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3話 邂逅編
17 予感
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火群の不服を察したように刻は眉間に皺を寄せる。そのまま火群ではなく白木の床でとぐろを巻く面布、とは反対側の床を見つめた。
そこには火群が横たえた、鞘に納まったままの紅蓮がいる。今は無粋な鋼に隠された、飛沫いた赤を纏い炎を閉じ込めた刀刃。つい数刻前の煌めきを思い返し、火群は目を細める。
「たまたまか、それは」
「いや? 昼に誘われて夜にヤッた。誘ってきた奴は七宝者だが一人は余所者であとの一人は巻き込まれただけの素人。外の奴が本職で二人は金に釣られたンだろ」
視線は紅蓮に注いだまま、ふと金の話で思い至り火群は口角を上げた。ちらりと視線を上げれば刻は渋面を浮かべている。
「巻き込まれた奴な、病気の嫁とガキがいるって泣いてたわ。ババアに面倒見ろって言っといてくれ」
「……ああ」
刻の声は了承ではなく、ほとんど溜め息のように聞こえた。
それでも頷いていることには違いなく、火群は首を傾げる。刻は薄く目を開いて紅蓮を、それから火群を見た。相変わらずどういう感情なのか火群にはわからなかったが、次に飛んできたのが小言であることはわかった。
「あのな。お前を襲うような外の人間がいるならな、俺らも考えなきゃなんねぇことがあるんだよ」
「ふうん。でもババアがいンだろ」
「確かに主上は七宝の全てを視ておられるし七宝において絶対だが、そういうことじゃなくてよぉ……」
頬杖を突いていた刻の腕が持ち上がり、未だに湿った前髪をがじがじと掻く。
ああ、うう、などと唸る刻を見つめて、火群は姿勢を崩した。大きく湯を波打たせて湯船の縁までいざり寄る。水気を纏う紅蓮に寄り添うように縁にこめかみを預ければ刻を見上げる格好になった。気づいた刻が指の隙間から見下ろしてくる。
次に吐かれた言葉は低く這い、何かを削ぎ落としたようだった。先ほどの溜め息めいた声によく似ていた。
「一応訊いておくが、お前、そういう連中と寝ないって選択肢はないのか」
「なんで?」
首を傾げる。刻は苦虫を噛み潰したような顔になった。
そもそも、今でこそ大人しく湯船に収まっているが火群は雲開殿を嫌っているがために毎夜寝床を漁る訳である。夜の同衾に誘われればしめたもので、一晩は安泰と見ていい。仮に相手が悪く今回のように正しい意味で襲われるのであっても、それはそれで構わない。紅蓮を振るうことができる。火群は誰かを紅蓮で斬るのが、正しくは誰かを、何かを斬る紅蓮が――刀刃としての本性を現す紅蓮が、何よりも好きなのだ。
夜の薄明かりに赤を散らす、あるいは昼の陽光に照り返す紅蓮の輝きを思い出す。自然、零れる息は湯よりもとろりとして熱く、火群は身体の奥がぐずるように疼くのを感じた。
湯に沈む前に残滓を吐き出した後孔が、また中に食むものを求めて緩んでいく。浅いところに湯が入り込んで火群はきゅっと眉根を寄せた。堪らず頬を縁に擦りつければ、眼前には紅蓮が横たわっている。
火群は常にこの身を満たすものを求めている。誰かに身体を求められるということは中を埋められるということだ。相手が誰であれ、それがどこであれいつであれ、欲しいと思ったらそれに従う。至って自然なことだった。躊躇、拒否、迷い、そんなもの必要がない。意味がない。
