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第十章 纏向の悲劇

第52話 王の焦燥 

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 三輪山の麓で日向ひむか軍とヤマト軍との激闘が繰り広げられてから一月余が過ぎた。
 それ以後は、初瀬川はつせがわを挟んで両軍の睨み合いが続いていた。
 戦いは日向軍が優勢に進め、ヤマト軍は後方に退却したが、日向軍にもこれ以上攻め寄せる余力はなかった。
 その後もところどころで散発的な小競り合いは起きたが、本格的な戦闘には至っていない。
 事実上の休戦状態である。 
 両軍とも戦いにみ、厭戦えんせん気分はすぐにヤマト市中にも広がった。
 身分の貴賤にかかわらず、戦火による損害を被るのは真っ平御免だと思うのは当然の心理である。
 この空気をいち早く読んだヤマトの豪族たちの中には、先述したように磐余彦を政権に迎え入れようとするグループが現れた。
 ただしそれがただちに「王権譲渡」とするか否かで意見が纏まらなかったため、未だ水面下の動きに留まっている。

 豪族たちが注目しているのは主にニギハヤヒの処遇である。
「ニギハヤヒ殿が退位を素直に受けるかどうかが問題だ」
「そうじゃな。あの方は未だ王権に未練たらたらのはずじゃ」
「いや、今や王は命が保証されるなら、王位を譲ってもいいと考えているという」
「そりゃまことか。だがそうなると長髄彦ながすねひこが怒り狂うであろう。あの御仁は『ヤマトに命を預ける』と言って出雲王を降りたのだからな」
「長髄彦が必死に戦っている間は、王も勝手に降りるとは言いにくいじゃろう」
「ああ。ニギハヤヒ王にとっては、むしろ長髄彦の存在が厄介かもしれんのう」
 ヤマト王ニギハヤヒは焦慮しょうりょに駆られていた。
 連合国家ヤマトは、所詮豪族たちの寄せ集めの政権である。
 強い霊性と卓越した指導力を持って君臨した、女王卑弥呼の時代とはそもそも違う。
「それでも時代が違うのだから仕様がないではないか。しかも吾を選んだのはいましらである」
 卑弥呼とは比ぶべくもない凡庸な王ニギハヤヒは、自分の無力さを多分に時代や他人のせいにしていた。
 新たな王を求める民の声が、日に日に高まりつつあることはニギハヤヒも承知している。
 我が子ウマシマジは温厚で慎み深いと群臣たちの間でも評判がよい。ヤマト王としての資格は十分にある。
 だがそれはあくまで平和な時代の後嗣こうしとしてであり、混乱の時代を自ら率いていく力はない。その点は吾もそうだが――
 乱暴者の弟クマシカデのほうが乱世には向いている。
 ただしクマシカデは無謀にも遠く九州まで遠征し、彼の地で討たれてしまった。
 ひょっとして磐余彦いわれひこという男がここまでやってきたのも、クマシカデのせいなのかもしれぬ。
 だとすれば、寝た子を起こしたようなものではないか。
――余計なことをしてくれたものだ……。
 ニギハヤヒの頭の中にはこんな思いが巡っていた。
 
 唐土もろこしでは疫病、天災、暗愚な王の三つが重なったときに天命が尽き、王権が滅びるという。
 易姓革命えきせいかくめいの思想である。
 いま倭国では数年置きに繰り返される大水や日照り、なゐなえ(地震)に加え、疫病による死者も急増している。
 自分では決して無能とは思わないが、このまま手をこまねいていたのでは、政権は遠くない将来に瓦解する。
 今朝も畿内の豪族たち十人ほどを集めて開かれた評議の席で、議論は紛糾した。
「今すぐ講和の使者を送り、磐余彦どのを新たな王として迎えるべき」
「そんなことをしては由緒正しきヤマトの王族の沽券に関わる」
「そんなことを言っている場合か。相手は旭日昇天きょくじつしょうてんの勢いで攻めてくるであろう」
「そうじゃ、新王の下に人心を一新すべし」
 三十畳ほどもある王宮の朝堂ちょうどうで、さまざまな声が飛び交った。
 豪族たちの間では、磐余彦を次の王として迎えるべきだという意見が今や多数を占めている。
 その中心ともくされるのが、三輪の豪族事代主ことしろぬしである。
 だが事代主は自ら発言することはせず、あくまで「磐余彦を招請せよ」と叫ぶ若手豪族の後見役という立場を崩さなかった。
――狸め。
 自分が座る玉座から見て左の最前列に端然と座る事代主の横顔をじろりと睨み、ニギハヤヒは苦々しく思った。
――吾が汝をうとましく思い、政権から遠ざけてきたことを根に持っているのだ。
 とニギハヤヒは邪推した。

