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嘘窓のうそ

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 閉じた世界の、移ろう季節に染められながら。
 孤児院の屋根のうえ。
 僕は月を見上げずに、瞳を閉ざしていた。

 細い視界は全てを届けてしまうから。
 遠い彼方にいる、あの方へ。

 瞳も、肢体も、心さえも。
 全ては借り物……僕のものであって、そうではない。
 どんなにこの場所が好きでも、壊したくないと願っても。
 僕に為せることなど何もない。

「……死にたい」

 こぼれた嘆きが耳を揺らす。
 死ぬことに意味はないけれど、卑怯な心は逃げ出したがっているらしい。 
 僕が消えても、過程が替わるだけだとわかっているのに。

 何度となく繰り返した思考を、ため息にのせて吐き出して。
 こぼれる雫を拭い去り、心に広げるのは絵空事。

 おじいちゃんがいて、コリーがいて、ルシルがいて、ラピスがいて。
 そしてエイミーがいて……僕が、いて。

 咎をそそいで、あたたかい日々を過ごしたかった。
 怠惰を捨てて、一人の人間として生きたかった。
 ……みんなの幸せを、ずっとずっと見守っていたかった。

 叶わぬ夢だと本当は知っている。
 闇に消える空想を見つめて、僕は僕をあざけった。

 瞼を透過する月明かりだけが、それを静かに見つめていた。



 ◆



 おじいちゃんが外に出てから四日目の昼。
 食堂には、焦げたコムギコの香ばしい匂いが満ちていた。

 パチパチと音をたてる油を見つめるラピス。
 ソース作りに情熱を注ぐコリー。
 慣れた手つきで、つぶしたサージュを成形するエイミー。
 盛大におなかの音を響かせながら、エイミーの手伝いをするルシル。

 そんなみんなを、僕は遠くから見つめていた。
 すぐ近くの椅子に座って。
 遠く離れた、心で見つめていた。

「……コリー。何にでもコールの実を入れるの、やめて」

「いいじゃんいいじゃん、月見のときは食べたんだろ?」

 瞳は楽しげなやり取りを映していた。
 ルシル用に作った酸っぱくないソースを脇に隠して、からかうコリー。
 そんな彼の意地悪に、鼻息を荒くして怒るルシル。

 ルシルの表情は殺されている。
 過去、閉じた世界の外側で。
 あの人が直々に手がけたらしいから、きっと聞くに堪えない方法だったのだろう。

 心は体に引き寄せられるものだ。
 表情が死んだルシルの心はかつて、緩やかに死へと向かっていた。
 ゆっくり、ゆっくり……肢体の端から、れゆくように。

 だが、今の彼女はどうだろう。
 赤と白のミサンガを揺らす少女の顔に、たとえ笑みは浮かばなくとも。
 心躍る想いは、全身から満ちているではないか。
 この世界が、孤児院のみんなが、そしてエイミーが、彼女の心に希望を積み上げたのだろう。

 ずっと見ていたからわかる。
 僕がこの世界に来るまえから、ずっと。
 いつも見ていたから。


「……コリーはすぐ下らないいたずらをする。そういうところがお子さま」

「あははっ、わるかったって!」

 どうやら隠しておいたソースが見つかったらしい。
 エイミーがたまにするように、ルシルも頬に空気を入れてふくらませていた。
 小動物的で可愛らしいと思う。
 コリーもそんな姿を愛でているようで、悪びれない笑顔を浮かべながら謝っている。

 そんな二人の姿が愛おしくて。
 消える前の一瞬を、借り物の心に焼き付けた。

「ルシルー、粉をちょっと足してくれる?」 

「…………! いま行く!」

 エイミーがタネを練りながら声をかけると、ルシルはコリーの元を離れて飛んでいった。
 両手がサージュに塗れているから、穀物粉の入った袋を持てないのだろう。
 ……なんて理由付けをして、ルシルの気を逸らしたのだ。

 困り笑いを浮かべるエイミーと、片手を上げて謝意を伝えるコリーの、声なき語らいがそう告げていた。
 ルシルも何となくそれに勘付いたらしい。
 二人の視線のあいだに割って入って、何やら文句を言っている。

