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第9話 公式ファンクラブ、恋の臨時会議を開く ー前編ー
王都祭りの翌日。
リリア・ベルクは、神殿の礼拝堂で床を磨いていた。
きゅっ。
きゅっ。
きゅっ。
いつもの音。
いつもの床。
いつもの朝。
けれど、リリアの心はまったくいつも通りではなかった。
「セドリック様……」
小さく呟いて、リリアはその場にしゃがみ込んだ。
昨日、名前で呼んだ。
副団長様ではなく。
セドリック様、と。
呼んでしまった。
しかもそのあと、好きですと言った。
いつもの言葉のはずだった。
これまで何度も言ってきた言葉だった。
けれど昨日の「好きです」は、今までのものと違った。
自分でもわかってしまった。
みんなの王子様として。
王都の宝として。
推しとして。
そういう好きだけではなくなっていた。
セドリック様が笑っていると嬉しい。
疲れていると心配。
自分を見つけてくれると、胸がいっぱいになる。
近いと困る。
でも離れると寂しい。
そして昨日、彼は言った。
――そして、そう言ってくれるあなたが好きです。
「……」
リリアは布を握ったまま、完全に停止した。
床磨きの通常業務も停止である。
副団長様が。
いや、セドリック様が。
好き、と。
言った。
自分に。
あれは、聞き間違いではないだろうか。
王都祭りの喧騒による幻聴ではないだろうか。
いや、かなりはっきり聞こえた。
近くにいた会員たちも温かい目をしていた。
つまり、現実である。
「リリアさん」
「はいっ!」
通りかかった神官に声をかけられ、リリアは勢いよく返事をした。
神官は床を見た。
「その一角だけ、かなり神々しくなっています」
「申し訳ありません。考えごとをしていました」
「副団長様のことですか」
「セドリック様です」
言ってから、リリアは両手で口元を押さえた。
神官はゆっくり瞬きした。
「おや」
「違います。違わないのですが、違います。いえ、違わないから困っています」
「なるほど。進みましたね」
「進んでしまいました」
「何か箱は?」
「いっぱいです」
「臨時整理が必要そうですね」
リリアはこくりとうなずいた。
心の中の何か箱は、もう蓋が閉まらない。
推し活。
応援。
憧れ。
感謝。
心配。
嬉しい。
寂しい。
名前で呼びたい。
自分だけを見てほしい。
いろいろな札が飛び出して、床の上に散らばっているような気がする。
しかも、その札の中央に、ひときわ大きな文字で書かれたものがある。
恋
リリアは、その文字をまだ直視できない。
「神官様」
「はい」
「推しが、推しではなくなりそうです」
神官は少しだけ微笑んだ。
「それは、なかなか大きな出来事ですね」
「はい。とても大きいです」
「誰かに相談してみては?」
「誰か」
「同じ気持ちを大切に扱ってくれる方々が、今のリリアさんにはいるのでは?」
リリアは目を瞬かせた。
同じ気持ちを大切に扱ってくれる人。
思い浮かぶのは、王都騎士団公式後援会《白銀の花束》の会員たちだった。
貴族令嬢会員。
学生会員。
主婦会員。
みんな、副団長様を応援している。
騎士団を応援している。
そして、最近はなぜか、リリアとセドリックのことを温かく見守っている。
相談したら、聞いてくれるだろうか。
恥ずかしい。
ものすごく恥ずかしい。
でも、ひとりではもう整理できない。
リリアは布を畳み、深く息を吸った。
「……相談してみます」
「それがよいと思います」
「その前に、床は最後まで磨きます」
「それもよいと思います」
神官は穏やかにうなずいた。
その日の午後。
リリアはファンクラブの集会所へ向かった。
王宮の端にある、小さな会議室。
入口には《白銀の花束》の札がかかっている。
普段なら活動連絡や応援カード整理、物資支援の相談が行われる場所だ。
しかし今日は。
「リリアさん!」
学生会員がぱっと立ち上がった。
「お待ちしていました!」
「えっ」
中には、すでに何人もの会員が集まっていた。
貴族令嬢会員は優雅に席についている。
主婦会員はお茶を用意している。
学生会員たちは椅子を並べている。
なぜか黒板まで用意されていた。
黒板には大きく書かれている。
臨時会議
議題:推しが推しではなくなりそうな件について
リリアは入口で固まった。
「あの」
貴族令嬢会員が扇で口元を隠した。
