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2話 邂逅編
8 喧嘩は七宝の華
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犬が『外』にいる間は羅城に近づくな。
七宝にまことしやかに流れる、犬に纏わる話の一つである。
格言とも噂話とも取れるそれは妙にじっとりとしていて、一体いつから都で出回り始めたのかも知れない。昔からだったような気もするしここ数年だったような気もするし、もしかするとほんの数ヶ月そこらの話なのかも知れなかった。確かなことは七宝の民ならば大なり小なり聞いたことのある話で、そして真実に相違ない、ということである。
七宝の羅城とは、都の南に構えられた大門――羅城門と、そこから幾許か伸びる城壁のことを指す。城壁はおよそ正方形をした七宝の国全てを囲っているわけではなく、唯一外からの客人を受け入れる大門のお飾り程度しかない。七宝を初めて見る人間であれば黒曜の大門と白壁の城壁の美しさに感極まるだろうが、内側の人間からすれば全てを囲い守るわけでもない羅城にはいささか頼りなさを覚えるというものだ。帝の坐す七宝の国に攻め入る人間などあろうはずもないが、しばしば煌びやかな戦装束を揃えた行列が羅城の前に現れるのである。
犬は、決まってそんな時分に現れる。
犬が『外』にいる間。この『外』とは、羅城の外を指す。犬の姿を認めれば、市井の人間は皆羅城の裡に引きこもる。外との行き来を許されている商人は例え仕事が滞るとしても羅城には近づかないし、急ぎの仕事がある飛脚は危険を承知で道の悪い七宝の東西へ迂回する。犬は長くて三日、短ければ半日ほどは外に居座るのだ。
さて、裡に留まる七宝の民がこの間どうするかといえば、別に息を潜めて家に籠もっているわけでもない。そもそも大半は『外』になど縁のない生活を送っているのである。七宝の民は呑気で、強かで、そしてある意味倦んでいた。犬に関わり合いたくはないが、犬と、そして外から来るただならぬ客人たちがどうなるのかは毎度興味を惹くところなのである。
何せ七宝は閉じている。もしもあの外に押し寄せるお侍様たちが中に入ることがあれば、一体どれほど賑やかしくなることだろう! 特に七宝の中の変わらぬ顔ぶればかり相手にしている衣食の店などは、外から持ち込まれ落とされる金子に多少なりとも期待していた。
故に「犬が『外』にいる間は羅城に近づくことはない」けれども、一部の人間は非常に色めき立っていた。羅城門に最も近い物見台など当直でもないのに町火消がやたらと入り、その足下の店々では犬と戦行列の顛末を予想しては酒の肴に、あるいは賭けの題目に使う者まで現れる始末である。
今回、朝日の昇った後から犬はどこからともなく現れた。のっそりと羅城門をくぐり、そのまま往来の真ん中に座り込みを始めれば、その姿を誰かが見かけ市中に触れ回るまで然程もかからない。
羅城門から帝坐す神殿まで、七宝を南北に貫く大路の店では、昼にはもう呑兵衛たちが盛り上がりを見せていた。羅城門での行き来が止まるため仕事にならない人間が生まれるのもこうして人の集まる一因だろう。
そして酒と賭け事が絡まれば、荒事に発展するのもまた自明の理である。
「今回も駄目だよ、駄目!」
軒先で大音声が上がったのは、中天を過ぎた太陽がおっとりと坂を下り始めた時分である。
大音声などと称しても、周囲も似たような声量である。誰かが咎めるでもなく、かつんと空になった杯が甲高く悲鳴を上げて机上に尻を着けた。その頭の上を酒精の混じった笑いが滑る。
「櫓に上がった連中の話聞かなかったのかい? 今回は若いお武家様だってよ!」