故に、火群は左手で紅蓮をなぞる。ちゃぷりと湯の中から右手を持ち上げて、未だに頭を抱える刻へと指を伸ばす。
「なァ、」
湯船の縁に頬を預ける低い位置と、眼前で胡座を掻く姿勢は都合が良い。交差した裸足を乗り越えて直衣の裾から指を潜らせた。刻の膝が僅かに跳ね、指の隙間から垣間見える瞳が眇められる。
奴袴の厚い生地に覆われた股間をするりと辿る。湯殿には似つかわしくない刻の冷えた眼差しはそれでも拒むものではないだろう。吐いた声が甘ったれて掠れていることなど自分でも理解している。それで靡く男ではないが、火群の熱になどとうに気づいているはずだった。
「ヤろォぜ」
「……ここではしねぇぞ」
刻が気づかないはずがない。刻は拒まない。
誘われれば誰とでも。目についたなら誰とでも。思い至ったならばすぐにでも。そうして我が身を満たす火群には、一度だけの相手もいれば幾度か身体を重ねた相手もいる。中でも互いに居所がこの宮中にあり、そして真っ当に火群と言葉を交わす数少ない人間である刻はどうしてもの際の寝床と呼んで差し支えなかった。その程度には身体を合わせている。
「あっは、」
そもそもの話、薄らとした記憶ではあるが刻である。火群に空虚を埋める手段を最初に教えた人間は。
「ンなこと言ってねェよ。刻、風呂でしてェの?」
「阿呆抜かせ。ここは主上の湯殿だぞ」
荒く息を吐いて刻は火群の手を振り払った。
火群は紅蓮の柄に濡れた指を鈍く滑らせながら立ち上がる。ざばあと湯が流れて視界が湯気で曇った。その向こうで渋面を浮かべた刻がそれでも胡座を掻いたまま、目を背けず立ち去りもしないことに薄く笑う。
「じゃあ、お前の房で」
いつも通り、までは言わなかった。刻とてわかっているはずである。
裸身を刻に晒しながら、火群は剥き出しの肩に紅蓮を担いだ。刻はぽたぽたと湯の雫を垂れ流す火群を黙って見上げ、やがて伏し目のついでのように息を吐いて立ち上がった。濡れた面布を拾い上げながら、律儀にいつも通りを付け足して。
「身体と、髪も拭いて来い。服も着ろよ」
最近は改めたというのに、以前どうせ脱ぐのだからと服を着ずに行ったことを根に持たれている。刻が小うるさいだけで相変わらず必要性は感じないのだが、火群は適当に返事をしておいた。恐らく火群の不服も見透かして、それでも刻は一瞥もくれず湿った足音だけを残して浴場を後にする。
刻の背中をたっぷりと見送って、火群はぶるぶると頭を振った。外には珊瑚が置いていった身体を拭く布も着替えもある。刻に釘を刺された以上それらを使うつもりはもちろんあるが癖だった。冷え始めた雫が散り、紅蓮の鍔がちいさく鳴った。
その音がどこか硬質だった。
違和感。火群はそろりと、担いでいた紅蓮を眼前に翳す。
鉄を鍛え上げた以上、硬質な音など当たり前だ。火群は何度も、あらゆる場面で紅蓮の囁きのような鍔鳴りを耳にしている。鞘と刀刃が触れ合う音はもちろんのこと、紅蓮は生半可な刀ならば叩き折る程度の硬度を持っている。鈍く高い蹂躙の音は耳に心地良く、それだけで火群の裡に甘い陶酔を呼ぶ。
それでも、違和感がある。今まで聞いたどの音とも違う音。
膝下を湯に浸したまま、火群はゆっくりと抜刀する。炎を閉じ込めたような赤みを帯びた刀身。鞘を抜けるさやかな音。何かに引かれるように、火群は背後、欄干と庇に飾られ切り取られた夜空に紅蓮を掲げた。傾き落ちゆく月を刀身で掬い上げ、そしてそのまま斬るように。
緩慢な軌跡に削り取られた、十重二十重と蒼を重ねた藍深い天穹。奔る紅蓮の刀刃など知らぬとばかりに佇んでいる。眼下に七宝の町並みを見下ろして、夜と月光の涼感を天から注ぎながら。紅蓮の鋼の静謐な熱を、高く高く見下ろしながら。