「昨日の様子を拝見して、これは正式な場が必要だと判断いたしましたの」
主婦会員が温かくうなずく。
「ひとりで抱えるには大きいものねえ」
学生会員が真剣な顔で言う。
「私たち、全力で聞きます!」
「でも、どうして私が今日来ると」
「オズワルド様が」
全員が同じ方向を見る。
部屋の隅。
そこには、当然のようにオズワルド・クレインがいた。
書類束。
眼鏡。
無表情。
そして手元には議事録らしき紙。
「リリア・ベルクさんの心理的整理に会員間支援が有効と判断しました」
「運用ですか」
「運用です」
「恋愛相談まで運用に」
「王都平和です」
リリアは顔を覆った。
王都平和の範囲が広すぎる。
「ご安心ください」
オズワルドは淡々と続けた。
「本会議は任意参加、守秘前提、本人への過度な干渉禁止。副団長本人への情報漏洩も禁止です」
「そこは安心しました」
「なお、私は議事進行および規約確認のため同席します」
「恋愛相談の議事録を取るのですか」
「必要最低限です」
不安しかない。
だが、会員たちの表情はとても優しかった。
からかうような目ではない。
面白がる気配は少しある。
いや、かなりある。
けれどそれ以上に、リリアの気持ちを大切に扱おうとしてくれているのがわかった。
リリアは小さく頭を下げた。
「……よろしくお願いします」
「もちろんですわ」
「座って、まずお茶を飲みましょう」
「緊張すると喉が乾きますから!」
リリアは中央の席に座った。
主婦会員が温かいお茶を出してくれる。
学生会員は黒板の前に立ち、貴族令嬢会員は優雅に扇を開く。
オズワルドが羽ペンを構えた。
「では、臨時会議を開始します。議題は、推しが推しではなくなりそうな件について」
改めて言われると、恥ずかしい。
リリアはお茶の杯を両手で握った。
「まず、本人より現状報告をお願いします」
「現状報告」
「いつから、どのような変化があったのかを共有してください」
「これは本当に恋愛相談でしょうか」
「整理には事実確認が重要です」
リリアは深呼吸した。
事実確認。
それならできるかもしれない。
「最初は、広場で副団長様を見て、一目惚れしました」
会員たちが一斉にうなずいた。
「わかりますわ」
「副団長様ですものね」
「初見の破壊力は強いわよねえ」
「はい。そのときは、みんなの王子様みたいで、遠くから応援できれば幸せだと思いました」
リリアは指先を見つめる。
「ファンクラブに入って、好きですと言える場所ができて、とても嬉しかったです。私は、ただ応援できればよくて……副団長様に何かしてほしいとは、あまり思っていませんでした」
「推し活の初期幸福状態ですわね」
貴族令嬢会員が頷く。
「遠くで光っていてくれればいい、という」
「はい」
リリアは続けた。
「でも、訓練場でお声がけいただいて、応援カードを読んでいただいて、安全講習で手を取っていただいて……」
学生会員が小さく声を上げた。
「あの手首指導回ですね」
「回」
「私たちの間ではそう呼んでいます」
「呼ばれていたのですか」
「はい」
リリアは顔を赤くした。
「そのあたりから、近いと恥ずかしくなりました。でも、それでもまだ、ファンサービスだと思っていました」
主婦会員がやさしく微笑む。
「リリアちゃんは、本当に一生懸命ファンサービス箱に入れていたものね」
「はい。入れていました。でも、清掃活動で副団長様がお疲れなのに気づいて……水と手拭いをお渡しして……」
胸が少し温かくなる。
「あのとき、王子様みたいな方にも、疲れる日があるのだと思いました。それで、人間らしくて好きだと思ってしまいました」
会員たちが静かになった。
貴族令嬢会員が扇を閉じる。
「それは、大きいですわね」
「はい。王子様だから好き、だけではなくなった気がしました」
リリアはお茶を一口飲んだ。
「それから、備品整理で、私に何か望むことはないのかと聞かれて。私は、ご無事で、たまに休んで、たまに笑ってくだされば嬉しいと答えました」
主婦会員が胸を押さえた。
「それを言えるリリアちゃんが、もうねえ」
「何か変でしたか」
「変じゃないわ。とても大切な好きよ」
リリアは少し俯いた。
「王都祭りの準備で、セドリック様が他の方に微笑んでいるのを見て、胸がざわっとしました」
言った瞬間、顔が熱くなる。
「それは、よくない気持ちだと思いました。だって、副団長様はみんなの王子様なのに」
貴族令嬢会員がやわらかく言った。
