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人と獣

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 ――人は“同じ”じゃないと気が済まない。
 周りと違う耳を、足を、肌を持つ俺にとって、世界は残酷だった。

 いつか解り合える日がくる。
 そう言っていた父さんと母さんは街で殺された。
 そんな日は来ないって、馬鹿な俺にもよくわかった。
 親切なヤツがいたものだ。
 ていねいに現実を知らしめてくれる、殺してやりたいくらい親切なヤツが。

 街から逃げだしてきた獣人族が住まう村。
 魔獣の襲撃に怯え、わずかな食料を切り崩す日々だったけど、そこには幸せがあった。

 歩いていても石を投げられない。
 誰にも殴られない。蹴られない。
 ……そんな、あり得ないほどの幸せが。

 みんな虚ろな目をしていた。
 何かに怯えて、よく悲鳴をあげていた。
 “同じ”を求める人にとって、きっとそれは気持ち悪かったんだろうな。

 ――だから襲われた

 魔獣じゃない、“同じ”を求める人たちに。
 残酷な現実を教えてくれる、親切なヤツらに。

 やっと手に入れた幸せを奪われたとき気がついたんだ。
 人と同じじゃないことは、悪いことなんだって。

 たくさん肉が裂けた。
 たくさん血が流れた。
 たくさん……痛い思いをした。
 
 擦り切れた心は体を離れてゆく。
 にごりきった瞳が最後に、駆けよる老人の姿を映した。



 ◆



 まぶたの裏に張り付いた古い夢を裂くと、あたたかい日差しが出迎えてくれた。
 太陽の位置が、窓枠についた傷よりも少しズレている。
 どうやら寝坊してしまったようだ。

 冷えた寝汗の気持ち悪さに顔をしかめながら、俺はベッドから這い起きる。
 食堂ではみんなと朝飯が待っているだろうし、早くしなければ、とも思っている。
 けれども足が前に進まない。腹の底に巣食う心的外傷が、部屋に閉じ込めようと邪魔をする。

「……はあ。忘れちまえれば楽なんだけどな」

 ため息とともに言葉を吐く。
 心的外傷は身体に残ったままだけど、足の重みは少し和らいだようだ。
 ラピスのように足を引きずりながら、俺は部屋をあとにした。

 軋む廊下の端を行く。こればっかりはもう体に染みついていて、中央を歩くことができないのだ。
 街で俺に出来た唯一の自衛策は、隅を歩いて目立たないようにするだけだった。
 できるだけ卑屈に、身をかがめて。

 もっとも、それはもう数年も前のことだ。
 けれども俺にとって道の中央は、恐怖の対象のままだった。
 情けないことだと自分でも思う。男らしくない、格好悪いってわかっている。
 ……でも、怖いんだ。廊下の中央を見るだけで歯がカチカチと鳴って、頭の上の耳が伏せられてしまうほどに。

 もう一度ため息で気持ちを落ち着けて、俺は視線を滑らせる。
 暗色くらいろの廊下からはずれて、窓の外に広がる世界へと。
 そこには秋があった。
 色づいた木々と落ち葉。赤く熟したコールの実。そして枯れ葉が一枚、風に吹かれて飛んでゆく。
 ひらひらと舞う死んだ色の葉は、石の塀を越えていってしまった。
 外へ出ることが何よりも恐ろしくて、一歩を踏み出せないできる俺たちと違って。

 そんな暗い思考になるのも、きっと悪夢のせいなのだろう。
 らしくない。俺はもっと明るいやつだったはずだ。
 思い描いた自分に近づこうと、窓を鏡に身たてて毛並みを整え、俺は足を前へとすすめた。
 そして食堂の手前で深呼吸。
 夢のことを意識の外へ追い出し、心を決めた俺は、

「――おはよう!」

 勢いよくドアを開けてあいさつした。

 真っ先に瞳が映したのは、血のつながらない家族の姿。
 次いでやわらかく湯気をあげる鍋が、匂いをただよわせて存在を主張する。

 朝起きたら必ずあいさつをしなさい。とは、おじいちゃんの教えである。
 あの場所では無視されるだけだったけれど、ここでは違う。
 声に気づいたみんなが、笑顔で挨拶を返してくれた。

