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第九章 墨坂の決戦

第46話 翁と媼

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 宇陀に戻った磐余彦いわれひこは、敵の配置を探るため高倉山たかくらやまに登った。
 紛らわしいが、先に登った高見山たかみやまは奈良県東吉野村と三重県松阪市との境界に位置する標高一二四八メートルの峻険しゅんけんな山である。
 別名「関西のマッターホルン」とも呼ばれる。
 それに比べこの高倉山は、宇陀の中心から少し外れた場所にある里山ともいえる低山である。
 とはいえ、頂に登れば大和盆地との境にあたる山並みがくっきりと見え、その向こうにヤマトの根拠地がある。
 磐余彦が高倉山の頂から眺めると、西の国見丘くにみのたけの上に八十梟帥やそたけるの軍勢が陣を張っていた。
 八十とは数えきれないほどの大勢、梟帥とは勇猛な兵士という意味である。
 北方の墨坂すみさか男坂おさか忍坂おしさか)、女坂めさかのあたりまで敵が迫っていた。
 いずれも要害の地で、正面から打ち破るのは簡単ではない。
 さらに後方にはこの地の豪族兄磯城えしきの大軍が待ち構えている。

 その夜、磐余彦は神に祈って眠った。
 すると夢に天神が現れ、
天香具山あめのかぐやまやしろの土を取ってきて平瓦ひらかを八十枚作れ。同じくお神酒みきを入れるへいを作り、天神地祇てんじんちぎまつれ。さらに身を清めて呪詛じゅそを行えば、敵は自然に降伏するだろう」
 と告げた。
 だが天香具山は敵陣の向こう側にある。
「どうすればよいだろう?」
 まず相談したのは軍師の椎根津彦しいねつひこである。
「訳もないことです」
 そう言って椎根津彦は自らの策を簡潔に述べた。
 それを聞いていた一同が、一斉に椎根津彦を見た。
「その役、誰がやるんだい?」
 来目くめの言葉に、ぐっと詰まる椎根津彦。
 磐余彦が済まなそうに上目づかいに言った。
「言い出した者がやるのが、もっとも成功するであろうな…」
 一同がにやりとして、「さあ、支度だ!」と活気づいた。

「ぷっ!」
 椎根津彦の顔に泥化粧を施していた来目が、こらえきれずに噴き出した。
「渋い男もここまで来ると台無しだねえ」
 来目はさらに調子に乗って、顔に墨を塗りたくろうとする。
 椎根津彦がじろりと睨んだ。
「これっ、遊びではないぞ!」
 叱った道臣みちのおみも、実は必死で笑いをこらえている。そのため怒ったような表情にならざるをえないのだ。
「なんでおいらまで…」
「すまぬ。背格好から、そなたしか頼めぬのだ」
 腐る弟猾おとうかしに磐余彦が慰めの言葉をかけた。
 弟猾は細身で背も低く、顔立ちも整っているため、女に化けるのには適任だったのである。 
 ぎの当たったぼろぼろの着物を着て、破れた蓑笠みのかさを被ったおきなが、憮然ぶぜんとした表情でたたずんでいる。
 隣にいるのもまたを着た貧相なおうな(老婆)である。
 翁のほうは椎根津彦、媼のほうは弟猾である。
 両人とも顔は泥や墨にまみれて、端正な顔立ちは見る影もない。
 どこから見ても見すぼらしい老夫婦である。 
 完全に翁と媼になりきった椎根津彦と弟猾の姿を見て、案の定、敵兵たちも爆笑した。
 そして、「汚らしい年寄りどもめ。とっとと行け!」と、毛ほども疑わずに道を開けた。
 お陰で二人は無事に天香具山に登り、土を持ち帰ることができた。
 磐余彦は大いに喜び、この土を混ぜて平瓦や酒器などを作り、丹生川にゅうがわの上流で天神地祇を祀った。
 『日本書紀』には、他にも水なしであめを作ったり、お神酒の瓶を川に沈めたら魚が浮き上がってきた、など不思議な現象があったと記されている。

 その後磐余彦は自ら顕斎うつしいわいとなって、皇祖神である高皇産霊尊たかみむすびのみことの神降ろしをした。顕斎とは「神のしろ」となることである。
 日本では古くから依り代といえば巫女、つまり女性がなるものと考えられてきた。
 邪馬台国の女王卑弥呼や、十四代仲哀ちゅうあい天皇のつま神功じんぐう皇后などがよく知られている。
 しかし能力があれば、男でも巫者ふしゃの役目を果たせるのである。
 天地開闢てんちかいびゃく神話に登場する伊弉諾尊いざなぎのみこと伊弉冉尊いざなみのみこと両尊のうち、伊弉諾尊は男神である。「なぎ」とは神薙かんなぎの「薙」である。
 また『日本書紀』には「十代崇神すじん天皇の御代に国内に疫病が流行し、多くの死者が出たため占ったところ、大物主おおものぬし神による災いによるもので、その子孫を探し出して祀らせよとお告げがあった。そこで子孫の大田田根子おおたたねこを召して祀らせたところ、災いは収まった」とある。
 この大田田根子もまた、男の巫者「巫覡ふげき」である。

 磐余彦は熊野で眠りから覚めて以降、自らの内に宿る神霊の力を強く意識するようになった。
 熊野では天照大神から授かった布都御魂剣ふつのみたまのつるぎで邪気をはらうことができた。
 しかしこの戦いを勝ち抜くためには、それだけでは十分ではなかった。
 自らが依り代となって、神託を受ける必要があったのである。
 『日本書紀』には磐余彦が「土のかめ厳瓮いつへ、火の名を厳香来雷いつのかぐつち、水の名を厳罔象女いつのみつはのめ、食べ物の名を厳稲魂女いつのうかのめ、薪の名を厳山雷いつのやまつち、草の名を厳野椎いつののづちと名付けた」と記されている。
 この「もの」に名前を付けること自体、神に代わって行う行為である。
 この時の磐余彦は、神と人間のあいだに立ち、土や火、水、食べ物といった自然界から与えられたものを敬い、神の名代みょうだいとして名を授けたのである。
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