帝は傾国の元帥を寵愛する

tii

文字の大きさ
4 / 104
1章

4話 ありえない!預貯金ゼロの元帥

しおりを挟む
帝国暦二九九年の記念祭から、ひと息おいたある日のこと。
私は筆頭書記官として、いつものように殿下の執務室に控えていた。

王宮の奥、石畳の回廊を抜けた最深部に構える執務室は、ただの政務の場にとどまらず、帝国の中枢そのものを象徴する空間である。
高窓から射す陽光は、磨かれた石壁を乳白に染め上げ、天井の梁の陰影をくっきりと浮かび上がらせていた。
光は一本の筋となって床を渡り、最奥に腰かけるユリウス殿下の姿を照らし出す。
机に並んだ公文書は端正に整えられ、まるでその秩序そのものが殿下の統治を映しているかのようだった。

中央には応接用のソファと卓が置かれている。
革張りの深紅のソファは年月を経ても艶やかで、ここに腰かけるだけで一幕の劇が始まるかのようだ。
右手には私の定位置があり、帳簿や調書が整然と積み上げられている。
対する左手は本来なら外交官の席であるが、彼が兼任の任務で不在がちのため、自然と“傾国の元帥”ヴァルター閣下の席と化していた。

その日もまた、正午付近には扉が開き、彼が姿を現した。
重厚な扉の金具がかすかに軋み、廊下の光とともに細身の影が差し込む。
名誉元帥とはいえ実務に追われることはほとんどなく、軍議に顔を出して助言を与えたり、殿下の随行として場を圧倒したり――実質は飾りに近い役職である。
だが彼は毎日執務室へ顔を出す。理由は一つ。放っておけば食事を平然と抜いてしまうため、殿下が「昼は必ず共に取れ」と命じているからだ。

そんな彼が、扉をくぐるなり第一声を放つ。

「殿下、欲しいものがあるのだが」

執務机に向かっていた殿下は筆を止め、青の瞳を細める。
窓の光を受けたその眼差しは、澄んだ水底を覗くように冷ややかで美しかった。

「ん? なんだ?
……ああ、そういえば昨日ドン・ペリニヨンを庫に入れさせたな。そろそろ冷えてるんじゃないか?」

「いや……家が欲しい」

私のこめかみがぴくりと跳ねた。
また始まった……。

「……家が欲しい、か。」

殿下は眉をわずかに寄せる。

「……お前、家が欲しいと言われて一つ返事で買えると思うか?」

――いやいや、殿下。
閣下の軍馬2頭分の値段の礼装も、訓練所の冷暖房も、湯殿までもを、“一つ返事”で揃えてきたでしょうに。
私は机の下でひそかに舌を打った。

「そもそもだ、ヴァルター。お前、給金はどうしている?」
殿下の問いは鋭く、空気が張り詰める。

「……無い」
低い声で簡潔に返す。黄金の瞳は一片も揺らがない。

「無い、だと?」

沈黙を埋めるように、私は慌てて調べを始めた。羽根ペンを取る手に力がこもり、羊皮紙に置いた指先がかすかに震える。
やがて閣下は、懐から通帳を取り出す。

「……確認したのだが、引き出せなかった」

「……なんだと?」
殿下の眉間にしわが寄る。

思わず私は通帳を受け取り、目を走らせた。帝都大銀行に預けられた名誉元帥口座――残高は、確かにゼロ。

「なぜだ?」と殿下。
「……わからない」と閣下。

殿下は続きを詮索しかけたが、時計を見やるとすぐに立ち上がり、羽織を整え直し短く告げる。

「すまない、外せぬ用件がある。レオン、調べておけ」
青のマントが翻り、彼は閣下を伴って部屋を後にした。

「……。」

私はくさくさとしながら、昼食の時間すら惜しみ、記録と照合を続けた。
やがて判明したのは、かつて閣下が保護していた者の存在だった。
彼女のために引き出し権限を残したままにしていた結果、その、主のいないはずの侍女が今も毎月――まるで租税のように――全額を引き出し続けていたのだ。




「……酷いな」
丁度一時間後に戻って来た殿下に報告すると、怒りとも呆れともつかぬ色がその声に滲んでいた。

私はため息を胸の内に収める。殿下は考え込むように視線を泳がせ、やがて静かに問う。

「……待て。ヴァルター、お前は以前タウンハウスを持っていなかったか?」

唐突な問いに、閣下は視線を伏せて答える。
「随分前に、売った」

私は帳簿を繰り、記録を探した。確かに売却の記録が残っている。売却先は帝都の孤児院。立地の良さを見込まれながら、二束三文で譲ってしまっていた。

ユリウス殿下は長い吐息を洩らす。
「……本当にお前は」

その間に、ヴァルター閣下が一つの包みを私に渡した。
「レオン書記官、これを」

差し出されたのは、一人前のランチセットだった!
陶器の蓋を開けた瞬間、甘やかなソースの香りが鼻をくすぐった。ステーキはまだ温もりを保ち、茸のソテーは黄金色の油をまとって艶やかに光っている。スープの湯気が立ち昇り、窓の光と重なってゆらめいた。