「……コリー、遅い」

 仏彫面で遅刻を指摘するルシルを除いて。
 どうやら食事の時間が遅れたことにおかんむりなようだ。
 そんな彼女も、結局そのあと「おはよう」と言ってくれた。

 彼女はいつも仏彫面、無表情だ。眉根が位置を変えることも、頬がゆるむこともない。
 なんでも表情を変えることができないらしい。
 俺たちはみんな大なり小なり心的外傷を抱えているから、それについてどうこう思うことはないけれど。
 表情だけが気持ちを伝える手段じゃないし。

 食堂に並ぶのは見知った顔ばかり。
 ただ一人、新しい家族のエイミーを除いて。
 昨日初めて言葉を交わした彼女は、俺を怖がっているふうだった。
 暴力を振るわれたり、罵声を浴びせられることには慣れている。
 だけど怖がられるのは初めてで、どう接していいのかわからなかった。

「……はやく」

「あぁ、ごめんごめん!」

 腕を引っ張るルシルに軽く謝ってから席につく。
 夢のせいでガラにもなく落ち込んでいるのかもしれないな。
 飯を食って忘れてしまおう。

 胸の前に手を合わせ、目を閉じて小さく礼をする。
 そして、いつも通りの朝食が始まった。



 ◆



 朝食も済んだし畑仕事に行こうかと席を立ったところで、服の裾が引っ張られた。
 机のささくれにでも引っかかっているんだろう。
 そう当たりをつけて目を向けると、裾はエイミーの指先とつながっていた。

「えーと……」

 これはどういう状況なんだろう。
 服を引っぱる力は決して強くなく、悪意がないことは間違いない。
 意味がわからなくて頬をかいていると、彼女は意を決したように口を開いた。

「あの、畑! 付いていっていい……かな?」

 きゅっと握りしめられたこぶし。
 途切れ途切れに紡がれる言葉と同じように、透きとおった黒眼も、俺の顔と自身の手を行き来していた。
 言いたいことはわかったけど、どうして俺なんだろう。

「あー……畑の案内って、おじいちゃんがするんじゃなかったか?」

 昨日、たしかそんな話になっていたはずだ。
 俺は別に構わないけど、それじゃあエイミーが辛いだろう。
 わざわざ怖い思いをさせるのは俺だって嫌だ。

 けれど、彼女はぶんぶんと首を横に振る。
 はためく黒髪からわき立つのは、ほのかに甘い香りと汗の匂い。……ああ。そういえば俺も、昨日は水浴びしてなかったな。

「その、ね」

 思考が逸れ、ぼーっとしていた俺にエイミーは語りかける。
 彼女は両手の指をあわせ、もぞもぞと動かしながら、

「おじいちゃんは忙しいみたいで、“他の子と行ってきなさい”って言われて……」

 伏し目がちに彼女は理由を教えてくれた。
 なるほど。
 でも、それならルシルとかラピスのほうがよかったんじゃないだろうか。

「――――っ」

 意図を読もうと思って視線を向けると、目が合った彼女は びくっと肩を揺らした。
 怯えているだろうことは想像に難くない。これは、断ったら断ったで怖がらせてしまいそうだ。

「いいよ。一緒に行こうぜ!」

 どうしようか悩んだものの、結局は受け入れることにした。
 もしかしたら怖くないことを伝えられるかもしれない。……なんて、ちょっとした願望もあったから。

「よ、よろしくお願いします!」

 ずいぶんと礼儀正しい女の子に、こちらも照れ笑いを浮かべながら「お願いします」と頭を下げておいた。
 ふだん不作法な俺がこんな格好をしているなんて、なんだか自分でもおかしく感じてしまう。
 夕飯のとき、ルシルあたりにいじられてしまうかもしれないな。