「じゃあ尚更よ。逆に今回こそはってこともあるだろうが」
同じように空の杯が机に打ち付けられて跳ねる。赤ら顔の男が低く唸り、相手の男をじとりと見つめていた。
「お前さんの話には根拠がねぇのよ。分の悪い方に賭けて一攫千金当ててやろうってだけだろがい、いつもそうだ」
「お前こそ、顔と歳だけで戦上手がわかるのかい。考えなしはどっちかねぇ」
「何だと」
「やんのか、あ?」
二つの空の杯はけたけたと、笑うような音を上げて机上を転がる。大きく弧を描いたそれが縁から地面へ身を投げるのと、杯を捕まえるべき二つの手が相手の襟を捕まえるのは同時だった。
がちゃんがたんと硬い音がいくつか重なり、そこでようやく喧騒の住人たちは胸倉を掴んで拳を握る男二人へ視線を向けるのである。その顔色の大半は赤く、皆一様に期待に満ちた表情を浮かべていた。
「上等だ、表出ろ! ついでに今までの未払い分も払ってけ!」
「その金ぁ商いの方でチャラにしてンだろうが! 調子乗ってんじゃねぇ!」
胡乱にうるさがる者など居やしない。ごつごつと互いの胸を軽く殴り合う二人に道を譲る他の客からは、待ってましたの声やら気の抜けた口笛やら雑な拍手やら、歓迎の意ばかりが諾々と漏れている。更に大半が店の表の大路へ出る二人の後に続き、およそその手には酒杯が握られていた。小突き合いから着物を掴み髪を引っ張り、表に出る二人の手にはすっかり拳が握られている。
店の中から続いた呑兵衛たちが二人を囲んで囃し立てる。すると大路を行く人波もそちらに流れ、こうなればちょっとした騒動だ。しかしながらやはり、下らない理由で始まった殴り合いを止める者は誰も居ない。七宝の民は呑気で、強かで、そしてある意味倦んでいるのだ。喧嘩など酒の肴、娯楽でしかないのである。
「賭けの帳尻を商いで合わせんのがロクデナシっつってんだよ! そんなんだから嫁が出てくんだ!」
「出てったんじゃねえ、西宝の手伝いに出てるっつってんだろうが! あーあー、いい歳して独り身にゃわかんねぇか!」
「ンなこた関係ねぇだろうが! これだから東宝の奴ぁ品がなくていけねぇな!」
そうだそうだと便乗する声が上がる。続けて何だとお前西のモンか、うるせぇ東者はすっこんでろと声が輪になって広がる。最初に殴り合いを始めた二人の向こうで杯を投げた見物人同士が掴み合い、それをまた周りが囃し立て、騒動は更に膨らんでいく。今や大路の半分ほどを埋める人だかりは老いも若きも罵り嘲り掴み合っていた。
重ねて、七宝の民は呑気で強かで倦んでいる。今上帝坐す神殿を北に戴き南北に走る大路は七宝の国を西と東に割っており、大きく西宝東宝と呼んで二分されていた。向かい合う東西にはおよそ同業の商人から始まって稚気めいた対立があり、下らない喧嘩や悪口などは日常茶飯事である。
よって、犬が羅城に居座る非日常に賑やかしの喧嘩を乗せて、西だ東だお前が悪いお前よりは良いなどと言い出せばこうなるのは必然である。つまるところ、七宝の民にとっては喧嘩を見るのも喧嘩をするのも稀少な娯楽の一つなのである。
「おーまーえーが先に嫁の話出したんだろ!」
「いーや、こりゃあ西と東の問題よ! 今日こそ白黒つけてやろうじゃねぇの!」
「上等だ、これで負けたら西者は次から大路の端っこだけ歩けよ!」
「東者こそ、申し訳なさそうに俯いて歩くんだな!」
髪を引っ張り襟を引っ張り、馬乗りになって蹴り上げて。騒動の発端となった二人は各々小競り合いを繰り広げる人の輪の真ん中で砂に汚れるのも厭わず吠え立てている。
いよいよ収拾がつくのが先か呆れ見かねた廻り方が、あるいは他の何かが着くのが先か。
その最中、膨らみに膨らんだ喧騒の真ん中に大股に割って入る姿があった。
そこらあたりで繰り広げられる取っ組み合いを擦り抜け、わあわあ西が東が嫁が独り身がと当初の話も忘れて罵り合う男たちのもとに辿り着く。