 エイミーは肩をすくめて笑う。
 実妹に向けるような慈しみに満ちた笑み。
 愛に曇った、優しい瞳をしていた。


「――なーに年寄り臭い顔してやがんだ、よっ!」

「もがっ!?」

 突然、口内に酸味が広がった。
 あごの内側がすぼまって、唾液が湧き出る感覚が喉を震わせる。
 口元を拭った手の甲には、コールの実で作られたソースがべったりとついていた。

 声の主を探して体をひねると、そこには屈託のない笑みをたたえるコリーの姿が。
 目に鮮やかなミサンガを揺らす手首の先は、僕と同じように赤いソースで汚れていた。
 それを拭おうともせずに、彼は明るい調子で語りかける。

「ったっく。調子が良くなったんなら、手伝ってくれてもいいんだぞ?」

「……あはは、ごめんよ」

 冗談めかした言葉に応じたのは鈍い謝罪。
 仮病を使っている後ろめたさが、歯切れの悪い言葉を生んだのかもしれない。
 コリーはそれを体調の悪さからくるものと思ったらしい。
 バツが悪そうな表情を浮かべ、頭を掻こうとして……汚れた手の平を見てやめていた。

「僕は大丈夫だよ。みんなのことを、ここで見てるから」

 努めて明るく言ったつもりだったのだけど、耳が拾った僕の声にはあいがにじんでいた。
 今は。今だけは上手な嘘が吐けそうもない。
 言葉で誤魔化すのをやめて、僕はあいまいにほほえんだ。

 短い返答を置いてから、コリーは視線をさまよわせる。
 慰めの言葉か、気遣いの言葉か、それはわからないけれど。
 ……きっと、僕のための言葉を探しているのだろう。

 締めつけられる胸の痛みに悦を覚えながら。
 僕は、そんな優しい少年を見つめ続けた。

「……なあ、デンテル」

 やがて彼は近寄って、耳元でささやきかけた。
 みんなに聞かれたくない内容なのかもしれない。

「コロッケが出来上がったら、こっそり一個持ってきてやる。……だから、バレないように食えよ」

 彼は、至極まじめな表情で言葉の尾を締める。
 周りを警戒して、せわしなく視線を動かす姿がおもしろくて。
 僕は一瞬だけ痛みを忘れ、心からの笑みを浮かべた。


 ……軽い足音が少しだけ遠ざかったころ。
 僕は手についた赤色を、舌の先ですくい取った。
 い風味が再び喉を震わせて、唾液が湧き出て口を満たす。
 それを飲み下して。ゆっくりと、目を閉じた。



 ◆



 高く、青い空には、ぬぐい残されたような白雲が浮かんでいた。
 何の変哲もない冬の空。
 けれど、映す瞳によってそれは移ろうものだ。

 愛に満ちたみんなの瞳は、きっと美しい世界を描いているのだろう。
 口端からこぼれる笑みがそれを物語っていた
 ……ただ一人、ラピスを除いて。 


 出来上がったコロッケを食堂に置いて、僕たちは孤児院の外へとやって来た。
 手紙の魔法を使うため。
 おじいちゃんの帰る時間を知るために。

「……コロッケ、いっぱい作ったって伝えてほしい」

「ソースもたくさんあるって頼むぜ! おじいちゃんが好きな酸っぱいのもな!」

 ルシルとコリーが、手紙にしたためて欲しい言葉をラピスに告げる。
 とても、とても楽しそうに。
 ……家族の団欒だんらんを待ちわびているのだろう。

 エイミーは何も言わず、そんな二人の様子をながめていた。
 きっと二人があれこれ言うものだから、告げる言葉がなくなってしまったのだろう。
 彼女もまた、来るべき幸せに頬をゆるめていた。