「それは、よくない気持ちではありませんわ」
「でも」
「独り占めしたいから相手を困らせるのは、考える必要があります。でも、少し胸がざわつくこと自体は、心が何かに気づいた合図ですわ」
「合図」
「ええ。恋は時々、綺麗な気持ちだけではなくて、少し不器用な顔もして現れますもの」
リリアはその言葉を胸に受け止めた。
恋。
言われると、心臓が跳ねる。
でも、もう完全には否定できなかった。
「そして昨日の祭りで、迷子の子を助けようとして、転びそうになって……セドリック様に支えていただいて」
学生会員たちが一斉に顔を赤くした。
「見ていました……!」
「すごかったです……!」
「抱き寄せではなく、支え。でも支えの威力が」
「はい」
リリアは両手で顔を覆った。
「心臓の通常業務が停止しました」
会員たちが深くうなずく。
「それは停止しますわ」
「停止しますね」
「むしろ再起動できて偉いわ」
「ありがとうございます……」
リリアは恥ずかしさに耐えながら続けた。
「そのあと、セドリック様が、私に応援されるだけでなく、私の隣にいたいとおっしゃって」
会議室の空気が、きゃあ、と言いかけて規約の内側に戻った。
貴族令嬢会員は扇を強く握っている。
学生会員は口元を押さえている。
主婦会員は「あらまあ」と小さく呟いた。
「それで、私も……副団長様が笑っていると嬉しい、疲れていると心配、私を見つけてくださると嬉しい、近いと困るけれど、離れると寂しい、と言いました」
リリアは声を小さくした。
「そして最後に、セドリック様と呼んで、好きですと言いました」
静寂。
そのあと、学生会員が黒板に大きく書いた。
結論:恋です
リリアはお茶を吹き出しかけた。
「は、早いです!」
「いえ、十分な根拠があります!」
学生会員は真剣だった。
「推しとして好きなら、遠くで輝いているだけで嬉しい。もちろん近づけたら嬉しいけれど、基本的には“相手の幸せ”を眺める幸福です」
「はい」
「でもリリアさんの場合、今は“自分との関係”が気になっています。見つけてくれると嬉しい。離れると寂しい。他の人に笑いかけると少しざわつく。名前で呼びたい。これ、恋です」
「恋……」
リリアは黒板の文字を見つめた。
大きい。
とても大きい。
逃げ場がない。
主婦会員が優しく言った。
「リリアちゃん、恋って、相手を困らせたい気持ちじゃないのよ」
「はい」
「その人が元気でいてほしい。笑ってほしい。休んでほしい。それだけでも十分、恋の形になるわ」
「でも、私は自分だけを見てほしいと思ってしまって」
「それも自然よ。大事なのは、その気持ちで相手を縛るかどうか。リリアちゃんは縛ろうとしていないでしょう?」
「……はい。困らせたいわけではないです」
「なら大丈夫。気持ちがあることと、押しつけることは違うわ」
貴族令嬢会員も静かに頷いた。
「それに、セドリック様はもう、かなりリリアさんを見ていますわ」
「そんな」
「見ています」
「見ていますね」
「見ているわねえ」
会員たちが口々に言う。
リリアはお茶の杯を握りしめた。
「でも、セドリック様は好かれることに慣れていらっしゃいます」
「慣れていても、本気で気になる相手への態度は別ですわ」
貴族令嬢会員がきっぱり言った。
「そもそも、慣れている方が『隣にいたい』とまで言うのは、かなり踏み込んでいます」
「踏み込んで」
「ええ。しかも、リリアさんの逃げ道を残しながら」
リリアは昨日の石段を思い出した。
セドリックは、隣にいた。
でも、距離は守ってくれた。
逃げなくてもいいと言ってくれた。
待つと言ってくれた。
その優しさを思うと、胸がいっぱいになる。
「私は……どうしたらいいのでしょう」
リリアは小さく聞いた。
会員たちは顔を見合わせた。
主婦会員が一番に言った。
「焦らなくていいと思うわ」
貴族令嬢会員が続ける。
「けれど、ずっと推し活の箱に入れたままでは、セドリック様も迷ってしまうかもしれませんわ」
学生会員が黒板に書き足す。
推し活 → 恋への移行期
必要:自分の気持ちの確認/相手への誠実な伝達
「誠実な伝達……」
リリアはその文字を見た。
「たとえば、昨日のように少しずつ言葉にすることですわ」
貴族令嬢会員が言った。
「まだ全部わからなくても、『前と違う好きになってきています』と伝えたのは、とても誠実でした」
「そうでしょうか」
「ええ。あれは、聞いていたこちらが扇を折りそうになるほどでした」
