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3話 邂逅編
16 深夜の湯殿
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ちかちか瞬く白い星々をまぶした深く濃い藍。端っこには落ちゆく丸い月が申し訳程度に添えられている。
冗談みたいに細かな彫り物のされた欄干と庇に飾られて切り取られた夜空。遮る物は何もない。雲もなく、無論無粋に突き上げる櫓の類いも見当たらない。ここは七宝で一番高く尊い場所だ。あの欄干近くまで歩み寄れば、眼下に広がる七宝の町並みも、羅城の遠くに広がる田園も更に先まで伸びる街道も霞む山々も、全てが眺望できるだろう。
無論、火群はそんなことはしなかった。必要がないし、高いところはどうにも腹の底がすうすうして好きではない。
何より今は湯の中にたっぷりと浸っている。折角温まったのにわざわざ冷えるような真似はしたくなかった。
長く息を吐く。思いの外反響して、そのまま湯の流れる静かな音に紛れて消えていく。縁に頭を預けて天井を仰げば、細やかに複雑に組まれた木材に目が回りそうになる。
誰がどうして何のためにここまで手の込んだ風呂を作ったのか、火群には手間を想像こそすれとんと理由がわからない。水は川を流れるか地面から湧くものだと思うのだが、ここは七宝が一望できる高さである。どこからどうやって湯船を満たすだけの湯を運んでいるのだろう。その湯船だって縦にも横にも、火群がひと掻きふた掻き、三掻き泳いでもまだ端に辿り着かないほどの長さと広さがある。実際に泳いで確かめているので間違いない。泳げば腹が擦るぐらいなので、深さだけは妥当だろう。
火群は天井を仰いだまま、頭の天辺までとぷんと湯に沈んだ。うねうね泳ぐ己の髪と水面の向こうで、煌々と焚かれた灯りと目眩のするほど細かな天井の模様がゆらゆらと揺れている。
天井も、壁も、床も湯船も、全て白っぽい木で組まれ端々に細やかな飾り彫りがされている。風呂なんて体を洗うだけだろうに、そんな飾りが必要なのだろうか。
何より解せないのは、この阿呆ほど広い風呂を使う人間がほとんどいないらしいことである。七宝の街に住む人間は各戸に風呂がなく、大衆浴場に行くらしいので――というのも火群がその大衆浴場に行っても暖簾を外され戸を閉められるのでしぐれから聞き及んだだけの話なのだが――そういう場所ならばこの広さでも理解できるのだが、少なくとも火群がここに入る際に誰かが一緒ということはない。
呆れのまにまに息を吐けばぶくぶくと泡が昇る。潰すように湯を跳ね上げて、火群はざばりと身を起こした。吐いた息の分静かに吸えば湯の甘さに紛れて深い木の匂いが鼻腔と胸を満たしていく。湯船も床も壁も天井も、風呂場に使われる白っぽい木材は全てこんな匂いがする。すんすん鼻を鳴らしながら湯船の縁に再び頭を乗せれば、不意に淡い影が差した。
「火群」
前言通り、火群がこの風呂に入る際に誰かが一緒、ということはない。湯の中で肩を並べるという意味で。
ただし勝手に浴場に立ち入って、伝言や小言を並べ立てる奴なら何人かいる。
影の中で火群は眉間に皺を寄せた。構わず頭上の影は声を落とした。
「お前、ありゃどこで何してきた」
見上げるがまま、逆さまの視界で一人の男が火群を見下ろしている。浴場にいながら直衣に奴袴姿で、そして顔は面布に覆われている。面布に編まれた模様は昼に火群を迎えに来た娘たちと同じ意匠で、つまりこの宮中は雲開殿に相応な立場の人間ということだ。しかしやはり、どう見ても風呂に入る格好ではない。
火群は背中を滑らせてもう一度湯船に沈んだ。何やら湯の向こうに聞こえた小言を跳ね上げ、男と向かい合う格好で頭を出す。ついでに組んだ手の腹に溜めた湯を男の顔面に向けて撃ってやった。
「んぶぇっ!」
「ンだよ、ざまァねェなあ刻」
呻きながら顔に貼りつく布と戯れる姿に気をよくして、火群は湯の中で伸ばした足を組む。
じたじたと足を踏みながら悶絶していた男――刻は、やがて面布を取り去って白木の床に投げ捨てた。びちゃりという音に荒い溜め息が重なる。
「あのなあ! 人間、口鼻濡れた布で覆われると息ができねぇんだよ!」
「へェ、いいこと聞いた。覚えとくわ」
「お前……ああ、もういい」
刻は濡れた顔を振るって水を飛ばし、湿った前髪を掻き上げた。多分に呆れを含んだ目を眇め衣服が濡れるのも厭わずその場に座り込む。そのまま胡座を掻いた膝に肘を突き手の甲に頬を乗せ、じっとりと火群を見据えた。
