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1章
10話 帝位
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東の空が白み始めたころ、邸の庭にはまだ薄い靄が漂っていた。
竹林の間を抜ける風がやさしく葉を揺らし、夜の名残をかすかに残している。
ユリウスはヴァルターの寝顔を一瞥し、起こさぬように静かに立ち上がった。
金糸の髪が枕に散り、規則正しい呼吸が部屋に安らぎをもたらしている。
毛布を整え、そっと扉を閉めると、廊下の先で侍女が小さく頭を下げた。
「殿下、馬車のご用意が整っております」
「……ああ、ありがとう」
外は夜明けの気配が濃く、竹林の露が陽を受けてきらめき始めていた。
馬車の車輪が小道を軋ませ、殿下は静かにその座席に腰を下ろす。
屋敷を離れるにつれ、遠ざかる竹林の影が、夢の名残のように揺れていた。
“楽しみだ”――
昨夜の言葉が、まだ胸の奥に残っている。
奇跡のように穏やかな夜だった。
◆
私邸に戻ったのは、午前七時を少し回った頃だった。
侍従が玄関で迎え、温かな湯と朝餉を用意していた。
「お戻りでしたか、殿下。朝のお茶を」
「うむ。……よく眠れた」
軽く答え、着替えを済ませて執務室へ上がる。
窓から差す光はやわらかく、帝都の屋根の先に朝靄がまだ残っていた。
机には前日積まれた報告書が整然と並んでいる。
殿下は筆を手に取り、一枚目に目を通した。
「……さて、今日は昼までに財務局の資料を片付けるか」
その時だった。
廊下の方から急ぎ足の音が響き、扉が勢いよく開かれた。
「殿下っ――!」
レオンが駆け込んできた。
額には汗が滲み、息を切らしている。
「どうした、朝から騒がしい」
「た、たいへんです! 帝陛下が……! 正式に詔を!」
レオンの手には、封蝋の施された文書があった。
帝家の双翼の紋章が、鮮やかな赤で押されている。
侍従がそれを恭しく受け取り、殿下の前に差し出した。
ユリウスは無言のまま立ち上がり、封を切る。
蝋が割れる音がやけに大きく響いた。
> 『我が帝位を、ユリウス・フォン・エーレンベルクに譲る。
> 建国三百年の祝祭の日、これを以て即位の儀とする。
> 帝国の未来を、若き手に託す。』
――一瞬、時が止まった。
レオンが呆然と呟く。
「……帝位を、殿下に……? 本当に、殿下に?」
ユリウスは紙面を見つめたまま、静かに息を吐いた。
「……この手で受け取ることになるとはな」
その時、外から低く響く鐘の音が鳴り始めた。
帝都の大鐘楼――国家布告の合図。
窓の外では伝令の旗を掲げた騎馬が疾走し、遠くの広場に群衆が集まりつつある。
「殿下! 外が、すごいことに!」
レオンが窓辺へ走る。
帝都の空に新しい旗が掲げられ、人々が歓声と驚きの声を上げていた。
「帝が譲位なされたぞ!」「新帝はユリウス殿下だ!」
そのざわめきが波紋のように街全体を包んでいく。
ユリウスは静かに立ち上がった。
「……陛下は、とうに決めておられたのだろう。
三百年の節目に、若い代で国を越えさせると」
机上に詔を置く。
蝋の破片が光を受けてわずかに煌めいた。
「レオン。直ちに文官院と軍務局へ通達を。
本日中に正式布告を整えろ。民を混乱させるな」
「は、はいっ!」
レオンは敬礼し、駆け出していった。
部屋に静寂が戻る。
ユリウスは一人、窓外を見つめた。
帝都がざわめき、鐘が鳴り響く。
その音は祝福であり、同時に責任の鐘でもあった。
ふと、昨夜の光景が脳裏をよぎる。
“殿下、連れて行ってください”
あの柔らかな声、背に触れた腕の温もり。
“楽しみだ”――
その言葉を思い出すと、胸の奥でわずかに痛みが走る。
あれを“最後の穏やかな夜”にしてはならない。
だが今は、先のことなど誰にも読めぬ。
だからこそ、ただ一つずつ――
目の前の務めを、確かに果たしていくしかない。
ユリウスは唇を結び、深く息を吐いた。
「……まったく、陛下らしい。豪胆にも程がある。」