「折らないでください」
「耐えましたわ」
会員たちが笑った。
少し空気がやわらぐ。
オズワルドが羽ペンを置いた。
「整理すると、現時点でのリリア・ベルクさんの状態は、推し活的好意から恋愛的好意への移行がほぼ完了しつつある段階です」
「ほぼ完了」
「はい。ただし本人の自覚と言語化が追いついていません」
「その通りです……」
「次の課題は、セドリック副団長本人の意図確認です」
リリアは顔を上げた。
「意図確認」
「相手が何を望んでいるのか。今後どう向き合いたいのか。曖昧な状態で周囲だけが盛り上がると、本人たちの負担になります」
「確かに」
「したがって、本会としては、過度な干渉を避け、本人たちが話す機会を自然に設ける方針が適切です」
「自然に」
リリアはオズワルドを見た。
オズワルドは表情を変えない。
「自然に、です」
「運用で自然を作るのですか」
「環境整備です」
便利な言葉が増えた。
そのとき、扉がこんこんと鳴った。
会議室内が、一瞬で静かになる。
オズワルドが「どうぞ」と言う前に、扉の向こうからニックの声がした。
「オズワルドさん、団長から書類預かってきましたー」
オズワルドが扉を開ける。
ニックは書類を抱えて立っていた。
そして、室内を見た。
黒板。
リリア。
会員たち。
大きく書かれた「結論:恋です」。
ニックは目を輝かせた。
「おおっ! 恋の会議ですか!」
「ニックさん!」
リリアは立ち上がりかけた。
ニックは慌てて片手を上げる。
「あっ、すみません! 俺、見なかったことにします!」
だが、顔は完全に見た顔だった。
オズワルドが無表情で言う。
「守秘義務を課します」
「はい!」
「副団長に漏らした場合、祭り後片づけの何か箱整理を一人で担当してもらいます」
「それは重い! 絶対に黙ります!」
リリアは顔を覆った。
もう、だめだ。
恥ずかしさで床に沈みたい。
しかしニックは、少しだけ真面目な顔になった。
「でも、リリアさん」
「はい……」
「副団長、昨日からずっとちょっと変ですよ」
リリアは顔を上げた。
「変」
「浮かれてるんですけど、浮かれきれてないっていうか。嬉しそうなのに、慎重っていうか。団長に『報告書の句読点が多い』って注意されてました」
「句読点が」
「はい。迷いが文に出てるって」
グレン団長、すごい。
文章の句読点で副団長の迷いを見抜くとは。
「副団長は、いつも余裕がある感じなんですけど、リリアさんのことになると少し不器用です」
ニックは笑った。
「だから、リリアさんが迷ってるなら、たぶん副団長も迷ってます」
「セドリック様も」
「はい。あの人、好かれるのには慣れてますけど、自分から好きになるのは下手そうなので」
会議室内が静かになった。
その言葉は、リリアの胸にすとんと落ちた。
自分だけが迷っているのではない。
セドリック様も、迷っているかもしれない。
そう思ったら、少し怖さが小さくなった。
リリアは小さくうなずいた。
「……ありがとうございます、ニックさん」
「いえ! 俺は何も見てませんし、何も言ってません!」
「言いました」
「言いましたね!」
ニックは笑って、書類をオズワルドに渡した。
「じゃあ俺、戻ります。守秘義務、守ります!」
「お願いします」
「ただ、応援してます!」
ニックはそう言って、元気に去っていった。
扉が閉まる。
会員たちが顔を見合わせる。
貴族令嬢会員が微笑んだ。
「では、セドリック様側の状況も、かなり前向きと見てよさそうですわね」
学生会員が黒板に書く。
副団長側:不器用・慎重・でも明らかに好意あり
リリアは文字を見つめた。
明らかに好意あり。
その文字が、恥ずかしくて、嬉しくて、信じたいような、まだ怖いような。
「リリアちゃんは、どうしたい?」
主婦会員が聞いた。
リリアは胸に手を当てた。
どうしたい。
何度も、セドリックに聞かれたような気がする。
そして今、ようやく少しだけわかる。
「話したいです」
リリアは言った。
「セドリック様と、ちゃんと話したいです」
会員たちは、やさしく頷いた。
「私はまだ、自分の気持ちを全部うまく言えません。でも、昨日よりはわかっています。推しとしてだけではなく、セドリック様自身が好きなのだと思います」
言葉にした瞬間、胸が熱くなった。
怖い。
でも、すっきりした。
「だから、ちゃんと話したいです。応援だけで幸せだった気持ちも本当で、今、隣にいたいと思っている気持ちも本当だと」