 ――愚かだなぁ


 心のなかの誰かが、冷笑的に嘲った。

 愛に曇った瞳は真実を映さない。
 けれど、愛が無ければ世界は見えない。

 結局のところ、人に真実を見つけ出す力なんて無いんだ。
 だから大切なものを見落としてしまう。

 ……絶望に染まった、魔法使いの瞳を。


 やがて手紙の魔法は構築された。
 世界に満ちる元素をんで、虚空に生まれたのは薄い青の便せんだ。
 数瞬遅れて、それは端から消えてゆく。

 光に照らされて溶けるようにして。
 見えざる力に消されるようにして。
 誰かの悪意に阻まれるようにして。

 消えた。


「――なあ、おじいちゃんは何だって?」

 少しの間を置いてから、満面の笑みでコリーが訊ねる。
 頭のうえの耳はせわしなく跳ねまわり、彼の期待を物語っていた。

「……もうすぐ帰ってくる、かな」

 まばたきを二回。
 愛を孕んだ視線で見つめながら、ルシルが継げる。
 握りしめられたこぶしが、かすかな緊張を見せていた。

 そんな二人に詰め寄られて、ラピスは小さく息を呑んだ。
 瞳の奥。ゆらめく光が、動揺を黙して語る。

 だが、それも一瞬のこと。

「それがね、ヲストガの街で人助けをしていたみたいで……遅れる、って言ってたわ」

 乾いた唇が、綺麗な嘘を吐き出した。
 三日前から何度となく送ろうとした手紙の魔法。
 彼女は、その回数と同じ失敗を経験しているのだから、答えるべき言葉を用意してきたのだろう。

 ラピスは長髪を後ろへ撫でつけながら、困り笑いを貼り付けた。
 不安の色を隠す意図がうかがえる。細められた瞼は、奥の光を晒さない。
 ……さっきの僕とは違う、上手な嘘の吐き方だ。

 そんな嘘に三人は騙されたらしい。
 項垂うなだれるコリーとルシルを、エイミーがなぐさめていた。

 もうすぐ帰ってくるよ。
 そうしたら、お肉を使ってまたコロッケを作ろう。
 大丈夫、絶対に帰ってくるって約束してくれたから。

 想いを籠めた言葉を送り出しながら。
 エイミーはラピスに、おじいちゃんが帰って来れるのは何日後かを訊ねていた。
 慎重に、言葉を選んで。

「……それが、まだわからないみたいなの。明日にでもまた、魔法で聞いてみましょうか」

 対するラピスの回答は無難なものだった。
 決して希望を失わせず。
 決して絶望に染めない。
 そんな嘘を、彼女は次から次へと送り出す。

 ――だから、

「あのさ、みんなで途中まで迎えに行くのはどうかな?」

 僕は言った。

 取り繕った嘘を剥がす疑問を。
 取り計らった平静を乱す提案を。

「ヲストガは少し遠いけど、あいだには街があったはずだよ」

 外への恐怖に勝りつつある愛を刺激して。
 希望を積み上げた、みんなの心を扇動する。

「だから、せめてそこまででも。外に出るのは怖いけど、ここは勇気を出して――」

「だめ……ッ!!」

 切迫した声が空を裂いた。

 鞭に打ち付けられた獣人奴隷のような。
 深い絶望を知った、悲痛な声。

「だめ、だめ……それだけは……」

「ラピス、外に出るのは怖いかもしれない。
 でもさ……おじいちゃんも、きっと喜ぶと思うんだ」

 ラピスが貼り付けている嘘の仮面。
 それをベリベリと引き剥がしてやると、なかからこぼれたのは雫だった。
 透明な雫。それは彼女の頬を伝って、乾いた地面に吸い込まれる。

「僕たちは変わったよ。……変われたんだ」

 いつわりの感動を籠めて言葉を紡ぐ。
 自分の両手を見つめて、適度に肩を震わせて。

「もう過去に縛られる時間は終わったんだ。
 これからは自分の足で歩んで、大切なものを守ろう!」

 三重にかさなった水音が耳を揺らす。
 張り詰めた緊張感が、コリーの、ルシルの、そしてエイミーの喉を震わせたのだろう。

「さ、行こう?」

 ほほえみながら手を差し伸べる。

 優しげな声は嘘。
 温かい視線は嘘。
 こぼす笑みは嘘。
 伸ばした手は嘘。

 嘘。嘘。嘘。嘘。

 借り物の体の、ただの嘘っぱち。

 空虚な想いを食い殺して。
 叶わぬ願いを握り潰して。

 怠惰に。ただ怠惰に身を任せる。


「――だめ……絶対に、それだけはッ!!」

 差し伸べた手は払われた。
 視界を隠す乱れ髪を粗雑に除けて、ラピスは《しるし》を刻みだす。
 左右に伸ばした二本の腕。
 描き出されるのは《土》《拘束》……なるほど。