 エイミーの顔には、濃い緊張の色がにじんでいた。



 ◆



 この家には礼拝堂にある正面入り口のほかに、居住スペースから直接外に出る裏口がある。
 廊下のつきあたり。古びた取っ手をつかんで押し開く。
 午前のやわらかな日差しを肌で感じ、次いで小さな水音を耳が拾った。
 音源は左手にたたずむ古井戸だ。滑車につながった桶から雫がたれただけなのに、エイミーはおっかなびっくりにのぞきに行った。
 苔に手をついては声をあげて驚き、底に向けて声を反響させては感心して。

 水を差すのは気が引けたけど、今日の目的は畑の案内だ。
 早く終わらせた方が彼女のためになる。
 そう考えた俺は離れた位置から名前を呼び、「行こうぜ」と短く言って歩き出した。

 ……土の感触が足を優しく包んでくれる。
 秋の落ち葉が鳴らす さくさくという音も、耳に心地よい。

 そうして耳と肌で自然を楽しんでいると、朝露に濡れた畑が迫ってくる。
 黄色がかった緑や、新緑色。茎だけが赤紫色の作物なんてもある。
 日差しを浴びて輝くそれらは、太陽に向かって顔をあげていた。

「黄色がかった方が昨日も食べたサージュ。根に実ができてるんだ。こっちのやつは……悪い、忘れた」

 指差しながら名前を教えようとして、早速つまづいた。
 口に出す前に頭で考えておけばよかったのかもしれない。

「ここの木になってるのがコールの実。調味料に使う木の実だな」

 失敗を隠すように言葉を継げ、傍らの女の子に案内をしてゆく。
 何か気の利いた話でもできればいいのだが、俺にそんな知識は無い。

 けれども、肩上に切り揃えられた黒髪を揺らす少女は楽しそうだった。
 とてとてと歩きまわっては、「これは何?」「あれは食べられるの?」と指をさして訊いてくる。
 本当に楽しくて仕方がないといった様子だ。
 輝き、せわしなく動き回る黒い瞳が、楽しい感情を裏付けていた。

 ときどき彼女は、目をつむって深呼吸をする。
 土の香りを楽しんでいるのだろうか。小さな胸がゆっくりとふくらんで、やがてしぼんでゆく。
 それにならって、俺も同じように息を吸ってみた。

 大地の濃い匂いに混じって香るのは、少し青臭い、植物の芯から漂う命の匂い。
 自然の息吹が鼻を通りぬけて、すーっと肺を満たしてゆく。
 まるで血の一滴一滴に力が満ちてゆくような。そんなありえない考えが浮かんでしまうくらい、すがすがしい気分になれた。
 満足して目を開くと、時を同じくして質問が飛んでくる。

「コリー! この白いのはなに?」

「ああ、それは骨だぞ」

「――ホネ!?」

 つんつんと指でいじくっていたエイミーは、骨と聞くやいなやのけぞった。
 骨と言っても骨粉。畑の肥料だ。
 動物のものなんだけど、説明が足りなかったかもしれない。

「あっ……!」

 バランスをくずしたらしい彼女は耐えようとしたのだけど、こらえきれずにしりもちをついてしまう。
 支えようと思ったときにはもう遅い。怖がらせないようにと距離をとっていたのが仇になってしまった。

「おいおい……大丈夫か?」

 手を差し伸ばしてから思い至った。迷惑なんじゃないか、って。
 エイミーは優しくてまじめな子なのだろう。まだ少ししか話せていないけど、なんとなくわかる。
 だから、我慢して俺の手を掴んでしまうかもしれない。
 
「…………」

 やっぱりやめよう。
 立ち上がれないような酷い転び方はしていない。俺が手を貸した方がたぶん迷惑だ。
 そう考えて手を引こうとするも、

「えへへ。……ありがとう」

 つかんだエイミーの手がそれを許さなかった。
 照れ笑いを浮かべる彼女の手はいま、俺の手とつながっている。
 少し土に汚れた、温かい手が。

 その仕草や表情に怯えはない。
 若干赤らんだ頬は照れからくるものだろう。……でも、何でだ? 