窓の外では、鐘が鳴り止まぬ。
その音が、帝国の未来を――そして、自身の運命を告げていた。
竹林の間を抜ける風がやさしく葉を揺らし、夜の名残をかすかに残している。
ユリウスはヴァルターの寝顔を一瞥し、起こさぬように静かに立ち上がった。
金糸の髪が枕に散り、規則正しい呼吸が部屋に安らぎをもたらしている。
毛布を整え、そっと扉を閉めると、廊下の先で侍女が小さく頭を下げた。
「殿下、馬車のご用意が整っております」
「……ああ、ありがとう」
外は夜明けの気配が濃く、竹林の露が陽を受けてきらめき始めていた。
馬車の車輪が小道を軋ませ、殿下は静かにその座席に腰を下ろす。
屋敷を離れるにつれ、遠ざかる竹林の影が、夢の名残のように揺れていた。
“楽しみだ”――
昨夜の言葉が、まだ胸の奥に残っている。
奇跡のように穏やかな夜だった。
◆
私邸に戻ったのは、午前七時を少し回った頃だった。
侍従が玄関で迎え、温かな湯と朝餉を用意していた。
「お戻りでしたか、殿下。朝のお茶を」
「うむ。……よく眠れた」
軽く答え、着替えを済ませて執務室へ上がる。
窓から差す光はやわらかく、帝都の屋根の先に朝靄がまだ残っていた。
机には前日積まれた報告書が整然と並んでいる。
殿下は筆を手に取り、一枚目に目を通した。
「……さて、今日は昼までに財務局の資料を片付けるか」
その時だった。
廊下の方から急ぎ足の音が響き、扉が勢いよく開かれた。
「殿下っ――!」
レオンが駆け込んできた。
額には汗が滲み、息を切らしている。
「どうした、朝から騒がしい」
「た、たいへんです! 帝陛下が……! 正式に詔を!」
レオンの手には、封蝋の施された文書があった。
帝家の双翼の紋章が、鮮やかな赤で押されている。
侍従がそれを恭しく受け取り、殿下の前に差し出した。
ユリウスは無言のまま立ち上がり、封を切る。
蝋が割れる音がやけに大きく響いた。
> 『我が帝位を、ユリウス・フォン・エーレンベルクに譲る。
> 建国三百年の祝祭の日、これを以て即位の儀とする。
> 帝国の未来を、若き手に託す。』
――一瞬、時が止まった。
レオンが呆然と呟く。
「……帝位を、殿下に……? 本当に、殿下に?」
ユリウスは紙面を見つめたまま、静かに息を吐いた。
「……この手で受け取ることになるとはな」
その時、外から低く響く鐘の音が鳴り始めた。
帝都の大鐘楼――国家布告の合図。
窓の外では伝令の旗を掲げた騎馬が疾走し、遠くの広場に群衆が集まりつつある。
「殿下! 外が、すごいことに!」
レオンが窓辺へ走る。
帝都の空に新しい旗が掲げられ、人々が歓声と驚きの声を上げていた。
「帝が譲位なされたぞ!」「新帝はユリウス殿下だ!」
そのざわめきが波紋のように街全体を包んでいく。
ユリウスは静かに立ち上がった。
「……陛下は、とうに決めておられたのだろう。
三百年の節目に、若い代で国を越えさせると」
机上に詔を置く。
蝋の破片が光を受けてわずかに煌めいた。
「レオン。直ちに文官院と軍務局へ通達を。
本日中に正式布告を整えろ。民を混乱させるな」
「は、はいっ!」
レオンは敬礼し、駆け出していった。
部屋に静寂が戻る。
ユリウスは一人、窓外を見つめた。
帝都がざわめき、鐘が鳴り響く。
その音は祝福であり、同時に責任の鐘でもあった。
ふと、昨夜の光景が脳裏をよぎる。
“殿下、連れて行ってください”
あの柔らかな声、背に触れた腕の温もり。
“楽しみだ”――
その言葉を思い出すと、胸の奥でわずかに痛みが走る。
あれを“最後の穏やかな夜”にしてはならない。
だが今は、先のことなど誰にも読めぬ。
だからこそ、ただ一つずつ――
目の前の務めを、確かに果たしていくしかない。
ユリウスは唇を結び、深く息を吐いた。
「……まったく、陛下らしい。豪胆にも程がある。」
窓の外では、鐘が鳴り止まぬ。
その音が、帝国の未来を――そして、自身の運命を告げていた。
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