「ラピス……ッ!?」

 甲高い悲鳴が上がる。
 エイミーの驚愕を無視して、《しるし》は術式へと相成あいなった。
 悲愴と絶望……二つの色を瞳に宿した少女は、組まれたそれを解き放つ。

 刹那。
 僕の足元が一瞬だけ緩くなり、くるぶしまでが呑み込まれた。
 大地に噛みしめられた足は微動だにしない。
 急激な血流の圧迫が、痺れとなって下半身を鈍らせる。
 少ないマナで仕掛けたにしては、なかなかどうして。上手に出来ているようだった。

「何だ……!? どうしてこんなことをするんだ!?」

 冷静から切り離された嘘が、迫真の演技で聴衆を煽る。
 みんなの不信がラピスへと向くように。


「黙りなさい」


 砕けた刀剣を噛み潰すような。
 心を蝕む血塗れの声が、満ちるどよめきを凍らせた。

「ここの掟にもあるように、外へ出ることは許さない」

 語るラピスの手には仄明ほのあかり。
 詭弁で塗り固めた強い言葉に、自身の心的外傷を上乗せして。
 彼女は言葉で斬りつける。

「それでも外に出るというのなら……私を、殺してからにしなさい」

 言の刃ことのはは喉元に突き付けられた。
 粟立つ皮膚が戦慄を伝える。
 そのことに、昏い満足感を覚えながら横目で見やると、豹変に恐れおののくコリーと目があった。
 喉の奥から漏れ出た唸り声が、彼の不安を物語る。

 不信の種は蒔きおえた。
 あとは萌芽を待つばかりだ。

 尋常ならざる殺気を醸すラピス。
 彼女の元へ、恐怖心を押さえつけて駆け寄るエイミー。
 繰り広げられる感動的なやり取りから目を背け、僕は遠い空を見た。


 ――からっぽの空が、瞳を埋めた



 ◆


 
 冴えた月光が満ちる食堂。

 数日前まで楽げな喋り声が響いていたそこは今、食器がたてる無機質な音と、咀嚼音そしゃくおんだけが支配していた。
 皆一様にうつむき、積み上げられたコロッケをひたすら口に運ぶ。
 重苦しい空気の中。サクサクという浮ついた音だけが、異質な気配を醸していた。

「…………」

 僕は誰の顔も見つめなかった。
 崩れ始めた希望を、幸せを直視したくなかったのかもしれない。
 昏い思惑を見透かされることを危ぶんだのかもしれない。

 わからない。
 わからないけれど、僕が視線をあげることはなかった。

 うつむいた視線の先は黒。
 閉ざした瞼の裏で、僕は現状を分析する。

 扇動の甲斐あって、みんなの心は不安で満ちている。
 この陰鬱とした空気が何よりの証拠だ。
 あと少し。きっかけとなる波紋を起こすことができたなら、満ちた不安は溢れ出すだろう。

 倒れたカップの中身が元の姿に戻らないように。
 一度溢れ出た不安は、心という名の床に染み……やがて絶望の根を這わす。

 僕はそのための方策を反芻した。
 エイミーが来たときから用意しておいた筋書きシナリオの。
 陰惨で救われない、絶望で締める結末を。


 思考の沼から意識を戻す。

 言葉を生まない空間は、相変わらず冷え切っていた。
 淀んだ空気を味わいながら。
 僕はただ、あごを動かし続けた。

 何の味もしなかった。


 ――全部、吐き出した



 ◆



「……デンテル?」

 裏口の扉を閉めたとき。
 廊下の奥から、聞き慣れた声が投げかけられた。
 浅く息を吐いて首を向ける。

 瞳が映したのは白と赤。
 何もかもを奪い去られたような白髪、アグニマズドの面影で赤眼を隠す少女。ルシルがそこにいた。

「こんばんは。こんな夜更けにどうしたの?」

 胃液の酸えた臭いを隠しながら、僕は平静を装って問いかける。
 僕と彼女は身長差が大きいため、どうしても見下ろす形になってしまう。
 だからかもしれない。
 少女が抱えていた枕に、気づくのが遅れたのは。