違和感の正体はまだわからない。
そこには火群が横たえた、鞘に納まったままの紅蓮がいる。今は無粋な鋼に隠された、飛沫いた赤を纏い炎を閉じ込めた刀刃。つい数刻前の煌めきを思い返し、火群は目を細める。
「たまたまか、それは」
「いや? 昼に誘われて夜にヤッた。誘ってきた奴は七宝者だが一人は余所者であとの一人は巻き込まれただけの素人。外の奴が本職で二人は金に釣られたンだろ」
視線は紅蓮に注いだまま、ふと金の話で思い至り火群は口角を上げた。ちらりと視線を上げれば刻は渋面を浮かべている。
「巻き込まれた奴な、病気の嫁とガキがいるって泣いてたわ。ババアに面倒見ろって言っといてくれ」
「……ああ」
刻の声は了承ではなく、ほとんど溜め息のように聞こえた。
それでも頷いていることには違いなく、火群は首を傾げる。刻は薄く目を開いて紅蓮を、それから火群を見た。相変わらずどういう感情なのか火群にはわからなかったが、次に飛んできたのが小言であることはわかった。
「あのな。お前を襲うような外の人間がいるならな、俺らも考えなきゃなんねぇことがあるんだよ」
「ふうん。でもババアがいンだろ」
「確かに主上は七宝の全てを視ておられるし七宝において絶対だが、そういうことじゃなくてよぉ……」
頬杖を突いていた刻の腕が持ち上がり、未だに湿った前髪をがじがじと掻く。
ああ、うう、などと唸る刻を見つめて、火群は姿勢を崩した。大きく湯を波打たせて湯船の縁までいざり寄る。水気を纏う紅蓮に寄り添うように縁にこめかみを預ければ刻を見上げる格好になった。気づいた刻が指の隙間から見下ろしてくる。
次に吐かれた言葉は低く這い、何かを削ぎ落としたようだった。先ほどの溜め息めいた声によく似ていた。
「一応訊いておくが、お前、そういう連中と寝ないって選択肢はないのか」
「なんで?」
首を傾げる。刻は苦虫を噛み潰したような顔になった。
そもそも、今でこそ大人しく湯船に収まっているが火群は雲開殿を嫌っているがために毎夜寝床を漁る訳である。夜の同衾に誘われればしめたもので、一晩は安泰と見ていい。仮に相手が悪く今回のように正しい意味で襲われるのであっても、それはそれで構わない。紅蓮を振るうことができる。火群は誰かを紅蓮で斬るのが、正しくは誰かを、何かを斬る紅蓮が――刀刃としての本性を現す紅蓮が、何よりも好きなのだ。
夜の薄明かりに赤を散らす、あるいは昼の陽光に照り返す紅蓮の輝きを思い出す。自然、零れる息は湯よりもとろりとして熱く、火群は身体の奥がぐずるように疼くのを感じた。
湯に沈む前に残滓を吐き出した後孔が、また中に食むものを求めて緩んでいく。浅いところに湯が入り込んで火群はきゅっと眉根を寄せた。堪らず頬を縁に擦りつければ、眼前には紅蓮が横たわっている。
火群は常にこの身を満たすものを求めている。誰かに身体を求められるということは中を埋められるということだ。相手が誰であれ、それがどこであれいつであれ、欲しいと思ったらそれに従う。至って自然なことだった。躊躇、拒否、迷い、そんなもの必要がない。意味がない。
故に、火群は左手で紅蓮をなぞる。ちゃぷりと湯の中から右手を持ち上げて、未だに頭を抱える刻へと指を伸ばす。
「なァ、」
湯船の縁に頬を預ける低い位置と、眼前で胡座を掻く姿勢は都合が良い。交差した裸足を乗り越えて直衣の裾から指を潜らせた。刻の膝が僅かに跳ね、指の隙間から垣間見える瞳が眇められる。
