トウジンカグラ

百川カサネ

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2話 邂逅編

9 犬

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 張り上げた声は喧騒の波を凛と打った。
 無論、大路を埋める人波を止めるほどの大音声ではない。しかしながらその声を聞いた者は少しばかり口撃をやめ拳を止めて声の主を見つめる。発端となった男二人も例に漏れず、縺れ合ったままの格好で動きを止めていた。

 袖に襷を掛け、露わになった二の腕が怒っている。腰に手を当て屈むように二人の男を見つめるのは妙齢の女性だった。眉間に皺を寄せ眦を吊り上げて男たちを見下ろしている。

「昼の鐘の前には来るって言ってたでしょう! おかげで仕込みが止まってるんですよ!」

「お、おお……」

 片方の男が露骨に目を泳がせる。つられるようにもう一人の男も視線を逸らし、そろそろと縺れ合う身体を離していた。ついでに女の声を聞いた周囲の幾人かも決まりが悪そうに肩を落とし、その場から退いていく。
 直接怒鳴られる男はのろのろと立ち上がり、引っ張られて乱れた髪もそのままに頭を掻いた。視線は相変わらず泳いでは女の元へ戻り、そしてまたうろうろと彷徨う。へらりと笑みを浮かべて見せても女のじっとりとした視線は変わらない。

「す、すまねぇな。ちっと配達の途中に小腹が空いてさ」

「だったらうちまで届けて、ついでに何か食べていけばいいでしょう」

「いや、いやな、どーしても『こんこんや』さんまで保ちそうになくてさあ」

「保ちそうになくて仕事の途中に一杯引っかけて、『外』の話で盛り上がった挙句に喧嘩を始めてこんな大騒動になってる訳ですか」

 今日は朝から『外』にいるみたいですもんね。女は腕を組んで呆れと苛立ちの混じる息を吐く。男が言葉を詰まらせて呻く。
 犬が羅城に現れ仕事にならない人間がいるのは事実だが、犬がいよういまいが仕事に変わりのない人間がいるのもまた事実である。稀な娯楽を酒の肴に呑めや賭けろや、盛り上がる連中のうち如何ほどが本当に仕事にならないのかそれとも仕事を投げているのか。女の声を聞いた者が一人また一人とこの場から逃げるように後退っているが、それを数えれば答えが見えようというものである。

「毎度毎度、いい大人が昼日中から仕事も忘れて酒に賭けに……まったく――」

 最初に怒鳴りつけた男と、取っ組み合いの相手と、ばつが悪そうに動きを鈍らせる周囲と。それらをぐるりと見渡して、女は息を、声を、吐いた。

「こんなろくでもない大騒ぎしてると、火群くんが来ますよ!」

 何か、腹の底から浚うような大きな声だった訳ではない。静けさが広まりつつあったとはいえ、特段目立つような声ではなかったのだ。
 だがしかし、大路の喧騒はすっかり静まり返っていた。皆一様に苦言を吐いた女を見ている。西だ東だ、嘲りと怒りを混ぜるばかりだった表情はおよそ青ざめて、女に取り繕うように愛想笑いを浮かべていた男も、未払いなどもう構わぬとばかりに彼を置いて行こうとした男も、凍りついて息を止めていた。

 犬が『外』にいる間は羅城に近づくな。

 これは七宝にまことしやかに流れる、犬に纏わる話の一つである。犬を『犬』と呼ばわるのはそれの風体からの呼び名であり、またその名を出すのが憚れるという恐れからの物言いだった。七宝の民は一応、犬の名前を知っている。ただしその名を平然と呼ぶ人間は稀、あるいは昼から賭けや酒に興じるよりももっと質の悪い話だった。
 そして一つというからには、犬に纏わる、格言だか噂話だかわからない話は他にもいくつか存在している。例えば、

「――あァ?」

 七宝で騒動を起こすなら犬が寄ってくるまでに収めるべし、などである。

 気怠い声が妙に静かな大路を横切った。
 途端、ざあっとまばらな波が滑る。冷や水を浴びせられたばかりの面々はてんでばらばらに、しかしその声をきっかけに蠢いた。ある者は思わず声を振り向いて、ある者は途端に目を逸らし、察しの良い者などは早々にこの場を立ち去ろうと歩みを進めている。
 喧騒の発端と中心になっていた男二人と女は察しの良い方ではなかったらしい。その場に留まったまま、主に詰られていた男は声の主を見ていた。置き去りにしようとした男は一歩を踏み出せないまま視線を足下に貼りつけていた。そして女は組んでいた腕を緩め、ろくでなしたちに吊り上げていた眦を僅かにまろく落としている。