「……こんばんは。私は、えっと」

 短い挨拶のあと、彼女の視線は旅を始めた。
 闇色の床板、廊下の四角い窓枠、空に浮かぶ二つの月。
 ……遠い旅路を経て、それはある一室へと注がれた。

「エイミーに用……だったのかな?」

 どうやら図星だったらしい。
 抱えていた枕を締めつけながら、少女は口をパクパクと動かした。
 赤みが差さない頬に月明かりが落ちている。
 それが紅潮に見えて、僕は何とも言えない気持ちになった。

「そっか、そっか」

 ルシルを、あるいは自分を落ち着かせようと。
 僕は噛んで含めるように言った。

 僕らの都合で殺された少女。
 彼女が再び得た生を、もう一度奪い去る咎が胸を焼く。

「……デンテル、大丈夫?」

 痛みをこらえるために目を逸らした一瞬。
 その一瞬のうちにルシルは動揺をおさめ、気遣わしげな声をかけてきた。 
 触らずともわかる。
 今の僕の顔に、嘘に、綻びはないはずだ。
 なら、問いかけているのはきっと――

「昼間のこと? 大丈夫だよ。ラピスも手加減してくれたみたいだし」

「……それもそう、だけど、」

 僕の予想は外れたらしい。
 ルシルはゆるく首を振って。
 それから、ためらいながら小さな唇を開いた。

「……いまのデンテルは、前の私に似てるから」

 表情を殺された少女の過去。
 それは、れてゆく絶望だ。

「……殺した表情の裏で泣いている」

 ルシルは迷いを切り捨て、最後は力強く言い切った。
 僕の嘘を……看破した。

「――そう、かもね」

 力なく肯定した。
 それしか言えなかった。
 何かを言えば、そこから綻びが生まれてしまう気がしたから。

「……何かあったなら相談して。私も、エイミーも、ラピスも」

 それから一応――
 彼女は枕を締める腕に一層の力を籠めて、継げる。

「……コリーも。お馬鹿でお子様だけど、みんなで家族なんだから」

 優しい声で言葉は告げられた。
 帯締めは、ふんすと鳴らされた可愛い鼻息。
 赤い瞳に意志を宿す少女は、こんな僕を気遣ってくれていた。
 ……家族だと、言ってくれた。

 ありがとう。
 でも、僕はそれを認めない。

「そうさせてもらうよ。いつか、必ず」

 細い瞳をたわませて僕は言う。
 訪れない未来の約束を、明るい声で取り付けた。

 そんな僕を見て、ルシルはしばらく心配そうにしていたけれど。
 また明日……何度となく繰り返した言葉を贈ると、扉の内へと消えていった。
 何度となく振り返った彼女の瞳が、優しい思い遣りが、心臓を締めつける。

 強く、強く……潰れてしまいそうなほどに。

 僕はそれが嬉しかった。
 瞳も、肢体も、心さえも。
 全ては借り物。僕のものであって、そうではない。

 でも、この痛みだけは僕のものだから。
 思い出を裏切る哀しみと、無力さと、痛み。
 この絶望は……たとえ神にだって奪わせはしない。


 ――だから
 ――許してなんて、思わない


 人気の失せた廊下を歩く。
 軋む床板を無感動に伝い、行く先にはひとつの扉。
 ゆっくりとそれを押し開いて、

「――ねぇ、ラピス・・・

 月光が彩る部屋の、冷え切った空気を引き裂いて。

「話があるんだ」

 殺した表情の裏で、止めどない涙を流しながら。

「大切な、話が」

 僕はこの幸せに別れを告げた。


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