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第2章 雨夜の密室
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これはお芳と神無月惣十郎の出会いとなった
ある夜の御噺
江戸の秋は、冷たい雨とともに訪れる。
その年の秋は殊のほか雨が長く、空は鉛色の雲に覆われ、人々の顔にも陰を落としていた。本所一帯も例外ではなく、川沿いの道はぬかるみ、長屋では雨漏りを桶で受ける音が絶えなかった。町人たちは「天も泣いておるわ」と冗談めかして言ったが、その夜ばかりは、ほんとうに泣き声のように聞こえた。
本所の一角に屋敷を構える旗本・松平頼清は、
雨音を背に眠りについていた。
五十を過ぎたばかりの男は、かつては槍術に秀で、
藩内でも名を馳せた武辺者であった。
若き日には戦場での武功もあり、家臣や親類の誇りでもあった。だが時代は移ろい、今や槍も剣も飾り物にすぎぬ。家を支えるのは武勇ではなく、財政と人脈。頼清はその転換を悟るのが遅すぎた。
無駄な出費と賭博への耽溺、さらに親類への見栄を張った贈答――気づけば借財は雪のように積もり、利息は雪崩のごとく屋敷を押し潰さんとしていた。用人の岩吉は帳簿を抱え、日ごとに増えていく借用書に頭を抱え、女中頭のお芳は主の眉間に深く刻まれていく皺を憂いた。若党の辰蔵は、かつての勇壮な殿が酒に逃げる姿を見るたびに歯噛みしていた。
――そして、その雨夜に、事件は起きた。
翌朝。
空はなお鉛色に沈み、雨脚は弱まらぬまま。用人の岩吉は朝餉の支度が整ったと知らせるため、主の部屋へと向かった。几帳の前に膝をつき、低く声を掛ける。
「殿、朝にござりまする」
だが返事はない。もう一度声を張ったが、沈黙が返るのみ。
岩吉は眉をひそめ、障子に手をかけたが、引き戸はびくともしなかった。内側から閂が掛かっている。
「おかしいぞ……」
胸騒ぎを覚えた岩吉は廊下を駆け戻り、下男たちを呼び集めた。三人がかりで渾身の力を込め、閂ごと枠を外すように戸を押しやると――ようやく中へ踏み込むことができた。
その瞬間、室内を見た者たちは息を呑んだ。
床の間に、頼清がうつ伏せに倒れていた。
衣服は乱れ、胸元には短刀が深々と突き立っている。畳は鮮血で赤く染まり、鉄の匂いが鼻を衝いた。
「殿……!」
岩吉の叫びが屋敷を震わせた。
障子も窓も閉ざされ、外へ通じる道はない。
ただ雨音ばかりがじわじわと耳を打っていた。
「こ、これは……殿はご自害されたのだ」
下男の一人が震える声で言った。確かに、近頃の頼清は借金に悩まされ、顔色も悪く、言葉少なだった。
「……そうに違いない。殿は刀で胸を……」
岩吉もそう言いかけて口をつぐんだ。
その場に居合わせた一人の男が、じっと死体を見つめていたからだ。
古びた羽織に身を包み、痩せぎすの風采は浪人そのもの。だが眼差しは異様に鋭い。
男の名は神無月惣十郎。
素性は定かでないが、町方の岡っ引きたちですら一目置く「謎解き浪人」であった。
惣十郎は一歩、二歩と死体に近づき、低く呟いた。
「これは……他殺にござる」
屋敷の者たちは一斉に彼を見やった。
「な、何を申す。殿は自ら命を絶たれたのだ!」
「胸を一突き、しかも戸は内から掛けられていた。誰も入れるはずがないではないか」
ざわめきが広がる。
惣十郎は首を横に振り、ゆるりと扇子を開いた。
「自害に見せかけた、見事な細工。……これは密室の仕掛けにござる」
雨の音がいっそう強まって聞こえた。
屋敷に仕える女中のお芳は、その背後に立ち、胸を押さえた。彼女には、この浪人がどんな真実を引きずり出すのか、まるで予想がつかなかった。
