいは淡く黄を混ぜた緑の生うる竹林があった。
「――瑠璃様」
「うむ?」
ちらりと目端だけやれば、七宝十字を描いた面布の少女が二人控えている。伊角耀灌にやった少女たちと全く同じ姿かたちだ。彼女たちは瑠璃の側近であり、意見役であり、また別の何かであった。
その少女の一人が僅かに背を伸ばしている。物言いたげな姿に少女――瑠璃は、ちいさく笑った。
「其方の言いたいことはわかっておる。だが今日ばかりはな、急いても仕方あるまい。彼方が着くに時間がかかる」
ちらりと、先ほどまで見つめていた緑へ視線をやる。緩やかな竹林を抜ける頃にはだいぶ日も落ちているだろう。
彼らこそ、今日お帰りを願った伊角とは違い、正真正銘瑠璃が招いた客だった。
「――それはわかっております。が、あちらは」
あちら、を察して、瑠璃は苦笑した。
フラフラと薄汚れた格好で市井をうろつく飼い犬はお世辞にも褒められたものではない。が、何せ言うことを聞かないのだ。いい加減理解しているだろうに、この少女たちは同じ物言いを繰り返す。
「まあ、風呂だけ用意しておけ。あれは風呂だけは此方を使いたがるゆえな」
とはいえ今晩帰ってくるか、はたまた明日の朝か、昼か。仮にあちらの到着に間に合わないようであれば無理にでも呼び戻すまでである。
ここが七宝の国である限り、今上帝にはその程度のことは造作もない。
今一度、朱の欄干の下に広がる景色を眺める。安寧と繁栄と、混沌と動乱と。崇敬と疑惑と。全てを呑み込み、隠すこの都に、ようやく蒼と紅のふた振りが揃う。
「――いざや、神楽を奉ろうぞ」
ヒノモトを統べる七宝の頂点、今上帝――瑠璃は、ちいさく呟いた。
なよやかな手が、ちゃぷんと水面を撫でた。
淡く波紋を描くちいさな泉には、二つの人影が逆さまになって映っている。
一人は少女。肌も髪も酷く白い少女だ。まるで屋敷の奥で大事に飾る人形のような雰囲気だが、旅慣れたものか衣の裾が汚れるのも気にせず泉の縁にしゃがみ込み、市女笠から垂れる衣をやわく持ち上げて水面を覗き込んでいる。
少女は白魚の指で幾度か水面を撫で、波紋だけが立つ様に微かに肩を落とした。
「十分だ。ありがとう、シロ」
揺れる水面に映るもう一人は、青年だった。短い髪を結い上げ簡易な脛当てと籠手を身につけ、腰には刀を差している。如何にも旅の武士といった風情の青年は壊れものを扱うかのようにシロと呼んだ少女の手を取り、そっと水から掬い上げた。
羽織の懐から取り出した手巾で丁寧に少女の指を拭いながら、青年が問いかける。
「身体の具合はどうだ。大事ないか」
「恙なく。……氷雨の役に立つこと。それだけが、シロの望みですから」
「止めてもいいんだぞ」
青年――氷雨は少女のちいさな手を見つめながら、低く呟いた。
ゆっくりとシロは目を瞬かせる。水底の深い色をした瞳で、静かに氷雨の顔を見つめる。
「それは、氷雨の方ではありませんか」
「…………」
しばし沈黙が落ちた。
風に撫でられた水が囁く音と、周囲を囲む端を黄色く染め始めた笹の葉が遊ぶ声。静かで穏やかなそれだけが二人の間を支配する。
氷雨は硬く表情を強張らせていた。眉間に浅く皺を刻み、少女の白い手のひらを見つめる瞳は微かに揺れている。
シロは自らの手を拭う氷雨の手に、もう一方の手を重ねた。びくりと明確に震える身体を全部受け止めるように、大きく硬い青年の手のひらをやわく撫でる。
使命と信念と矜持を持って刀を振るってきた手だと、短い付き合いではあるがシロは知っている。
「シロは構いません。何があっても、氷雨の決めたことに従います。氷雨こそ、止めてもいいのですよ」
だからといって、振るい続ける必要はない。
