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おじいちゃんが消えた家

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 拭き清めたガラスのように輝く空の下。
 冬色が染み入る空気をかきわけて、おじいちゃんはこの家をあとにした。
 後ろ姿が草原の彼方、山の向こうへと消えてゆく。

「いってらっしゃい、おじいちゃん」

 聞こえるはずがない。
 もう見つけることができない彼の背に、それでも私は声をかけた。
 ちゃんとした挨拶は済ませてあるけど、もう一度。

「さ、家に戻りましょう。……ここは冷えるわ」

 背を軽くたたいて促すラピスに、私は黙ってうなずいた。
 踵をかえして、ゆっくりと歩みだす。
 耳が拾うのは五つの足音。いつもよりひとつ少ない家族の音。

「寂しい、よね」

 声のした方に顔を向けると、デンテルがルシルに話しかけているところだった。
 浅く、たてに振られる白い頭。
 ひるがえる前髪からのぞいた赤い瞳は、奥の光が揺れていた。

 見ればコリーもラピスも、唇をきつく結んで辛そうな顔をしている。
 それはなんだか、見てはいけないもののような気がして。
 私は前へ向き直って、再び足を動かした。

 凍てつく空気に、吐息の白がかききえる。
 風はないのにさらわれる。

「…………」

 私は寂しくなってしまって。
 何かを求めて、昨日なでつけられた頭に触れた。
 一晩を越えたそこに、もう彼の温もりはない。

 それでも心が熱を灯す。
 伝えられた想いが、胸を、焦げ付くほどに熱く満たす。

 肩上に切り揃えた黒髪が視界の端で揺れ、追って瞳は虹を映した。
 片方だけを結わえる私のリボン。
 それを指で触れていると、手首の赤白も存在を主張する。
 そうして心と瞳を、思い出で満たしていると――

「雨……?」

 ぽつり、と鼻先に雫がおちた。
 空を見上げるも、そこには澄んだ空気が広がるばかり。
 きっとこれは“神さまの涙”なのだろう。

 降り注ぐ小雨から逃げるように。
 私たちの足はいて、家の内へと体を運んだ。



 ◆



 おじいちゃんがいない家は火が消えたように静かで、どこか落ち着かない。
 子どもだけで過ごすには、ここは広すぎるのだ。
 そんな静けさを嫌ってか、私たちは食堂へと集まっていた。

「はい、熱いから気をつけてね……あ、」

 お盆にのせた紅茶を配っていて、ひとつ余らせてしまったことに気がついた。
 いつものくせで用意してしまった六つのカップ。
 お盆に取り残されたそれが、やけに物悲しく見えた私は、こっそり下げてしまおうかと考える。
 冷めたころに飲めばいい。そんなことを考えていると――

「……エイミー、おかわり」

 顔を背けたルシルが、自分のカップをお盆にのせた。そこには僅かな薄茶色が沈むばかり。
 きっと無理して早飲みしてくれたのだろう。
 背けた顔の向こう。しきりに放たれる白い息が、それを物語っていた。
 優しい少女に感謝をしながら、私は言葉と、余らせてしまったカップを机にのせる。

「ありがとう、ルシル」

「……お礼を言うのは、私のほう」

「あはは……うん。そうだね」

 相変わらず顔を背けたままの彼女に、笑い混じりの返事をして。
 私は、そっと椅子に座った。


「――今日のお夕飯、何にしましょうか?」

 やがて、カップの半分が消えたころ。
 紅茶色の吐息にのって、悩ましげな声が宙に浮かんだ。
 声の主は空色の長髪を撫でつけながら、遠い目をしている。

「ラピスは、なんか食べたいものでもあるのか?」

 カップへと吹きかけていた息を休め、コリーが問いかけた。
 ラピスは、質問者である彼と、顔をあげていた私をちらりと見てから、

「そうじゃないのよ。もうお肉がほとんど無くてね、大したものが作れそうになくて……」

 少しだけ言いにくそうに告げた。
 私は問いに答えるより先に、普段お肉が大好きなルシルとデンテルの方を見た。

 ルシルは、口の中がまだ熱いらしい。
 私に悟られないようにと後ろを向いて、はー、はー、と息を吐き出している。
 上下する肩がおさまったころ、火傷をしていないか聞いておこう。