やがて奉行所から同心の田代源八が駆けつけた。
小柄で声の大きい源八は、屋敷の者に矢継ぎ早に問いただしながらも、惣十郎の意見には耳を傾けた。
「ふむ、確かに柄に血がないのは妙だ。殿が自ら突いたのなら、手や柄は血に濡れているはず……」
「加えて、殿の手首に擦り傷がございます。これは刃物を握ったのではなく、逆に押し当てられた証。つまりは他殺」
「なるほど……」
こうして、旗本・松平頼清の死は単なる自害ではなく、「密室殺人」として扱われることになった。
用人・岩吉:主を守ろうとする忠義者だが、借財の管理をしていたため疑われる。
若党・辰蔵:雨の夜回りをしていたと主張するが、廊下の足音との矛盾。
女中頭・お芳:密かに殿を慕っていたが、噂を恐れて胸に秘めていた。彼女の証言が事件の矛盾を浮き彫りにする。
甥・源三郎:冷静すぎる態度、不自然な遅参、刀の鞘に残った血痕。
夜。屋敷の灯が薄暗く揺れる中、惣十郎は皆を座敷に集めた。
「さて、殿を手にかけた下手人を申さねばなるまい」
一同は息を呑んだ。雨音が天井から滴るように響く。
「下手人は――松平源三郎、そなたにござる」
どよめき。
源三郎の顔色は蒼白になり、刀の鞘がわずかに震えていた。
「伯父の借財を理由に、己が跡を継ごうとしたな。
そなたは短刀で胸を突き、竹ひごで外から閂を落とした。密室は作り物にすぎぬ。
証拠はそなたの刀。鞘に残った血の滴が、何よりの証左よ」
源三郎はやがて膝を崩し、嗚咽まじりに叫んだ。
「伯父上は……愚かでございました! 家を滅ぼすお方を、わたしが止めねばならなかった……!」
同心・源八が手勢を呼び、源三郎を取り押さえる。
惣十郎は扇子を閉じ、静かに天を仰いだ。
外では、雨がようやく小降りになりつつあった。
夜明けは遠いが、やがて光は差すだろう。
だがその光の下で、また新たな闇が生まれるのかもしれぬ。
神無月惣十郎の歩む道は、いつも謎と血に彩られていた。
ある夜の御噺
江戸の秋は、冷たい雨とともに訪れる。
その年の秋は殊のほか雨が長く、空は鉛色の雲に覆われ、人々の顔にも陰を落としていた。本所一帯も例外ではなく、川沿いの道はぬかるみ、長屋では雨漏りを桶で受ける音が絶えなかった。町人たちは「天も泣いておるわ」と冗談めかして言ったが、その夜ばかりは、ほんとうに泣き声のように聞こえた。
本所の一角に屋敷を構える旗本・松平頼清は、
雨音を背に眠りについていた。
五十を過ぎたばかりの男は、かつては槍術に秀で、
藩内でも名を馳せた武辺者であった。
若き日には戦場での武功もあり、家臣や親類の誇りでもあった。だが時代は移ろい、今や槍も剣も飾り物にすぎぬ。家を支えるのは武勇ではなく、財政と人脈。頼清はその転換を悟るのが遅すぎた。
無駄な出費と賭博への耽溺、さらに親類への見栄を張った贈答――気づけば借財は雪のように積もり、利息は雪崩のごとく屋敷を押し潰さんとしていた。用人の岩吉は帳簿を抱え、日ごとに増えていく借用書に頭を抱え、女中頭のお芳は主の眉間に深く刻まれていく皺を憂いた。若党の辰蔵は、かつての勇壮な殿が酒に逃げる姿を見るたびに歯噛みしていた。
――そして、その雨夜に、事件は起きた。
翌朝。
空はなお鉛色に沈み、雨脚は弱まらぬまま。用人の岩吉は朝餉の支度が整ったと知らせるため、主の部屋へと向かった。几帳の前に膝をつき、低く声を掛ける。
「殿、朝にござりまする」
だが返事はない。もう一度声を張ったが、沈黙が返るのみ。
岩吉は眉をひそめ、障子に手をかけたが、引き戸はびくともしなかった。内側から閂が掛かっている。
「おかしいぞ……」
胸騒ぎを覚えた岩吉は廊下を駆け戻り、下男たちを呼び集めた。三人がかりで渾身の力を込め、閂ごと枠を外すように戸を押しやると――ようやく中へ踏み込むことができた。
