『借景の婚約者 ― 学院長代理の計算違い』

星乃和花

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第5話 学院祭と“借景”の微笑み②

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 夕方の光に染まり始めた学院の中庭は、昼間の賑やかさから、少し落ち着いた色に変わっていた。

 屋台の片付けが始まり、テントの隙間から、茜色の空が覗いている。

 芝生を踏む感触が、じんわりと足裏に伝わる。

「……やっと、息ができます」

「緊張していましたか」

「もちろんです。ずっと“婚約者としての顔”をしていたので」

「いつもと違う顔をしていたつもりですか?」

「えっ」

 思わず立ち止まってしまう。

「わ、私、ちゃんと婚約者らしく見えてましたか?」

「そうですね」

 セドリック様は、少しだけ思案するように首を傾げた。

「普段の君に、自信と覚悟を少し上塗りしたような顔をしていました」

「上塗り……」

「悪い意味ではありません。よく似合っていましたよ」

 そんなふうに言われると、また顔が熱くなる。

 夕日のせいだと、信じたい。

 二人でしばらく無言のまま歩いたあと、庭の一角――昔から学生たちの憩いの場になっている小さな噴水のそばで、自然と足が止まった。

 水の音が、静かに耳に届く。

「……ここ、好きなんです」

 思わず口をついて出た。

「休み時間に、お弁当を食べたり、ノートを整理したり……。
 なんだか、学院の真ん中じゃないけど、真ん中みたいな気がして」

「学院の真ん中、ですか」

「はい。建物に囲まれてるからかな。ここにいると、ああ、学院にいるんだなって実感するというか」

 噴水の水面を覗き込むと、揺らめく水面の中に、自分の姿と、隣に立つセドリック様の姿が映っていた。

「……今日、一日中、いろんな人に“婚約者”って見られてましたよね、私」

「そうですね」

 あっさり認められる。

「驚かせてしまいましたか」

「驚きました……けど、それ以上に、不思議な気持ちでした」

 自分の胸に手を当てる。

「仮の婚約なのに、本物みたいに見られて。
 借り物の景色なのに、私の景色みたいに扱われて。
 “借景”って、もっと遠くから眺めるものだと思ってたんですけど……」

 言葉を探しながら、噴水から顔を上げる。

 目の前に、セドリック様の横顔。

「今日、初めて――」

 自分の声が、少しだけ震えた。

「“借りている景色”に、少しだけ“居場所”をもらえた気がしました」

 言い終えた瞬間、胸がきゅっと締め付けられる。

(……変なこと、言っちゃったかな)

 不安になってセドリック様を見ると、彼はじっと私を見つめ返していた。

 眼鏡のレンズの向こうで、黒い瞳がゆっくりと瞬く。

「――居場所、ですか」

「はい」

 ごくり、と喉を鳴らす。

「私はずっと、この学院に“お邪魔している側”だと思っていました。
 奨学生だし、家柄も特別じゃないし。
 でも、今日、いろんな人に“学院長代理の婚約者”って紹介してくれて……。
 それが正しいかどうかはわからないけど、ここにいてもいいんだって、少しだけ思えたので」

 そこまで言って、慌てて付け足す。

「も、もちろん、借景なのはわかってます。今日みたいに、いつかはこの景色から離れるって自覚もあるし……」

「リラ」

 名前を呼ぶ声が、静かに重なった。

 セドリック様は、ほんの少しだけ眉を寄せていた。

「君は、どうしてそうやって、先に自分で自分の居場所を狭めようとするんでしょうね」

「え……」

「“借りている側だから”“奨学生だから”“いずれいなくなるから”――。
 君はよく、自分の立場をそうやって限定します」

 淡々とした言葉の中に、微かな苛立ちが混じる。

「それは、悪いことなのでしょうか」

「悪いとは言いません。慎み深い考え方とも言えるでしょう。
 ですが――」

 そこで一度言葉を切り、彼は小さく息を吐いた。

「――見ている側としては、少し、もどかしくもあります」

「もどかしい……?」

「ええ」

 セドリック様は、噴水の縁に片手をつきながら、視線を水面に落とした。

「君がここを“借りている景色”だと言うたびに、私は心の中で、“違う”と反論しているんですよ」

「ちがう……?」

「君は、もうすでに――この学院の景色の一部です」

 ごく自然に告げられたその一言に、胸の奥がじん、と熱くなった。

「奨学生であることも、家政学科であることも、君の一部に過ぎません。
 毎朝の廊下のあいさつ、職員室までの書類運び、家政学科の掃除の仕上げ。
 それら全部を含めて、今の学院の景色は成り立っている。君がいる前提で」