奴袴の厚い生地に覆われた股間をするりと辿る。湯殿には似つかわしくない刻の冷えた眼差しはそれでも拒むものではないだろう。吐いた声が甘ったれて掠れていることなど自分でも理解している。それで靡く男ではないが、火群の熱になどとうに気づいているはずだった。
「ヤろォぜ」
「……ここではしねぇぞ」
刻が気づかないはずがない。刻は拒まない。
誘われれば誰とでも。目についたなら誰とでも。思い至ったならばすぐにでも。そうして我が身を満たす火群には、一度だけの相手もいれば幾度か身体を重ねた相手もいる。中でも互いに居所がこの宮中にあり、そして真っ当に火群と言葉を交わす数少ない人間である刻はどうしてもの際の寝床と呼んで差し支えなかった。その程度には身体を合わせている。
「あっは、」
そもそもの話、薄らとした記憶ではあるが刻である。火群に空虚を埋める手段を最初に教えた人間は。
「ンなこと言ってねェよ。刻、風呂でしてェの?」
「阿呆抜かせ。ここは主上の湯殿だぞ」
荒く息を吐いて刻は火群の手を振り払った。
火群は紅蓮の柄に濡れた指を鈍く滑らせながら立ち上がる。ざばあと湯が流れて視界が湯気で曇った。その向こうで渋面を浮かべた刻がそれでも胡座を掻いたまま、目を背けず立ち去りもしないことに薄く笑う。
「じゃあ、お前の房で」
いつも通り、までは言わなかった。刻とてわかっているはずである。
裸身を刻に晒しながら、火群は剥き出しの肩に紅蓮を担いだ。刻はぽたぽたと湯の雫を垂れ流す火群を黙って見上げ、やがて伏し目のついでのように息を吐いて立ち上がった。濡れた面布を拾い上げながら、律儀にいつも通りを付け足して。
「身体と、髪も拭いて来い。服も着ろよ」
最近は改めたというのに、以前どうせ脱ぐのだからと服を着ずに行ったことを根に持たれている。刻が小うるさいだけで相変わらず必要性は感じないのだが、火群は適当に返事をしておいた。恐らく火群の不服も見透かして、それでも刻は一瞥もくれず湿った足音だけを残して浴場を後にする。
刻の背中をたっぷりと見送って、火群はぶるぶると頭を振った。外には珊瑚が置いていった身体を拭く布も着替えもある。刻に釘を刺された以上それらを使うつもりはもちろんあるが癖だった。冷え始めた雫が散り、紅蓮の鍔がちいさく鳴った。
その音がどこか硬質だった。
違和感。火群はそろりと、担いでいた紅蓮を眼前に翳す。
鉄を鍛え上げた以上、硬質な音など当たり前だ。火群は何度も、あらゆる場面で紅蓮の囁きのような鍔鳴りを耳にしている。鞘と刀刃が触れ合う音はもちろんのこと、紅蓮は生半可な刀ならば叩き折る程度の硬度を持っている。鈍く高い蹂躙の音は耳に心地良く、それだけで火群の裡に甘い陶酔を呼ぶ。
それでも、違和感がある。今まで聞いたどの音とも違う音。
膝下を湯に浸したまま、火群はゆっくりと抜刀する。炎を閉じ込めたような赤みを帯びた刀身。鞘を抜けるさやかな音。何かに引かれるように、火群は背後、欄干と庇に飾られ切り取られた夜空に紅蓮を掲げた。傾き落ちゆく月を刀身で掬い上げ、そしてそのまま斬るように。
緩慢な軌跡に削り取られた、十重二十重と蒼を重ねた藍深い天穹。奔る紅蓮の刀刃など知らぬとばかりに佇んでいる。眼下に七宝の町並みを見下ろして、夜と月光の涼感を天から注ぎながら。紅蓮の鋼の静謐な熱を、高く高く見下ろしながら。
違和感の正体はまだわからない。
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