 この〈新王招致〉推進派の主張に、ニギハヤヒは当然ながら異を唱えた。
「『講和』というが、実質は降伏ではないか。ただちに降伏するのではなく、折を見て王権を譲るということではいかぬのか?」
「それでは先方が納得しますまい。磐余彦どのは吾らのような緩い〈クニ〉同士の結びつきではなく、倭国をひとつの国として束ねたいとお考えのようです。そのためには一日も早く王権を譲って欲しいのでは」
 推進派の豪族が磐余彦の〝意向″を代弁すると、一同がうなずいた。
 ただしこれもこの豪族が勝手に忖度そんたくしたことで、磐余彦自身はそんなことは一言も言っていない。
「その場合、吾の地位はどうなる。皆はよい。日向の者に気に入られれば、重臣に取り立てられることも可能であろう。だが吾はただ打ち棄てられるのか。それではあまりに薄情ではないか?」
 そう迫られては豪族たちも黙るよりない。
 ニギハヤヒの本心は「このままむざむざと王位を渡してしまえば、自分は見せしめとしてほふられる恐れもある。それだけは御免こうむる。自分の命と身分を保証しろ」ということである。
 彼にとって最も都合がよいのは、仮に王位を譲っても自分は引き続き政権に留まり続けることである。
――どうせ日向の小僧は、ヤマトのことはろくに知らない田舎者であろう。小僧を傀儡かいらいにして実権を握ることも、できぬ話ではない。試しにやらせて失敗したら、責任を取らせればよいだけのことだ。
 すべては希望的観測にすぎないのだが、ニギハヤヒの中ではこれが唯一無二の策として浮かび上がってきた。

 問題は長髄彦である。
 今なお前線に留まり部隊を引かない上に、朝儀ちょうぎにも出て来ない。
 一軍を率いる責任者としては当然のことかもしれないが、これは「講和には断じて応じない」という強い意思表示とも取れる。
 ニギハヤヒのつま三炊屋姫みかしきやひめは長髄彦の実の妹である。
 つまり長髄彦は、ニギハヤヒにとって義理の兄にあたる。
 これまで軍事的なことは、この頼もしい義兄に任せておけばよかった。
 ニギハヤヒが政権を維持して来られたのも、長髄彦の強い後ろ盾があったからだ。
 ところが今では、その長髄彦が自己保身の最大の障害となりつつあった。
 先日も長髄彦を王宮に呼び出して二人だけで話し合った。
 何とかほこを収めるよう懇願するニギハヤヒに対し、長髄彦は頑として首を縦に振らなかった。
「戦わずして降伏したのではヤマト建国の女王に申し訳が立たない。最後まで戦うのみです」
 と愚直を絵に描いたような返答を繰り返した。
「しかしそれはヤマト王たる吾に背くことになるのではないか。それは真の忠義とは言えぬぞ」
 悲鳴にも聞こえるニギハヤヒの言葉に、長髄彦は皮肉な笑みを見せた。
「吾が貫くのはヤマトに対する忠義であって、王個人に対してではありませぬ」
 ニギハヤヒは背筋が寒くなった。
 自分にとってはきわめて厄介な、危険きわまりない思想である。
 ニギハヤヒは死にたくなかった。
 少しでも有利な形で降伏するのが、ここに至ってはもっとも賢明な策だと信じて疑わなかった。
 そのために為すべきことは――
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