「……殿下、こんな高級店の……!」
思わず声が裏返った。

「いや、私ではない。ヴァルターが勝手に頼んだだけだ」
殿下は唇の端を上げる。

「閣下、ありがとうございます!」
私が感激を隠せず言うと、ヴァルターはわずかに微笑んだ。

……支払いは、きっと殿下だろう。
けれど、このさりげない気づかいは、まぎれもなく閣下のものだ。
求められるより先に動き、言葉にせずとも意を汲む。
きっと――そういう人だからこそ、殿下もそばにいて心地よいのだろう。
しかしその気づかいは、常に殿下にだけ、過剰なまでに注がれている。
……殿下でなければ、誤解しかねないほどに。
もっとも――それをどう受け止めておられるかは、殿下のお心の内だけが知っている。


私は美味に舌鼓を打ちつつ、現状に考えを巡らせる。

ヴァルター閣下は、ご自身の兄の住まう侯爵家――侍女三十人が仕える大豪邸だ――に、もう五年も居候である。さらに昼食は毎日殿下と共に摂るゆえ、お金を使う機会など本当の意味でほとんど無いだろう。

(……それで“家が欲しい”とは。いやはや、閣下。何を今さら)

私は湯気の立つスープを口に運びながら、堪えきれず問いを投げた。

「閣下……正直、家など要らないのでは?」

短く沈黙したのち、ヴァルターは珍しく真剣な声音で答える。

「もうすぐ、義姉様あねうえは臨月を迎える。
流石に、いつまでも居候というのは……申し訳が立たない」

その言葉に、私は思わず匙を止めた。

――この人は本当に、金にも家にも頓着しない。
自分自身の欲というわけではなかったのだ。

殿下も静かに頷く。

「そうだったな。しかしながら帝国の名誉元帥がその辺の下宿を借りるのも不格好だろう」

その青の双眸には面白げな光が宿る。
「……それで、その欲しい家とやらは、どこにある?」

閣下は子どものように真剣な声音で答えた。
「北の居住区に出ていると聞いた。」

殿下はグラスの縁を指でなぞりながら、静かに笑う。
「ふむ……人伝ての手配は骨が折れるし、後々の面倒を招くこともある。そういった仲介を通すのも悪くはないだろう。……よし、一度、実地を見に行ってみるとしよう」

――結局、買う気満々ではありませんか殿下!
私は心中で天を仰いだ。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

氷の檻に閉じ込められた月~兄上のすべては、私のもの~

春野ふぶき
BL
『兄上は私のものだ。魂も、肉体も。永遠に―—』 アーヴェント侯爵家の長男ライカは、妾腹として正妻に虐げられ続けてきた。 唯一の救いは、次期当主を目される異母弟カイエンの存在。 美しく聡明で、氷の騎士と呼ばれる彼だけは、常にライカの味方だった。 だが、その愛情は兄を守るものではなく、深く歪んだ執着だった。 母を排除し、兄を囲い込み、逃げれば鎖で捕らえる。 そしてついに、ライカの心身は限界に追い詰められていく。 ——カイエンが下す「最後の選択」とは。 ふたりが辿る結末は、幸福か、それとも狂気の果てか。

まおうさまは勇者が怖くて仕方がない

黒弧 追兎
BL
百年前に現れた魔王によって侵攻が行われたアルキドセ王国。 国土の半分を魔物の支配下とされてしまったアルキドセ王国の国王はやむなく、国土を分断した。 ------------- 百年後、魔王の座は孫へと譲られていた。 「あー、だる……座り心地悪すぎだろ、」 しかし、譲られた孫であるセーレに魔王の素質はなく、百年間城にも攻めに来ない勇者に驕りきっていた。 ------------- その日、魔王城に戦慄が走った。 勇者が魔王城まで攻め入ったのだ。 「ひ、ひっ……!、よ、よくきたなぁ、っゆうしゃ!」 血の滴る剣を持ち、近づく勇者に恐怖で震えるセーレに与えられたのは痛みではなく、獣の皮の温かな感触だった。 「っかわいい……俺のものにする、っ」 「ぁ、ぇひ!やだやだやだっ、ひ、ぃい……」 理解できない勇者の言葉は死に怯えるセーレを混乱させ、失神させた。 ___________________ 魔王に一目惚れで掻っ攫う溺愛勇者       × 言動が理解できない勇者が怖い卑屈な名ばかり魔王 愛をまっすぐ伝える勇者に怯える魔王のすれ違い、らぶらぶストーリー。