その瞬間、室内を見た者たちは息を呑んだ。
床の間に、頼清がうつ伏せに倒れていた。
衣服は乱れ、胸元には短刀が深々と突き立っている。畳は鮮血で赤く染まり、鉄の匂いが鼻を衝いた。
「殿……!」
岩吉の叫びが屋敷を震わせた。
障子も窓も閉ざされ、外へ通じる道はない。
ただ雨音ばかりがじわじわと耳を打っていた。
「こ、これは……殿はご自害されたのだ」
下男の一人が震える声で言った。確かに、近頃の頼清は借金に悩まされ、顔色も悪く、言葉少なだった。
「……そうに違いない。殿は刀で胸を……」
岩吉もそう言いかけて口をつぐんだ。
その場に居合わせた一人の男が、じっと死体を見つめていたからだ。
古びた羽織に身を包み、痩せぎすの風采は浪人そのもの。だが眼差しは異様に鋭い。
男の名は神無月惣十郎。
素性は定かでないが、町方の岡っ引きたちですら一目置く「謎解き浪人」であった。
惣十郎は一歩、二歩と死体に近づき、低く呟いた。
「これは……他殺にござる」
屋敷の者たちは一斉に彼を見やった。
「な、何を申す。殿は自ら命を絶たれたのだ!」
「胸を一突き、しかも戸は内から掛けられていた。誰も入れるはずがないではないか」
ざわめきが広がる。
惣十郎は首を横に振り、ゆるりと扇子を開いた。
「自害に見せかけた、見事な細工。……これは密室の仕掛けにござる」
雨の音がいっそう強まって聞こえた。
屋敷に仕える女中のお芳は、その背後に立ち、胸を押さえた。彼女には、この浪人がどんな真実を引きずり出すのか、まるで予想がつかなかった。
やがて奉行所から同心の田代源八が駆けつけた。
小柄で声の大きい源八は、屋敷の者に矢継ぎ早に問いただしながらも、惣十郎の意見には耳を傾けた。
「ふむ、確かに柄に血がないのは妙だ。殿が自ら突いたのなら、手や柄は血に濡れているはず……」
「加えて、殿の手首に擦り傷がございます。これは刃物を握ったのではなく、逆に押し当てられた証。つまりは他殺」
「なるほど……」
こうして、旗本・松平頼清の死は単なる自害ではなく、「密室殺人」として扱われることになった。
用人・岩吉:主を守ろうとする忠義者だが、借財の管理をしていたため疑われる。
若党・辰蔵:雨の夜回りをしていたと主張するが、廊下の足音との矛盾。
女中頭・お芳:密かに殿を慕っていたが、噂を恐れて胸に秘めていた。彼女の証言が事件の矛盾を浮き彫りにする。
甥・源三郎:冷静すぎる態度、不自然な遅参、刀の鞘に残った血痕。
夜。屋敷の灯が薄暗く揺れる中、惣十郎は皆を座敷に集めた。
「さて、殿を手にかけた下手人を申さねばなるまい」
一同は息を呑んだ。雨音が天井から滴るように響く。
「下手人は――松平源三郎、そなたにござる」
どよめき。
源三郎の顔色は蒼白になり、刀の鞘がわずかに震えていた。
「伯父の借財を理由に、己が跡を継ごうとしたな。
そなたは短刀で胸を突き、竹ひごで外から閂を落とした。密室は作り物にすぎぬ。
証拠はそなたの刀。鞘に残った血の滴が、何よりの証左よ」
源三郎はやがて膝を崩し、嗚咽まじりに叫んだ。
「伯父上は……愚かでございました! 家を滅ぼすお方を、わたしが止めねばならなかった……!」
同心・源八が手勢を呼び、源三郎を取り押さえる。
惣十郎は扇子を閉じ、静かに天を仰いだ。
外では、雨がようやく小降りになりつつあった。
夜明けは遠いが、やがて光は差すだろう。
だがその光の下で、また新たな闇が生まれるのかもしれぬ。
神無月惣十郎の歩む道は、いつも謎と血に彩られていた。
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