「お前に付き合ってると話が進まん。どこで何してきたって訊いてんだ、俺は」
「別に。いつも通りだよ」
「……廊下で董女がお前の着物を持ってくのとすれ違った。いつも通りか知らんが、血が多かったように思うが」
刻の声が低くなる。対して火群は、相も変わらず複雑に編まれた天井の木目を見上げた。
董女、とは何のことか。ううんと考えて薄らと思い至る。
たった今、目の前の男が床に捨てた布の模様。あれと同じものを身につけた娘たちを、刻や他の連中は董女と呼んでいるようだった。火群には馴染みがない呼称なので今ひとつ覚えられない。
今見上げている天井よりも更に上に坐す、この七宝で最も尊い女の側に控える少女たち。昼に火群へ伝言を持ってきたように不意に現れては火群の世話も焼いていく。恐らくあの女の言いつけなのだろうが、状況によっては呆れや苛立ちを滲ませる者もいる。直接小言を言われるでなし火群は彼女たちが何を思おうとどうでもよいのだが、相手の態度に快不快を覚えないわけでもない。
「珊瑚な。ツメとか言われてもわかんねェよ」
夜もとっぷりと更けた時分、血と精液のこびりついた格好で戻ろうと嫌な顔をしないのは彼女たちの中では珊瑚ぐらいだ。無論、刻と違って彼女たちは面布を取り去ることはないので所作や口調から察するしかないのだが、珊瑚は湯殿へ向かう火群の後ろに黙って従い、新しい着物を置き汚れた着物を持って去っていった。刻はそこをすれ違ったのだろう。
答える火群に刻は複雑な表情を浮かべる。
「あいつらの区別がつくなんて、主上とお前ぐらいだよ」
「ふうん」
刻のこの顔がどういう感情なのか、火群にはとんとわからない。自分と並ぶあの女の話題も不快だ。故にばしゃりと湯を鳴らした。組んで伸ばした足を解き、火群は刻と同じように湯の中で胡座を掻く。
「着物の血ならオレんじゃねェよ」
「そんな心配してねぇよ」
刻は元のじっとりとした視線に戻っている。確かに全裸で湯に浸かっているのだから傷がないのは見てわかるだろう。
「どこで何人斬った。伊角との時じゃねぇだろ」
「東宝の一番デカいボロ屋敷で三人」
いすみとは何だったか、思い出せないがとりあえず刻の問いには答えておく。
そもそもこの問答とて意味があるのだろうか。火群がどこで何人斬ろうと、とりあえず七宝のどこかで死体が転がっていて、早いか遅いかはともかく廻り方か町火消しか、あるいは先に察した宮中からの近衛が死体を検めて、そして片付けることに変わりはない。
冗談みたいに細かな彫り物のされた欄干と庇に飾られて切り取られた夜空。遮る物は何もない。雲もなく、無論無粋に突き上げる櫓の類いも見当たらない。ここは七宝で一番高く尊い場所だ。あの欄干近くまで歩み寄れば、眼下に広がる七宝の町並みも、羅城の遠くに広がる田園も更に先まで伸びる街道も霞む山々も、全てが眺望できるだろう。
無論、火群はそんなことはしなかった。必要がないし、高いところはどうにも腹の底がすうすうして好きではない。
何より今は湯の中にたっぷりと浸っている。折角温まったのにわざわざ冷えるような真似はしたくなかった。
長く息を吐く。思いの外反響して、そのまま湯の流れる静かな音に紛れて消えていく。縁に頭を預けて天井を仰げば、細やかに複雑に組まれた木材に目が回りそうになる。
誰がどうして何のためにここまで手の込んだ風呂を作ったのか、火群には手間を想像こそすれとんと理由がわからない。水は川を流れるか地面から湧くものだと思うのだが、ここは七宝が一望できる高さである。どこからどうやって湯船を満たすだけの湯を運んでいるのだろう。その湯船だって縦にも横にも、火群がひと掻きふた掻き、三掻き泳いでもまだ端に辿り着かないほどの長さと広さがある。実際に泳いで確かめているので間違いない。泳げば腹が擦るぐらいなので、深さだけは妥当だろう。
火群は天井を仰いだまま、頭の天辺までとぷんと湯に沈んだ。うねうね泳ぐ己の髪と水面の向こうで、煌々と焚かれた灯りと目眩のするほど細かな天井の模様がゆらゆらと揺れている。
天井も、壁も、床も湯船も、全て白っぽい木で組まれ端々に細やかな飾り彫りがされている。風呂なんて体を洗うだけだろうに、そんな飾りが必要なのだろうか。
何より解せないのは、この阿呆ほど広い風呂を使う人間がほとんどいないらしいことである。七宝の街に住む人間は各戸に風呂がなく、大衆浴場に行くらしいので――というのも火群がその大衆浴場に行っても暖簾を外され戸を閉められるのでしぐれから聞き及んだだけの話なのだが――そういう場所ならばこの広さでも理解できるのだが、少なくとも火群がここに入る際に誰かが一緒ということはない。