「こらーッ! 時間になっても来ないと思ったらこんなところで!」
七宝にまことしやかに流れる、犬に纏わる話の一つである。
格言とも噂話とも取れるそれは妙にじっとりとしていて、一体いつから都で出回り始めたのかも知れない。昔からだったような気もするしここ数年だったような気もするし、もしかするとほんの数ヶ月そこらの話なのかも知れなかった。確かなことは七宝の民ならば大なり小なり聞いたことのある話で、そして真実に相違ない、ということである。
七宝の羅城とは、都の南に構えられた大門――羅城門と、そこから幾許か伸びる城壁のことを指す。城壁はおよそ正方形をした七宝の国全てを囲っているわけではなく、唯一外からの客人を受け入れる大門のお飾り程度しかない。七宝を初めて見る人間であれば黒曜の大門と白壁の城壁の美しさに感極まるだろうが、内側の人間からすれば全てを囲い守るわけでもない羅城にはいささか頼りなさを覚えるというものだ。帝の坐す七宝の国に攻め入る人間などあろうはずもないが、しばしば煌びやかな戦装束を揃えた行列が羅城の前に現れるのである。
犬は、決まってそんな時分に現れる。
犬が『外』にいる間。この『外』とは、羅城の外を指す。犬の姿を認めれば、市井の人間は皆羅城の裡に引きこもる。外との行き来を許されている商人は例え仕事が滞るとしても羅城には近づかないし、急ぎの仕事がある飛脚は危険を承知で道の悪い七宝の東西へ迂回する。犬は長くて三日、短ければ半日ほどは外に居座るのだ。
さて、裡に留まる七宝の民がこの間どうするかといえば、別に息を潜めて家に籠もっているわけでもない。そもそも大半は『外』になど縁のない生活を送っているのである。七宝の民は呑気で、強かで、そしてある意味倦んでいた。犬に関わり合いたくはないが、犬と、そして外から来るただならぬ客人たちがどうなるのかは毎度興味を惹くところなのである。
何せ七宝は閉じている。もしもあの外に押し寄せるお侍様たちが中に入ることがあれば、一体どれほど賑やかしくなることだろう! 特に七宝の中の変わらぬ顔ぶればかり相手にしている衣食の店などは、外から持ち込まれ落とされる金子に多少なりとも期待していた。
故に「犬が『外』にいる間は羅城に近づくことはない」けれども、一部の人間は非常に色めき立っていた。羅城門に最も近い物見台など当直でもないのに町火消がやたらと入り、その足下の店々では犬と戦行列の顛末を予想しては酒の肴に、あるいは賭けの題目に使う者まで現れる始末である。
今回、朝日の昇った後から犬はどこからともなく現れた。のっそりと羅城門をくぐり、そのまま往来の真ん中に座り込みを始めれば、その姿を誰かが見かけ市中に触れ回るまで然程もかからない。
羅城門から帝坐す神殿まで、七宝を南北に貫く大路の店では、昼にはもう呑兵衛たちが盛り上がりを見せていた。羅城門での行き来が止まるため仕事にならない人間が生まれるのもこうして人の集まる一因だろう。
そして酒と賭け事が絡まれば、荒事に発展するのもまた自明の理である。
「今回も駄目だよ、駄目!」
軒先で大音声が上がったのは、中天を過ぎた太陽がおっとりと坂を下り始めた時分である。
大音声などと称しても、周囲も似たような声量である。誰かが咎めるでもなく、かつんと空になった杯が甲高く悲鳴を上げて机上に尻を着けた。その頭の上を酒精の混じった笑いが滑る。
「櫓に上がった連中の話聞かなかったのかい? 今回は若いお武家様だってよ!」
「じゃあ尚更よ。逆に今回こそはってこともあるだろうが」
同じように空の杯が机に打ち付けられて跳ねる。赤ら顔の男が低く唸り、相手の男をじとりと見つめていた。