「火群くん」

「ンだよ、しぐれか」

 ぐずぐずと崩れ始めていた人の輪の外を撫でるように、件の『犬』が――火群が立っていた。
 しぐれと呼ばれた女はしばし、火群を眺めた。七宝に稀な犬の名を呼ぶ女はまろく削いだ表情にじわじわと険を戻していく。やがて折角落ちていた眦が吊り上がり、そうかと思えばざっと草履の底が苦言を吐いた。すっかり酔いの覚めた呑兵衛共を割るようにずかずかと進む。割られたろくでなしたちはこれ幸いと蹴散らされるまにまにこの場から抜け出していく。
 進むが先か道が割れるが先か。しぐれは一直線に火群の元へ辿り着く。無造作に刀を担ぐ男を前に、彼女は実に端的に呟いた。

「汚い」

「あ゛?」

 黄金の瞳が半眼を剥く。剣呑に唸る頬には血が散って乾いていたが、しぐれが見ているのはそこではない。
 巻きつけて適当に括っただけにしか見えない火群の帯は縒れて、着物は上下とも雑に崩れている。砂と血と白濁が散るそれと、煤色の着物から零れ剥き出しになった肌には乾きかけた白が貼りついていた。

「汚い!」

「それが何だよ、っるせェな」

 重ねて吠えるしぐれに、火群は実にうるさそうに一瞥をくれる。担がれた鯉口ががちゃりとちいさく鳴る。
 平然と火群を罵るしぐれを、およそ場を離れ遠巻きにする人々はそうと知られないようにちらちらと窺っていた。不運にも通りかかった子連れ者などは我が子の目を手で覆いながら犬と女のやり取りに耳を澄ませている。
 犬の名を呼ぶどころか面と向かって声をかけ、挙句に被せて罵るのである。平穏を望む七宝の民には考えられない所業だが、しかししぐれは犬からも名前を呼ばれる程度に見知った関係なのだ。つまり彼女は火群に幾度となく関わり、且つ無事でいる訳である。

「何だよ、じゃないでしょう。こんな格好で、もう――来て!」

「だァから、何でだよ。オレぁこれからメシに、」

「入れる店があると思ってるの?」

 しぐれの言葉とほぼ同時、昼から倦んだ酒飲みたちを抱えていた店は素早く暖簾を下ろした。火群がぐるりと大路を見回しても食事のできる店はもれなく閉まり、杯を持った連中も道行く人々も皆視線を逸らしそそくさと去っていく。
 苛立たしくしぐれは息を吐く。しぐれにとって、そして恐らく火群にとっても見慣れた景色だがどうしても腹立たしい。汚れた格好で店に入れられないのはわかるが、彼らは火群が火群であるという理由で店を閉め目を逸らすのだ。
 しぐれは火群の袖を掴み、引きずるようにして歩き出した。

「おい、しぐれ」

「食べるならうちでもいいでしょう――食材! 持ってきてくださいね!」

 火群の訴えをいなしざま、しぐれはくるりと振り向いた。暖簾の下りた店の中へ消えようとしていた男はびくっと大仰に肩を跳ねさせ、そしてのろのろと片手を挙げる。
 しぐれがわざわざ自身の店から出向いてきたのは、そもそもいつまで経っても食材を届けない八百屋を探してのことだった。それが八百屋や食材でなく火群を引っ張って帰るのはまったくどういうことなのか。よくあることではあるが、あまり面白くはない。特に抵抗もせず引かれるがままに従う火群と共に進めば、行く先行く先で店が閉まり人が散ってゆくのだから。

 七宝を縦に貫く大路を北へ進むことしばらく、しぐれは右の角を曲がる。しぐれの働く『こんこんや』は東宝に位置し、大路から東へ二つ大きな通りを抜けた先にあった。
 飲食の店が軒を連ねる通りで、向かいの居酒屋には早くもひと仕事を終え酒を嗜む男衆か、はたまた暇を持て余し酒に興じるろくでなしの姿がいくらか見えるが、真っ当に昼を摂るには遅く夕を摂るには早い時分だ。総菜を売る煮売屋や料理茶屋である『こんこんや』には人の姿はなかった。火群を連れていても多少気楽だが、そのまばらな人影が火群を認めてひっと声を上げて口を塞ぐのはやはり面白くない。
 知らずしぐれの眉間に皺が寄る。とはいえ文句をつける気があるわけでもない。ぐずぐずしているうちに向かいの居酒屋の客に絡まれても面倒だった。ここに至っても何も言わない火群を引っ張り、しぐれは店の裏手へ回った。
 『こんこんや』は幸いなことに井戸のすぐ傍に位置しており、更には蓋付きの瓶に水を汲み置いてある。しぐれは火群の袖を離す代わりに備え付けの柄杓を手に取った。

「……確かに、洗ってない犬ぐらい酷いけど」
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