 デンテルは、うつらうつらと首をたてに振っていた。
 話にうなずいている……といったふうではない。

「デンテル、少し横になってきたら?」

「ん……ああ、そうさせてもらおうかな」

 なんでもないふうに彼は言う。
 けれど、まどろみの空気に紛れて、どこか寂しげな響きが耳に残った。
 おじいちゃんのことが心労になっているのかもしれない。
 空のカップを残して、彼は食堂をあとにした。
 さらに人数が減ってしまった寂しさを埋めるように、私は、声の調子を明るくして言葉をつなぐ。

「じゃあさ、お肉はおじいちゃんが帰ってくる日までとっておくのはどうかな?」

「えー……それまで肉抜きかよ」

 不満げにつぶやくコリー。
 でも、彼はそんなにお肉が好きなわけじゃないはずだ。
 ルシルやデンテルが食べ足りなそうにしていると、よく譲っていたし。

 コリーの視線の先には、デンテルが出ていった食堂の扉がある。
 きっと友人への気遣いとして、お肉料理を望んでいるのだろう。
 友達思いの彼に、私は頬をゆるめながらも反論した。

「楽しみがあった方が張り合いができると思うんだ。
 それに、帰ってきたおじいちゃんにご馳走を振る舞いたいの」

 昨日、私が変なことを言ってしまったから、おじいちゃんは食事すらも適当に済ませてしまうかもしれない。
 おじいちゃんは優しい人だ。
 自分のことよりも私たちを優先してしまうことは、想像に難くない。

 お腹を空かせていたならもちろん、そうでなかったとしても。
 帰ってきたおじいちゃんを労うことは、無駄なことではないと思う。

「……私は賛成。がまんできる」

 そんな想いに、真っ先に応えてくれたのはルシルだった。
 口の中も落ち着いたらしく、しっかりこちらを向いている。
 笑みの代わりにまばたき二つ。
 専用のしぐさを交えて、彼女は強く賛成してくれた。

「そっか、そうだよな……」

 それから少し遅れてコリーがつぶやく。
 机の上にひじを立て、固く結んだ手に額をつけて。
 彼は、悔しげに語りだした。

「俺さ、今まで買い出しのとき、おじいちゃんのことを考えてなかったんだ。
 このままいなくなっちゃうんじゃないかって、怖いばっかりでさ」

 ときおり聞こえる歯ぎしりが痛々しい。
 強い後悔のにじむ言葉は続けられる。

「守られることを当たり前と思って、何も与えようとしてこなかった」

 でも、
 彼は継げる。

「それじゃ駄目だってわかった。男らしくないって、今なら思う。
 ……だからさ、俺もエイミーの意見に賛成だぜ!」

 組まれた手から顔をあげ、コリーは力強く言い切った。
 晴れやかな笑顔を添えて。

 コリーは自分のことしか考えてなかったと言うけれど、私はそうは思えない。
 この世界に来たばかりの私に、優しく畑を案内してくれた彼が。
 失敗作のコロッケを食べて元気づけてくれた彼が、何も考えなかったはずがないから。

 でも私は、彼の決意を否定しない。
 代わりに現在いまのコリーがすてきであることを、たくさんたくさん伝えておいた。

「――ラ、ラピスはどう思ってるんだ?」

 そんな私の言葉をさえぎるように、彼はラピスへと問いかけた。
 褐色の頬にほんのりと差した赤みと、せわしなく動く耳が照れくささを告げる。

「うーん……三日目と四日目、どちらに準備するのかが問題よね」

 うつむきながら、ラピスは思いつめるように言った。
 彼女の中では賛成か反対かといった問題は、もうとっくに消化済みらしい。


 結局、私たちは四日目の朝から準備をする方向で話は決まった。
 三日目は軽食を用意して食堂に置いておくこと。
 必ず誰かしらが外にいて、おじいちゃんの帰りを出迎えること。

 それら全てが決まったのは、太陽が窓から消え、真上に差しかかるころだった。
 私たちはそれぞれの目的のために食堂をあとにする。
 ラピスと私は特訓のために外へ。
 コリーは畑へ。
 ルシルは用事があるらしく、自室にこもると言っていた。