呆れのまにまに息を吐けばぶくぶくと泡が昇る。潰すように湯を跳ね上げて、火群はざばりと身を起こした。吐いた息の分静かに吸えば湯の甘さに紛れて深い木の匂いが鼻腔と胸を満たしていく。湯船も床も壁も天井も、風呂場に使われる白っぽい木材は全てこんな匂いがする。すんすん鼻を鳴らしながら湯船の縁に再び頭を乗せれば、不意に淡い影が差した。
「火群」
前言通り、火群がこの風呂に入る際に誰かが一緒、ということはない。湯の中で肩を並べるという意味で。
ただし勝手に浴場に立ち入って、伝言や小言を並べ立てる奴なら何人かいる。
影の中で火群は眉間に皺を寄せた。構わず頭上の影は声を落とした。
「お前、ありゃどこで何してきた」
見上げるがまま、逆さまの視界で一人の男が火群を見下ろしている。浴場にいながら直衣に奴袴姿で、そして顔は面布に覆われている。面布に編まれた模様は昼に火群を迎えに来た娘たちと同じ意匠で、つまりこの宮中は雲開殿に相応な立場の人間ということだ。しかしやはり、どう見ても風呂に入る格好ではない。
火群は背中を滑らせてもう一度湯船に沈んだ。何やら湯の向こうに聞こえた小言を跳ね上げ、男と向かい合う格好で頭を出す。ついでに組んだ手の腹に溜めた湯を男の顔面に向けて撃ってやった。
「んぶぇっ!」
「ンだよ、ざまァねェなあ刻」
呻きながら顔に貼りつく布と戯れる姿に気をよくして、火群は湯の中で伸ばした足を組む。
じたじたと足を踏みながら悶絶していた男――刻は、やがて面布を取り去って白木の床に投げ捨てた。びちゃりという音に荒い溜め息が重なる。
「あのなあ! 人間、口鼻濡れた布で覆われると息ができねぇんだよ!」
「へェ、いいこと聞いた。覚えとくわ」
「お前……ああ、もういい」
刻は濡れた顔を振るって水を飛ばし、湿った前髪を掻き上げた。多分に呆れを含んだ目を眇め衣服が濡れるのも厭わずその場に座り込む。そのまま胡座を掻いた膝に肘を突き手の甲に頬を乗せ、じっとりと火群を見据えた。
「お前に付き合ってると話が進まん。どこで何してきたって訊いてんだ、俺は」
「別に。いつも通りだよ」
「……廊下で董女がお前の着物を持ってくのとすれ違った。いつも通りか知らんが、血が多かったように思うが」
刻の声が低くなる。対して火群は、相も変わらず複雑に編まれた天井の木目を見上げた。
董女、とは何のことか。ううんと考えて薄らと思い至る。
たった今、目の前の男が床に捨てた布の模様。あれと同じものを身につけた娘たちを、刻や他の連中は董女と呼んでいるようだった。火群には馴染みがない呼称なので今ひとつ覚えられない。
今見上げている天井よりも更に上に坐す、この七宝で最も尊い女の側に控える少女たち。昼に火群へ伝言を持ってきたように不意に現れては火群の世話も焼いていく。恐らくあの女の言いつけなのだろうが、状況によっては呆れや苛立ちを滲ませる者もいる。直接小言を言われるでなし火群は彼女たちが何を思おうとどうでもよいのだが、相手の態度に快不快を覚えないわけでもない。
「珊瑚な。ツメとか言われてもわかんねェよ」
夜もとっぷりと更けた時分、血と精液のこびりついた格好で戻ろうと嫌な顔をしないのは彼女たちの中では珊瑚ぐらいだ。無論、刻と違って彼女たちは面布を取り去ることはないので所作や口調から察するしかないのだが、珊瑚は湯殿へ向かう火群の後ろに黙って従い、新しい着物を置き汚れた着物を持って去っていった。刻はそこをすれ違ったのだろう。
答える火群に刻は複雑な表情を浮かべる。
「あいつらの区別がつくなんて、主上とお前ぐらいだよ」
「ふうん」
刻のこの顔がどういう感情なのか、火群にはとんとわからない。自分と並ぶあの女の話題も不快だ。故にばしゃりと湯を鳴らした。組んで伸ばした足を解き、火群は刻と同じように湯の中で胡座を掻く。
「着物の血ならオレんじゃねェよ」
「そんな心配してねぇよ」
刻は元のじっとりとした視線に戻っている。確かに全裸で湯に浸かっているのだから傷がないのは見てわかるだろう。
「どこで何人斬った。伊角との時じゃねぇだろ」
「東宝の一番デカいボロ屋敷で三人」
いすみとは何だったか、思い出せないがとりあえず刻の問いには答えておく。
そもそもこの問答とて意味があるのだろうか。火群がどこで何人斬ろうと、とりあえず七宝のどこかで死体が転がっていて、早いか遅いかはともかく廻り方か町火消しか、あるいは先に察した宮中からの近衛が死体を検めて、そして片付けることに変わりはない。
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