『階段対策会議(※恋愛)――年上騎士団長の健康管理が過剰です』

星乃和花

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第1話『団長、これは恋ではありません:私の動悸は階段のせいです(※通じない)』

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 騎士団本部の廊下は、いつもきっちりと整っている。
 床の艶、掲示の角度、窓の取っ手の位置まで――「乱れ」が存在しない。

 だからこそ、クラリスは今日も平静でいられるはずだった。
 腕には書類の束。指にはインクのにおい。頭の中は「次の会計報告」と「備品の納品確認」で埋まっている。

 ――いる。
 階段の踊り場の向こうに、その背中が見えた瞬間。

 クラリスの胸が、ひどく跳ねた。

 どくん。どくん。どくん。
 身体のどこかが「危険」と鳴らしているみたいに。

 (違う、違う……落ち着け。これは、階段……!)

 クラリスは心の中で必死に言い訳を組み立てながら、普段より一段ゆっくり歩いた。
 階段の近くは、空気が冷える。息が乱れやすい。そういう場所だ。うん。

 踊り場に差しかかったところで、背中の主が振り向く。

 騎士団長グラント。
 年上。背が高い。肩幅が広い。声が低い。表情の起伏が薄い。――そして、なぜか毎回、こちらの小さな変化を見逃さない。

 「クラリス」

 名前を呼ばれただけで、心拍が一段上がる。
 (落ち着け、落ち着け……これは階段――)

 クラリスが「おはようございます、団長」といつも通りの声を出そうとした、その一瞬。

 「息が乱れている」

 グラントが言った。

 クラリスは、見事に言葉を飲み込んだ。
 それを指摘されると、さらに乱れるのが人間というものだ。しかも相手がグラントだとなおさらだ。

 「……だ、大丈夫です」

 クラリスは笑顔を作った。作ったはずだった。
 だがグラントは笑顔を“笑顔”として扱わない。あの人の辞書には、たぶん表情筋が載っていない。

 「大丈夫の根拠は」

 質問が速い。刃物みたいにまっすぐだ。

 「えっ……えっと……」

 クラリスの脳内で、乙女心が全力疾走して逃げた。
 (だめ! ここで“あなたを見ると心臓が”なんて言ったら終わる! 私の社会的生命が!)

 「階段です」

 出てきたのは、最も無難で、最も嘘っぽい答えだった。

 グラントは瞬きを一つ。
 そして、真顔のまま顎に手を当てる。

 「階段……」

 (ほら、信じてない……!)

 クラリスは胃のあたりがひゅっと縮むのを感じた。
 こういうとき、普通の人なら「大丈夫?」とか「無理しないで」とか、そういう柔らかいものを出してくれる。だがグラントが出すのはいつも結論だ。

 「階段の利用頻度を確認する必要がある」

 「え?」

 「階段が原因なら、再発率は高い。放置すると転倒につながる」

 (転倒!? 私、ただドキドキしてるだけなのに!?)

 クラリスの内心の叫びは、喉の奥で凍りついたまま外に出られない。
 その間にもグラントは続ける。

 「医務室に行け」

 「い、いえ、医務室ほどでは……」

 「判断は私がする」

 (強い……! そういうところが……そういうところが……)

 クラリスは、胸の高鳴りが「乙女心」だと認めないように、必死に背筋を伸ばした。

 「団長、本当に、階段です。ほら、荷物もありますし、息が……」

 「荷物を」

 「え?」

 次の瞬間、クラリスの腕から書類の束がすっと消えた。
 グラントが、当然のように受け取っていた。

 (え、待って。団長が書類を持つのは、さすがに……)

 「だ、団長!? それは……!」

 「重量は問題ない」

 重量の問題じゃない。立場の問題だ。
 クラリスが抗議の言葉を探しているあいだに、グラントは書類を抱えたまま階段の下を見た。

 「階段を使うなら、私が先に降りる」

 「……?」

 「視界が塞がっている。転倒の確率が上がる」

 (あの……私の乙女心は、転倒扱いされている……?)

 クラリスが呆然としていると、廊下の端から「また始まった」という顔で副団長ローレンが現れた。
 ローレンはクラリスに目だけで「ご愁傷さま」と告げる。

 「団長、朝から何を……」

 「健康問題だ」

 ローレンは口を開けたまま固まった。
 クラリスも固まった。

 健康問題。
 ――恋は、健康問題ではない。たぶん。おそらく。きっと。

 「クラリスの息が乱れている。原因は階段だと本人が申告した」

 「……申告」

 ローレンの顔が、じわじわと青くなっていく。

 「だから対策を取る」

 グラントは淡々と言う。そして、クラリスを見下ろした。

 「今夜、対策会議をする」

 「……今夜?」

 「毎晩だ」

 (ま、毎晩!?)

 クラリスの脳内で乙女心が転げ落ちた。
 毎晩。団長と。二人で。会議。
 ――会議と呼べば、会議だ。うん。会議だ。私は乙女ではない。私は給仕兼事務。業務。業務です。

 「内容は三つだ」

 グラントが指を一本立てる。

 「一、階段の利用を最小化する動線の再設計」

 (“階段の利用を最小化”……?)

 指が二本になる。

 「二、必要時の補助。手を取る。荷物を持つ。段差を確認する」

 (“手を取る”……!?)

 三本。

 「三、再発時の即時対応。呼吸が乱れたら報告しろ。隠すな」

 クラリスの心臓が、また強く跳ねた。
 隠すな。――それは、乙女心にも刺さる。

 「……は、はい」

 返事が小さくなる。

 グラントはそれを“了承”として処理したらしい。微かに頷くと、書類を抱えたまま歩き出した。

 「行くぞ」

 「ど、どこへ……」

 「医務室」

 クラリスは喉の奥で「違います」と叫びたかった。
 でも叫べなかった。団長はもう、結論を出している。

 廊下の脇で、団員たちが目配せを交わし合っているのが見える。
 (やめて……! ニヤニヤしないで……! これは健康問題で……会議で……!)

 クラリスが必死に平静を保っていると、横を歩くローレンが小声で囁いた。

 「クラリス。……階段、嫌いだったっけ」

 「……き、嫌いです」

 「そ、そうか……」

 ローレンの声に、妙な哀れみが混ざった気がした。

 そのとき、先を行くグラントが振り返り、断言した。

 「クラリスの安全は、騎士団の責務だ。――私が担当する」

 クラリスは、思わず足を止めた。
 言葉が、胸の奥に落ちる。硬いはずなのに、あたたかい。

 (……そういうの、ずるい……)

 乙女心を隠すために、クラリスは一歩遅れて歩き出す。
 書類を抱えた背中は、相変わらず無駄がなく、まっすぐだ。

 ――その背中に、今日から「毎晩」が付く。

 (終わった……私の平穏……)

 クラリスが知らないだけで、終わったのは平穏ではなく――“隠蔽”のほうだった。

 今夜から始まる「対策会議」は、彼女の乙女心を、業務の名でじわじわと炙っていく。

(つづく)
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