「わ、私が……いる、前提……」

「今日の特別お茶席も同じです。
 君が隣にいる前提で、私は話し、笑い、寄付者を迎えました」

 静かな声が、噴水の水音と混ざり合う。

「だから、君が“借りている”と言うたびに、私の立場からすると、少々反論したくなるわけです」

 そう言って、わずかに口元を緩めた。

「――君は、もうここにいていいんですよ。“借りている側”ではなく」

 胸の奥で、何かがほどける音がした気がした。

 言葉にすると軽くなってしまうけれど、ずっと心のどこかで握りしめていた「遠慮」みたいなものが、少しだけ緩む感覚。

「……」

 咄嗟に、上手く言葉が出てこなかった。

 ただ、どうしても伝えたいことが、一つだけ浮かんだ。

「あの……」

 ぎゅっとスカートの裾を握りしめる。

「さっき、お茶席で。セドリック様、招待客の方に“彼女さえよければ”って言ってましたよね」

「言いましたね」

「あれ、本気で言ってましたか?」

「どういう意味での“本気”かにもよりますが」

 少し意地悪な返し方だ。

 でも、今は引き下がりたくなかった。

「“将来、家でもお茶会ができたらいいですね”って、私、言ってしまったので……。
 もし、それが“借景の婚約者としての台詞”として必要だっただけなら、それでいいんですけど」

 喉の奥が少し震える。

「でも、もし、ほんの少しでも、セドリック様の本音が混じっていたなら……知りたいなって」

 自分で言っていて、涙がにじみそうになる。

(なに言ってるの、私)

 仮の婚約なのに。
 借景なのに。

 でも、今日一日があまりにも濃くて、心の中の境界線が、少し曖昧になってしまったのだ。

 セドリック様は、しばらく黙っていた。

 噴水の水音だけが、静かに流れる。

(しまった……重いこと言っちゃったかも……)

 不安で胸が潰れそうになった頃――彼はようやく口を開いた。

「……本音の割合で言えば」

「はい」

「六割ほど、ですかね」

「ろ、六割!?」

 予想外の数字に、変な声が出た。

「そんなに……」

「そんなに、とはどういう評価でしょう」

「いえ、その……二割とか三割かなって思ってたので」

「だいぶ控えめな予想をしていたんですね」

 ふっと笑ってから、彼は続けた。

「君が“家でも誰かにお茶を飲んでもらえたら幸せだ”と言ったとき。
 私の頭の中で、ごく自然に浮かんだのは、“その誰かの中に、自分も含まれていたらいい”という願望でした」

 さらりと――でも、はっきりと。

「計画書には、そんな項目はありませんでしたがね」

 胸の奥が、どくん、と鳴る。

「……それが、六割」

「残りの四割は、学院長代理としての計算です。
 “安定した家庭像を提示することで、寄付者の信頼を得られるだろう”という」

「あ……」

 たしかに、それも大事だ。

 でも、今の私は、六割のほうしかちゃんと聞き取れていない。

「だから、“借景の婚約者として必要な台詞”だったと言われれば、その通りですし。
 同時に、“私の本音の一部”でもあります」

 セドリック様は、そこで言葉を切り、私のほうを見た。

「――これでは、不十分でしょうか」

「……いえ」

 首を振る。

 視界がじんわりと滲んでいた。

「すごく、十分です」

 それ以上の言葉は、うまく出てこなかった。

 頬を伝いそうになった涙を慌てて拭おうとして――その前に、そっとハンカチが差し出された。

「泣くほどの話でしたか?」

「な、泣いてないです」

「そう見えますが」

「これは、その……夕日のせいです」

「夕日は便利ですね」

 くす、と笑う声。

 ハンカチを受け取り、目元を押さえる。

 それから、そっと顔を上げたとき――

 セドリック様が、ほんの少しためらってから、手を差し出した。

「リラ」

「はい」

「もう少しだけ、甘えてもらえますか」

「え?」

「君はいつも、“借りている側だ”“邪魔にならないようにしよう”と、自分を引きさげる傾向にある。
 しかし、今日だけは、それを少し緩めてもいい日だと思うのです」

 その言葉は、やけにやさしく胸に響いた。

「今日は学院祭です。
 学院が、君のような学生たちを誇る日であり――」

 私の手を、そっと取る。

 指先が触れ合い、そのまま絡め取られる。

「――私が、“婚約者がいる”と胸を張って言える日でもある」

 きゅっと指に力がこもる。

「ですから、少しくらいは、私の隣で“借りていない顔”をしていてください」

「……借りていない顔?」

「そうです。借景ではなく、ここに“いていい人”の顔を」

 胸の奥が、じんわりと温かくなった。

 手を握られている感触が、現実なんだと教えてくれる。

 私は、涙のにじむ視界の中で、小さく笑った。

「じゃあ……少しだけ」

「少しだけ、ですか」

「はい。少しずつじゃないと、びっくりしてしまうので」

 自分で笑いながら、握られている手に、そっと力を返す。

「今日だけは、“借りている”って言わないでみます」

「それは、なかなかの挑戦ですね」

「挑戦です」

 言いながら、自分でも驚くくらい、胸の奥が軽くなっていた。

 噴水の水面に映る自分の顔は、さっきよりも少し、まっすぐに前を向いている。

(……居場所、もらっちゃったな)

 そんな少しずるい実感を覚えながら、ふふっと笑った。

「セドリック様」

「なんでしょう」

「今日も、ありがとうございます。――とても助かりました」

 いつもより、少しだけ長く、ゆっくりと。

 彼は一瞬だけ目を細めて、握った手に力を込めた。

「それは、こちらの台詞でもありますよ。リラ」

 夕暮れの光の中で、借景の婚約者は――
 少しだけ、“借り物ではない景色”に足を踏み入れた気がした。
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