トウジンカグラ

百川カサネ

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2話 邂逅編

11 夜の背中

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 しかし。しぐれは首を傾けるように、ぎこちなく横に振った。

「ごめんね、ちょっと……上を貸して欲しいって人が来るの。しばらくは火群くんを泊めてあげられないと思う」

「ふぅん。ならいい」

 あっさりと答えて、火群はしぐれの方へ空の膳を押しやった。しぐれの申し訳なさなどまるで頓着していない。最初から何も期待していなかったような声だった。
 立てていた膝を解き、火群はぐうっと伸びながら小上がりを下りる。鯉口がちいさく鳴く刀を掴み、我が物顔で炊事場へ、そのまま裏口から外へと出て行った。渡された膳を手にしぐれが窺えば、羽織を脱いで生乾きであろう元の着物を身に纏っているところだった。
 慌てて膳を拭いて片し、洗い桶に皿を浸けてしぐれも外へ出る。相変わらずのちいさく刺すような伯父の視線も気にならない。ほんの僅かな間に火群はすっかり着替えを終え、帯に刀を差して表の通りへと足を向けていた。

 火群が常日頃どこにいて何をしているのか、市中をうろつくか羅城の外にいる以外の姿をしぐれは知らない。しばらく泊められないと答えてしまったからもうそれきりになりそうで、しぐれは薄く見えるその背を追いかける。口を開く。

「よぉ、火群ぁ」

 当然、しぐれの声ではない。

 通りに一歩を踏み出した火群の前に、ゆらりと傾ぐ人影がある。諸肌脱ぎにした半纏を腰で撓ませ腹掛けが露わになった姿が如何にもひと仕事を終えたといった風体の男である。そんな男が赤ら顔にやたら親しげな声で火群の行く手を遮っている。

 火群の名を呼び、話しかける人間など稀である。しぐれはその稀な人間であるが、七宝で平穏に倦む、賭けて呑むようなろくでなしよりももっと質の悪い者、あるいは火群を使と質の悪いことを考える者もまた、火群の名を気安く呼ぶのだ。真っ当な方のろくでなしからは火群と同じく遠巻きにされるような輩である。
 火群は黙って足を止め、ふらふらと揺れながらやたら近づいてくる赤ら顔を見つめているようだった。恐らく『こんこんや』の向かい、居酒屋の客だろう。顔ぐらいは見たことがあるような気もするが、しぐれの知る男ではない。彼はじろじろと火群の頭の天辺から足の先までを見つめ、酒臭い息を吐いた。

「聞いたぜ、今日も『外』で派手にヤッてきたんだろ?」

 枯れ野色の後ろ頭は微動だにしない。平坦な声で答える。

「それがどうした」

「俺も相手してもらいてぇって思ってよぉ。今晩、いいだろ?」

 な? 重ねる男は火群の耳元にわざわざ唇を寄せた。赤く日に焼け酒精に染まった手がするりと腰を掠めている。
 しぐれにもはっきりとわかる、下卑た仕草、声、視線。不快感に胸がちりちりと焦げる。気持ち悪いとか、怒りとか、そういうものに突き動かされてしぐれは唇を開いた。けれど口の中が乾いてしまって、魚みたいにはくりと喘ぐだけだった。
 しぐれはただの女給だ。男がもしも激昂したら抗う術なんかない。それに、たぶん、しぐれに止める権利なんてない。しぐれは当然火群の家族ではないし、思われ人でも思い人でも、友人でもない。火群がどこで誰とどんな付き合いを以て暮らしているのかなど知らない。ただ、こんな輩にあからさまに絡まれて火群が頷くのは嫌だと、しぐれが勝手に思っているだけなのだ。

「いいぜ」

 けれど火群は快も不快もない声で、あっさりと答えた。間違いなく肯定の意を示しながら、男の手を払い除けるでもなく。
 赤ら顔がにんまりと脂下がる。そのまましばし火群に耳打ちをして、そして男は現れたときと同じようにふらりふらりと去っていった。火群は男の去った方を一瞥すると、何事もなかったかのように歩き始める。

「――っほ、火群くん!」

 今度は声になった。火群は足を止め振り向いて、そこでやっとしぐれと目が合った。

「ンだよ」

「ぁ、あの、さっきの、」

「さっきィ?」

 火群は少しだけ上へと視線を向けた。考えるような間はややあって「ああ」という何の感慨もない声で掻き消える。

「上がしばらく使えないって話ならいいっつったろ。今晩は寝るとこも決まったしよ」

「ぁ……う、ん」

 腹の底がちくりと、刺されたような気がする。
 いつものように店の天井裏を貸していれば、もしかすると火群は先ほどの男に頷かなかったのかも知れない。自分勝手に拒んで欲しいと思って口を噤んで、結局火群を男の元に向かわせるのはしぐれ自身が原因なのではないか。

 そうではないと知っている。しぐれは毎日火群と顔を合わせているわけではない。知らない時間の方が当然多く、火群にとって先ほどのようなやり取りはいつものことなのかも知れない。そもそも伯父の嫌な顔を無視しているだけであの店はしぐれの物ではないし、本当に、今日からしばらく火群を天井裏に上げることはできないのだ。
 自分は随分と身勝手で、ただの偽善者だ。項垂れながら、それでもしぐれはちいさく口の端を持ち上げて微笑んだ。

「じゃあ、また。店に、来てね」

「おー。じゃあな」

 あっさりと背を向けて火群は去っていく。火群が自ら『こんこんや』に足を運んだことなど二、三度しかなく、ほとんどしぐれが無理矢理連れてきているのだと返さなかったのは単に忘れているのか、どうでもいいのか。万が一にもしぐれに対する優しさということはないだろう。
 通りの向こうに消える背を見送って、しぐれは緩慢に踵を返した。表口から店に入り、まだ客のいない奥へと続く座敷を見るともなしに見ながらとぼとぼと進む。衝立で仕切られた、ほんの少し前まで火群が座していた奥の間を前についに足を止めた。
 火群が座っていた場所に、几帳面に銭貨が積まれている。手に取って数えれば火群に供した料理に色をつけたような額。

 七宝には犬に纏わる話がある。

 曰く、『外』にいる間は羅城に近づくな。曰く、騒動を起こすなら犬が寄ってくる前に収めるべし。
 そして曰く――厄介を抱え込む覚悟がある者と命知らずは家に入れてやれ、犬は対価以上の金を落とす。

 火群が金を払っている訳ではない。彼がここを去る際には確かに何もなかった。あれほど無頓着に服を脱ぐのだ、そもそも金子を持ち歩いているかも怪しい。それでもこうして毎度毎度、必ず、火群に供した以上の額が気がついたら店のどこかに積まれている。まるで風に乗って運ばれたか、見えない誰かが置いて行ったように。
 炊事場に戻り、しぐれは手にした銭貨を棚の中の銭箱に入れた。仕事に戻ろうと洗い桶に浸けたままの皿を手に取る。

「しぐれ」

 顔を上げる。調理の手を止めた凩が真っ直ぐにしぐれを見ていた。

「あまりあれに深入りするなよ」

「……わかってるよ」

 平生は口数少なく、姪のするがままを諦めている伯父の低い声。その伯父が敢えて念を押した意味をしぐれはよく心得ている。
 ちいさく俯いて、伯父の視線から逃げるようにしぐれは顔を背けた。裏口の向こうで、火群が来ていた羽織と貸してやった手拭いが、寂しく物干しに揺れていた。
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