使命など見ないふりをして、信念など捨てて、矜持など曲げてしまえばいい。氷雨が思うことを、氷雨が決めたようにすればいい。誰に何を言われようと何を背負っていようと、この青年は心優しいただの人なのだ。
決して心が楽になる道を選ぶ、そんなことはできない人だと知ってもいるけれど。
「……大丈夫だ」
臓腑の底まで浚うような、深い嘆息。
氷雨は声を吐き出して、今は風に揺れるだけの水面を見つめる。縋るようにやわくも強く、シロの手を握り返しながら。
「俺は、俺の罪を――確かめ、正す必要がある」
「……そうですね」
凪いだ水面に、氷雨にはまだ見えているのだろう。つい先ほどシロが見せた、ここから少し先で起こっていることが。
今上帝の住まう七宝の外、明るく賑やかな都の姿とは裏腹な一方的な蹂躙。
炎の名を持つ妖刀と、その持ち主たる尋常ならざる力を振るう男。快楽に身を任せ、命じられるまま、他人など芥のように扱う存在。
遠く高みから睥睨する、人外の刀と男を使い、他人をいいように弄ぶ存在。
シロは目を閉じて耳を澄ませる。
さらさらと笹の葉が、水面が揺れる音に、ここにはいない誰かの声が聞こえたような気がした。
「それが罪なのか、それとも善なのか。確かめてみないと、わかりませんから……」
その声は、誰かを待っている。
ただの気休めに聞こえたのか、氷雨は低く幽かな声で「ああ」と頷いた。シロよりもずっと大きな氷雨の身体が、今は幼い子どものように見えた。
僅かに丸まる背の向こうで、腰に差した刀が静かに蒼く刃鳴りを散らしている。
誰かを、呼ぶように。
◇ ◇ ◇
「ふむ」
山の頂ほどもある神楽殿。七宝の、あるいはヒノモトの全てを見渡せる拝殿に少女は佇んでいる。
やわく腕を振れば、しゃらり、しゃらりと、幾重にも重ねられた単が鳴った。宙にあった何かを掻き消して少女は満足げに頷く。その視線の先には朱塗りの欄干越しに黒く濡れ羽色に佇む羅城門が、あるいは淡く黄を混ぜた緑の生うる竹林があった。
「――瑠璃様」
「うむ?」
ちらりと目端だけやれば、七宝十字を描いた面布の少女が二人控えている。伊角耀灌にやった少女たちと全く同じ姿かたちだ。彼女たちは瑠璃の側近であり、意見役であり、また別の何かであった。
その少女の一人が僅かに背を伸ばしている。物言いたげな姿に少女――瑠璃は、ちいさく笑った。
「其方の言いたいことはわかっておる。だが今日ばかりはな、急いても仕方あるまい。彼方が着くに時間がかかる」
ちらりと、先ほどまで見つめていた緑へ視線をやる。緩やかな竹林を抜ける頃にはだいぶ日も落ちているだろう。
彼らこそ、今日お帰りを願った伊角とは違い、正真正銘瑠璃が招いた客だった。
「――それはわかっております。が、あちらは」
あちら、を察して、瑠璃は苦笑した。
フラフラと薄汚れた格好で市井をうろつく飼い犬はお世辞にも褒められたものではない。が、何せ言うことを聞かないのだ。いい加減理解しているだろうに、この少女たちは同じ物言いを繰り返す。
「まあ、風呂だけ用意しておけ。あれは風呂だけは此方を使いたがるゆえな」
とはいえ今晩帰ってくるか、はたまた明日の朝か、昼か。仮にあちらの到着に間に合わないようであれば無理にでも呼び戻すまでである。
ここが七宝の国である限り、今上帝にはその程度のことは造作もない。
今一度、朱の欄干の下に広がる景色を眺める。安寧と繁栄と、混沌と動乱と。崇敬と疑惑と。全てを呑み込み、隠すこの都に、ようやく蒼と紅のふた振りが揃う。
「――いざや、神楽を奉ろうぞ」
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