『借景の婚約者 ― 学院長代理の計算違い』

星乃和花

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第1話 婚約者を“借りる”作戦

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 王立レーヴァンス学院の職員廊下は、朝の光でぴかぴかしている。

 磨き込まれた床に、大理石の柱。高い窓から差し込む陽が、白い壁を淡く照らしていて――そのど真ん中で、私は思い切り、すべりました。

「わっ⁉」

 手に抱えていた書類の束と、借りてきたばかりのテーブルクロスが宙を舞う。
 紙と布が、ふわっと白い花吹雪みたいに広がった瞬間――

「っと」

 低く落ち着いた声とともに、誰かの腕が私の腰を支えた。

 ぐい、と引き寄せられて、胸板に顔がぶつかる。
 反射的に目を閉じて、よろけた足を踏みしめて……から、そっと顔を上げた。

 そこにいたのは、銀縁の眼鏡越しにこちらを見下ろす、端正な顔。

「……フェンネル嬢?」

「あ、あのっ、アーデン先生……!」

 学院長代理、セドリック・アーデン様。

 今は病気療養中の学院長のかわりに、この巨大な学院を切り盛りしている、すごい人だ。
 黒髪はきちんと後ろに撫でつけられ、朝から三つ揃えのスーツ。シャツの襟元まで、まったく乱れていない。

 それにひきかえ私は、さっき転びかけたせいで、おさげがほどけてぴょんと跳ねている。

「す、すみません! 床のワックスがけ、昨日したてで、つるつるで……!」

「いえ。怪我はありませんか?」

 優雅に片眉を上げてそう尋ねられ、私はぶんぶんと首を振る。

「だ、大丈夫です! 書類も……あ、だめです、全然大丈夫じゃなかったです……!」

 床に散らばった紙の束は、整理したばかりの「奨学金支給申請書」。
 家政学科の奨学生として、他の子の分まで預かって事務室に出しに行く途中だったのだ。

「あ、あのっ、並べ直します、すぐ――」

「私も手伝いましょう」

「えっ、いえ、そんな! 学院長代理さまに、床をはわせるわけには……!」

「“はわせる”とは、ずいぶんな表現ですね」

 くすっと笑って、アーデン先生はしゃがみ込んだ。
 膝を軋ませるようなそぶりもなく、迷いなく床に手を伸ばして、紙を集めていく。

 うわあ、こういうところからして、完璧な紳士だ。

 私は慌てて向かい側にしゃがみ、ぱらぱらと散った紙を拾い集めながら、口からこぼれた言葉を飲み込もうとして――やっぱり間に合わなかった。

「……寄付、減ってるんですよね」

 ぽろ。

 自分でも、なんで今その話を出したのか、よくわからない。
 ただ、さっきちらっと見えてしまった、書類の一番上のメモが気になっただけなのに。

 アーデン先生の手が、一瞬だけ動きを止める。

 あ、やっちゃった。これは絶対、学生が触れちゃいけない大人の事情だ。

「す、すみません! 今のナシで――」

「いいえ。……どこまで、見ましたか?」

「えっと、『今年度寄付総額 前年度比三割減』っていうところまで、です」

 言ってから、自分で自分の口をふさぎたくなった。
 なんでそんなはっきり覚えてるの、私。

 でも、アーデン先生は怒ったりはしなかった。
 彼は、少しだけ目を細めて、ふぅと息を吐く。

「……なるほど。床だけでなく、数字にも滑り込んできましたか」

「す、すべり込んだ……?」

「いえ、こちらの話です」

 彼は拾い集めた書類をきっちり揃えながら、淡々と続けた。

「フェンネル嬢は、家政学科の奨学生でしたね」

「は、はい。学費のほとんどを奨学金に頼っているので……寄付が減ったら、その、困るなあと思って……」

 言いながら、胸がきゅっとする。
 もちろん、誰もそんなこと言っていない。でも、奨学生としてなんとなく感じていた不安が、さっきのメモで急に色を帯びた気がしたのだ。

「私、もっと役に立てたら良いんですけど……。お掃除とか、何か手伝えることがあれば……!」

 それは、半分は本音で、半分は勢いだった。

 けれどアーデン先生は、ふと表情を変える。

「……役に立ちたいと?」

「当たり前です! だって、この学院に来られたのは、たくさんの人のおかげなので。
 借りている場所だからこそ、ちゃんと綺麗にして、長持ちさせたいというか……」

 そこまで言って、自分で恥ずかしくなった。
 なんだか、言葉の選び方がおかしい。

「……えっと、その、借景みたいな……?」

「借景?」

「はい。お庭の借景って、よそ様の景色をお借りして、自分の庭をきれいに見せるっていう考え方なんですけど。
 この学院も、私にとっては“お借りしている景色”みたいなもので……。
 でも、ただの借景じゃなくて、ちゃんと私も、ここにいる色になれたらいいなって……」

 説明しながら、どんどん顔が熱くなる。
 なにを言ってるんだ、私は。朝からポエムを朗読するつもりはなかった。

 しかし、アーデン先生は目を瞬かせたきり、私の顔をじっと見つめた。

「……フェンネル嬢」

「は、はい……」

「君は今、とても助け舟を出した自覚がありませんね」

「へ?」

 助け舟?