運命の番ってそんなに溺愛するもんなのぉーーー

白井由紀
BL
【BL作品】(20時30分毎日投稿) 金持ち‪社長・溺愛&執着 α‬ × 貧乏・平凡&不細工だと思い込んでいる、美形Ω 幼い頃から運命の番に憧れてきたΩのゆき。自覚はしていないが小柄で美形。 ある日、ゆきは夜の街を歩いていたら、ヤンキーに絡まれてしまう。だが、偶然通りかかった運命の番、怜央が助ける。 発情期中の怜央の優しさと溺愛で恋に落ちてしまうが、自己肯定感の低いゆきには、例え、運命の番でも身分差が大きすぎると離れてしまう 離れたあと、ゆきも怜央もお互いを思う気持ちは止められない……。 すれ違っていく2人は結ばれることができるのか…… 思い込みが激しいΩとΩを自分に依存させたいα‬の溺愛、身分差ストーリー ★ハッピーエンド作品です ※この作品は、BL作品です。苦手な方はそっと回れ右してください🙏 ※これは創作物です、都合がいいように解釈させていただくことがありますのでご了承くださいm(_ _)m ※フィクション作品です ※誤字脱字は見つけ次第訂正しますが、脳内変換、受け流してくれると幸いです

[BL]憧れだった初恋相手と偶然再会したら、速攻で抱かれてしまった

ざびえる
BL
エリートリーマン×平凡リーマン モデル事務所で メンズモデルのマネージャーをしている牧野 亮(まきの りょう) 25才 中学時代の初恋相手 高瀬 優璃 (たかせ ゆうり)が 突然現れ、再会した初日に強引に抱かれてしまう。 昔、優璃に嫌われていたとばかり思っていた亮は優璃の本当の気持ちに気付いていき… 夏にピッタリな青春ラブストーリー💕

病み墜ちした騎士を救う方法

無月陸兎
BL
目が覚めたら、友人が作ったゲームの“ハズレ神子”になっていた。 死亡フラグを回避しようと動くも、思うようにいかず、最終的には原作ルートから離脱。 死んだことにして田舎でのんびりスローライフを送っていた俺のもとに、ある噂が届く。 どうやら、かつてのバディだった騎士の様子が、どうもおかしいとか……? ※欠損表現有。本編が始まるのは実質中盤頃です

のろまの矜持 恋人に蔑ろにされすぎて逃げた男の子のお話

月夜の晩に
BL
イケメンエリートの恋人からは、雑な扱いばかり。良い加減嫌気がさして逃げた受けくん。ようやくやばいと青ざめた攻めくん。間に立ち塞がる恋のライバルたち。そんな男の子たちの嫉妬にまみれた4角関係物語です。

うちの魔王様が過保護すぎる

秋山龍央
BL
主人公・折本修司(オリモトシュウジ)は転生恩恵女神様ガチャにはずれて異世界に転生して早々、つんでいた。 「異世界で言葉が分かるようにしてくれ」と頼んだところ、相手の言葉は分かるが自分は異世界の言葉は喋れない状態となり、 「平和な国に転生したい」と頼んだところ、平和で治安のいい国に転生をすることはできたものの、そこは人間のいない魔族だけの国だったのである。 困っていた主人公の元に、異世界の"魔王"である紅の髪と角を持つ男があらわれて―― 「まさか――そっくりだとは思ってたけれど、お前、本当にシュウなのか?」 異世界転生魔王様×異世界転生主人公 幼馴染年下攻めだけど年上攻めです

強制悪役劣等生、レベル99の超人達の激重愛に逃げられない

砂糖犬
BL
悪名高い乙女ゲームの悪役令息に生まれ変わった主人公。 自分の未来は自分で変えると強制力に抗う事に。 ただ平穏に暮らしたい、それだけだった。 とあるきっかけフラグのせいで、友情ルートは崩れ去っていく。 恋愛ルートを認めない弱々キャラにわからせ愛を仕掛ける攻略キャラクター達。 ヒロインは?悪役令嬢は?それどころではない。 落第が掛かっている大事な時に、主人公は及第点を取れるのか!? 最強の力を内に憑依する時、その力は目覚める。 12人の攻略キャラクター×強制力に苦しむ悪役劣等生

処理中です...