 夕食の時にはまた会えるはずなのに、私は何故だか不安になってしまって。
 ラピスに手を引かれてしまうまで、遠ざかっていくみんなの姿を見つめていた。



 ◆



 日の勢いが陰りを見せたころ。
 私は日課となっている特訓を終え、地べたに足を放り出していた。

 体の調子は悪くないはず。
 だから、いつもよりはかどらなかったのは心のせい。
 頼りない私の心を、マナが嫌ってしまったのだろう。

 ため息ひとつ。
 吐息のゆくえを視線で追っていると、瞳は、艶やかな空色の長髪を映した。

「……エイミーも、やっぱり寂しいかしら」

 茜色に染まる空を背に、ラピスはぼそりとつぶやいた。
 手は自身の膝もとに。
 座り込んでいた私を、彼女は中腰の姿勢でのぞきこむ。

 私は答えるべき言葉を探して、少し迷った。
 本当を言えば寂しい。
 かなり、とても、ものすごく。
 けれども、寂しいのは私だけではないのだ。
 つぶやいた彼女の瞳にもまた、哀色あいいろがにじんでいた。

「ううん。私はラピスが、みんながいてくれるから大丈夫だよ」

 私は、そんなラピスを見ていたくなかった。
 ゆるく首を振って、紡ぐ言葉には湿り気を。
 みんなへの愛情を騙る最低な嘘を、ついた。

 彼女は何も言わなかった。
 嬉しいような哀しいような、よくわからない表情でうなずくばかり。
 揺れる首筋は白く、細く、そのまま折れてしまいそうにすら思えてしまう。

 私は怖くなってしまった。
 そんなことを恐ろしいことを考えてしまう自分が怖くて、別の何かで気を紛らわせようとしていたら、ラピスがゆっくりと口を開いた。
 もしかしたら、私のへたくそな嘘を見かねたのかもしれない。

「……明日になったら、おじいちゃんに手紙を送らない?」

 長髪を冷たい風になびかせて、彼女は遠い目をして言う。
 瞳が映す先は遠い空。
 茜色をたたえた空が、どこまでもどこまでも続いていた。

 この空はおじいちゃんの元まで続いているのだろう。
 “空の魔法使い”であるラピスの、手紙の魔法なら。
 きっと彼の手元へと、私たちの想いを運んでくれる。

 ――でも、

「いいの?」

 ラピスは自分の魔法を嫌っていたはずだ。
 その原因は彼女の昔話から、うっすらと伝わっていた。

 かつて“特別”を愛したラピス。
 そうなったのは、きっと自分の心を守るため。
 孤独を“特別”と言い換えて、ごまかすための嘘だったんだと思う。
 そして孤独になってしまった理由は、おそらく……魔法だ。
 
「ええ、もちろん!」

 けれども彼女は、私の心配を吹き飛ばすように、明るい声で返事をした。
 無理をしているふうはない。
 むしろ、魔法を使えることを楽しみにしているようにすら見える。

 何がラピスを変えたのかはわからないけれど、それはとても良いことだと思う。
 さっきまでと打って変わって、期待に満ちた目でラピスは継げる。

「“私たちは大丈夫。ご馳走を作って待ってるから、はやく帰ってきてください”……こんな内容でどうかしら?」

「えっと、えっと……“寒いから風邪引かないでね”って、最後に加えてほしいな」

 急激な変化に少しだけとまどいながらも、私は伝え漏らした言葉を告げた。
 今日は本当に寒い。これから先、もっともっと寒くなると、朝、ルシルも言っていた。

 ラピスは、付け足した私の言葉に深くうなずいてから、そっと手を差し伸べてくれた。
 でも、今日練習したのは土の《しるし》。
 今の私の手はきれいとは言い難かった。
 自分の手と、彼女のきれいな手を見比べておろおろとしていると。ラピスは珍しく、強引に私の手を取った。

「――わっ!?」

 そうして、ぐいっと引き寄せられる。
 しっかりと地を踏みしめる両足は、私の体重なんかでは揺るがない。

「エイミーは変に気を遣うから、困ってしまうわ」

 ラピスは軽く苦笑した。
 気を遣ったわけじゃなくて気後れしてしまったのだけど、それを上手く説明するのは難しそうだ。
 言い訳をするのはやめて、私はあいまいにほほえんだ。

 朝の水分を含んだ土の、湿り気を覆うパサパサとした感触。
 爪のあいだまで染まってしまった私の手を、ラピスは嬉しそうに握ってくれた。

「……ね。“ゆうやけこやけのあかとんぼ”って、こういう空を指すのかしら?」

「違うよ。夕焼けは空だけど、こやけは夕日に照らされる子どもの顔で、赤とんぼは前の世界の生き物なんだ」

 そんな取りとめもない話をしながら、私たちは家へと向かって歩き出した。
 繋がれた手の伸びてゆく影と、ラピスの顔のこやけが愛おしくて。
 扉に着くまでのほんの短い距離を。
 私はわざとゆっくり歩みながら、瞳が映す世界を心に刻んだ。


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