 首をかしげる私をよそに、アーデン先生は立ち上がる。
 揃え終わった書類の束を、小さくトントンと机の端で整えてから、静かに言った。

「私には、今すぐにでも欲しい“借景”があるのです」

「えっと……お庭のですか?」

「いいえ。――婚約者です」

「……はい?」

 あまりにも別方向の単語が飛んできて、頭が真っ白になる。

 婚約者?

 アーデン先生は、眼鏡の位置を指で押し上げた。
 普段なら少し冷たい印象すらあるその仕草が、なぜか今は、何か決断した人のものに見える。

「学院長代理が独身であることを、不安視する声がありましてね。
 “将来も安定して学院を任せられる人物なのか”と、要するに寄付者の方々に疑われているわけです」

「そんな……先生、すごく頼りになるのに」

「ありがとう。しかし、外から見える印象というのは、数字以上に扱いが厄介なもので」

 だから、と彼は続けた。

「私は“婚約者を立てる”ことで、その不安を払拭しようと考えていました。
 学院の内部に対しても、外部に対しても、“家庭を持つ覚悟がある人間”だと示すために」

「は、はぁ……」

 たぶんそれは、すごく大人の、政治的なお話なのだろう。
 私の頭では、半分くらいしか理解できていない気がする。

 ただ、一つだけわかるのは――

「でも、そんな大切なこと、簡単に決められるものじゃ……」

「もちろんです。だからこそ、“借景”にしたかった」

「借景……?」

「君が言ったでしょう。“借りている景色だからこそ、綺麗にしたい”と」

 アーデン先生は、そこでようやく口元をわずかに和らげた。

 昼の光が、彼の髪と眼鏡の縁をうっすらと縁どる。
 胸が、どきん、と跳ねた。

「――フェンネル嬢」

「は、はい」

「君に、“借景の婚約者”になっていただきたい」

 時間が、一瞬だけ止まったような気がした。

 職員廊下に響いていた朝の物音が、すうっと遠くへ引いていく。

「い、いま……なんて……」

「君は家政学科で、礼儀作法や家庭運営を学んでいる優秀な学生だ。
 奨学生であることも含め、私が“教育の成果を信じて投資している”と示すには、これ以上ない象徴になる」

 淡々と説明しながら、アーデン先生は、ほんの少しだけ視線を伏せた。

「もちろん、これは“仮”の婚約です。書類上の契約と、いくつかの場で一緒に姿を見せてもらうことになる。
 君の卒業後の進路に、支障が出ないよう配慮もします。……それに、君のご家族の承諾も必要です」

「か、仮……」

 つまり、本当の婚約ではなくて、学院を守るための“見せかけ”。

 そう理解した瞬間、胸のどこかがほっとするような、きゅっとするような、複雑な気持ちになった。

「私に……そんな、役目が……?」

「先ほど、“役に立ちたい”と言いましたね」

 見透かすような眼差しに射抜かれて、私は思わず背筋を伸ばす。

「はい。言いました……!」

「もし、君さえよければ。――私と、その役目を共に担ってもらえますか」

 それは、淡々としていながら、どこかでこちらの返事を本気で待っている声音だった。

 仮の婚約者。

 大切な学院を守るための、借り物の景色。

 きっと、私みたいな奨学生が選ばれることなんて、本来はありえない。
 でも、だからこそ。

「……はい」

 口が、先に動いた。

「私でよければ、精一杯、綺麗に整えてお返しします。
 “借景の婚約者”として、学院のために、できることを全部したいです」

 一瞬だけ、アーデン先生の目が丸くなる。

 すぐに元の冷静な表情に戻ったけれど、その目の奥に、柔らかいものが灯ったのを見逃さなかった。

「……承知しました。では、契約成立ですね、フェンネル嬢」

 差し出された手を、私はおそるおそる握り返した。

 その瞬間は、まだ知らなかった。

 この“借景”が、いつの間にか、私自身の一番好きな景色になってしまうことも。
 学院長代理の計算が、私ひとりをめぐる甘やかしで、見事に狂っていくことも――何一つ。
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