「お前さんの話には根拠がねぇのよ。分の悪い方に賭けて一攫千金当ててやろうってだけだろがい、いつもそうだ」
「お前こそ、顔と歳だけで戦上手がわかるのかい。考えなしはどっちかねぇ」
「何だと」
「やんのか、あ?」
二つの空の杯はけたけたと、笑うような音を上げて机上を転がる。大きく弧を描いたそれが縁から地面へ身を投げるのと、杯を捕まえるべき二つの手が相手の襟を捕まえるのは同時だった。
がちゃんがたんと硬い音がいくつか重なり、そこでようやく喧騒の住人たちは胸倉を掴んで拳を握る男二人へ視線を向けるのである。その顔色の大半は赤く、皆一様に期待に満ちた表情を浮かべていた。
「上等だ、表出ろ! ついでに今までの未払い分も払ってけ!」
「その金ぁ商いの方でチャラにしてンだろうが! 調子乗ってんじゃねぇ!」
胡乱にうるさがる者など居やしない。ごつごつと互いの胸を軽く殴り合う二人に道を譲る他の客からは、待ってましたの声やら気の抜けた口笛やら雑な拍手やら、歓迎の意ばかりが諾々と漏れている。更に大半が店の表の大路へ出る二人の後に続き、およそその手には酒杯が握られていた。小突き合いから着物を掴み髪を引っ張り、表に出る二人の手にはすっかり拳が握られている。
店の中から続いた呑兵衛たちが二人を囲んで囃し立てる。すると大路を行く人波もそちらに流れ、こうなればちょっとした騒動だ。しかしながらやはり、下らない理由で始まった殴り合いを止める者は誰も居ない。七宝の民は呑気で、強かで、そしてある意味倦んでいるのだ。喧嘩など酒の肴、娯楽でしかないのである。
「賭けの帳尻を商いで合わせんのがロクデナシっつってんだよ! そんなんだから嫁が出てくんだ!」
「出てったんじゃねえ、西宝の手伝いに出てるっつってんだろうが! あーあー、いい歳して独り身にゃわかんねぇか!」
「ンなこた関係ねぇだろうが! これだから東宝の奴ぁ品がなくていけねぇな!」
そうだそうだと便乗する声が上がる。続けて何だとお前西のモンか、うるせぇ東者はすっこんでろと声が輪になって広がる。最初に殴り合いを始めた二人の向こうで杯を投げた見物人同士が掴み合い、それをまた周りが囃し立て、騒動は更に膨らんでいく。今や大路の半分ほどを埋める人だかりは老いも若きも罵り嘲り掴み合っていた。
重ねて、七宝の民は呑気で強かで倦んでいる。今上帝坐す神殿を北に戴き南北に走る大路は七宝の国を西と東に割っており、大きく西宝東宝と呼んで二分されていた。向かい合う東西にはおよそ同業の商人から始まって稚気めいた対立があり、下らない喧嘩や悪口などは日常茶飯事である。
よって、犬が羅城に居座る非日常に賑やかしの喧嘩を乗せて、西だ東だお前が悪いお前よりは良いなどと言い出せばこうなるのは必然である。つまるところ、七宝の民にとっては喧嘩を見るのも喧嘩をするのも稀少な娯楽の一つなのである。
「おーまーえーが先に嫁の話出したんだろ!」
「いーや、こりゃあ西と東の問題よ! 今日こそ白黒つけてやろうじゃねぇの!」
「上等だ、これで負けたら西者は次から大路の端っこだけ歩けよ!」
「東者こそ、申し訳なさそうに俯いて歩くんだな!」
髪を引っ張り襟を引っ張り、馬乗りになって蹴り上げて。騒動の発端となった二人は各々小競り合いを繰り広げる人の輪の真ん中で砂に汚れるのも厭わず吠え立てている。
いよいよ収拾がつくのが先か呆れ見かねた廻り方が、あるいは他の何かが着くのが先か。
その最中、膨らみに膨らんだ喧騒の真ん中に大股に割って入る姿があった。
そこらあたりで繰り広げられる取っ組み合いを擦り抜け、わあわあ西が東が嫁が独り身がと当初の話も忘れて罵り合う男たちのもとに辿り着く。
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