「コリー?」

 かけられた声は、俺が考え込んでいたことを気づかせた。
 すぐ目の前からした声の主はエイミー。
 俺より少し低い身長の彼女は、やや上目遣いにこちらを覗き込んでいる。
 心配……してくれているようだった。

「ああ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」

 適当な、誰にでもするような生返事。
 けれどそれを聞いた途端に、エイミーの表情は曇ってしまった。
 どこか申し訳なさそうに眉を寄せ、のぞき込んでいた瞳は伏せられている。

 本当にどうしたんだろう。
 女の子の考えることは、男の俺には理解できないときがある。
 やっぱりルシルかラピスに案内を任せた方がよかったのかもしれない。
 そんな後悔を感じていると、

「……私の方こそ、ごめんね」

 エイミーが頭を下げて謝ってきた。
 まるで昨日の夜のように。

「昨日……コリーのことを何も知らないのに、怖がっちゃって、ごめんなさい」

 彼女は言葉を継げる。
 どうして? という心の内の疑問に答えるようにして。

「いや、それは昨日謝ってただろ?」

 机に思いっきり頭をぶつけて。
 あれは痛そうだった。
 気にしてないと伝えたのだが、彼女は“それでも”と言いつのって、

「ちゃんと謝りたかったの。……傷つけちゃったから」

 肩を小さくしながら言葉の心意を教えてくれた。
 昨日は混乱してて言えなかった。
 自分のことばかりで、ごまかしちゃった。
 そう、付け加えながら。

 エイミーは“傷つけた”と言ったけど、俺はそんなこと全く思ってない。
 むしろ俺の方こそ謝るべきだろう。
 彼女の気持ちを考えずに にじり寄って、怖がらせてしまったのだから。

「今日、本当はね。おじいちゃんが案内するって言ってくれたの」

 下げた頭をおっかなびっくりに持ちあげながら、彼女は言葉をつなぐ。
 伏せられたまつ毛が伝えるのは反省の意思。

「……コリーに謝るきっかけが欲しくて。私、嘘ついちゃったんだ」

 哀しそうに彼女は笑う。きっと、どんな顔をすればいいのかわからないんだろう。
 俺もここに来たばかりの頃はそうだった。
 だからってエイミーも同じとはかぎらないけれど。

 俺は頭が悪い。
 エイミーを元気づけてやりたいのに、その方法が。
 おじいちゃんなら。ラピスなら。デンテルなら、もっと上手くできただろう。ルシルは……まあいいか。

 胸にもどかしいような、嬉しいような、よくわからない感情が渦を巻く。
 この気持ちを上手く言い表すことはできない。
 想いを言葉に表すには表現力が必要……らしいから。

「エイミー」

 だけど俺は、家族が哀しい顔をするのは嫌だった。
 上手く言えなくたって別にいい。
 心に渦巻くまぜこぜになってしまった感情を、少しでも伝えるために。


「俺は、怪我なんてしてないぞ!」


 へたくそな言葉に想いを籠めて。
 彼女の元へと、送り出した。

 …………

 …………

 ぽかんとした顔のエイミーがこちらを見ている。
 半開いた口が“意味がわからない”と伝えているようで、非常に居心地が悪い。

 何てつけたせば伝わるだろう。
 頭を抱えて悩んでいると、彼女はもう一度俺の手をつかんで、

「えっと……本当?」

 色んな感情が混じった顔で訊ねてきた。
 嬉しいような、楽しいような。けれど申し訳なさそうな、あいまいな表情だ。

「ああ、無傷だ!」

 そんなエイミーに俺は、思いっきり明るい笑顔を見せてやった。
 こんな姿の俺を思い遣ってくれた優しい女の子に。
 新しい家族に、心からの感謝を込めて。

 俺が笑っていたら、彼女も釣られるように笑い出した。
 その顔に怯えはない。
 俺はもう、それを疑うことはないだろう。

 やがて緑を揺らす優しい風が、声を空へと運んでくれた。
 遠く。手の届かない遠くまで。

 吹き抜ける風に髪を撫でられながら、エイミーは幸せそうに笑っていた。


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