貴族令嬢会員が扇を閉じた。
「素敵ですわ」
学生会員は少し涙目になっている。
「リリアさん、すごいです……!」
主婦会員はお茶を注ぎ足した。
「ちゃんと言えたわねえ」
オズワルドは議事録に一行書いた。
「本人の希望確認。セドリック副団長との対話を希望。環境整備へ移行」
「環境整備」
リリアは不安になった。
「あの、あくまでも自然に……」
「もちろんです」
オズワルドは眼鏡を押し上げる。
「本日、祭り後片づけにて、展示備品確認担当をリリア・ベルクさん、補助をセドリック副団長とします」
「それは自然でしょうか」
「昨日の展示備品を磨いたのはあなたです。確認担当として自然です。副団長も展示周辺担当でしたので自然です」
「自然が書類で作られている気がします」
「環境整備です」
会員たちは、なぜか深く納得していた。
リリアはお茶を飲んだ。
緊張する。
でも、話したい。
その気持ちは本当だった。
一方その頃。
王都騎士団詰所では、セドリック・アシュフォードが報告書と向き合っていた。
王都祭りの警備報告。
迷子対応件数。
落とし物件数。
演武の実施状況。
展示周辺の人流。
ファンクラブ会員の協力内容。
書くことは多い。
しかし、筆が止まる。
理由は明白だった。
リリアのことを考えてしまうからだ。
――セドリック様。
昨日、彼女はそう呼んだ。
副団長様ではなく、名前で。
その声が、ずっと耳に残っている。
さらに。
――私の好きは、前と少し変わってきています。
そう言った彼女の顔。
赤くて、困っていて、でも逃げなかった。
セドリックは羽ペンを置いた。
「……仕事にならないな」
小さく呟く。
そこへ、扉が開いた。
「副団長」
グレン団長だった。
セドリックは姿勢を正す。
「団長」
「報告書は進んでいるか」
「おおむね」
「句読点が多い」
「まだ読んでいないのでは」
「顔に書いてある」
セドリックは苦笑した。
グレン団長は腕を組んだまま、静かに言う。
「迷っているのか」
「……そう見えますか」
「見える」
隠せない。
セドリックは椅子にもたれた。
「リリアさんに、応援されるだけで十分だと思っていました」
「そうか」
「でも、もう十分ではなくなりました」
「だろうな」
あまりにも当然のように言われた。
セドリックは少し笑う。
「団長は驚かないんですね」
「お前が一名を目で追いすぎるようになってから、驚きは終わっている」
「そんなに見ていましたか」
「見ていた」
「……そうですか」
セドリックは視線を落とした。
「彼女は、僕をみんなの王子様だと言います」
「言いそうだな」
「最初は、それが楽でした。慣れている見られ方だったので」
「だろうな」
「でも彼女は、王子様と言いながら、僕が疲れていることにも気づく。休めと言う。人間らしくて好きだと言う」
言葉にするたび、胸の奥が温かくなる。
「そんなふうに見られることに、慣れていません」
グレン団長は黙って聞いていた。
「僕は、彼女に特別になってほしいと思っています」
「なら、そう言えばいい」
「簡単ですね」
「簡単ではない。だが、言わなければ伝わらん」
グレン団長の声は真面目だった。
「ファンサービスの顔で口説くな」
セドリックは目を瞬いた。
「団長」
「お前は、誰にでも丁寧に笑える。それは長所だ。だが、そういう顔のままでは、相手は迷う」
「……はい」
「リリア嬢は真面目な娘だ。お前がみんなに向ける優しさと、自分に向ける気持ちを区別できずにいる」
「そうですね」
「ならば、男として向き合え」
セドリックは黙った。
男として。
副団長としてではなく。
みんなの王子様としてではなく。
爽やかな騎士としてでもなく。
セドリック・アシュフォードとして。
「……難しいですね」
「難しいなら、難しい顔を見せろ」
グレン団長はきっぱり言った。
「完璧な顔で全部済ませようとするな。お前が迷っているなら、迷っていると伝えればいい」
「団長は、恋愛相談にも強いんですか」
「知らん。だが部下の報告書の乱れくらいは読める」
セドリックは思わず笑った。
グレン団長も、ほんの少しだけ目元を和らげた。
「本日の片づけ、展示周辺の確認に入れ」
「僕が、ですか」
「オズワルドから依頼が来た」
「……運用ですね」
「職務だ」
グレン団長は即答した。
「ただし、話すなら仕事を終えてからにしろ」
「はい」
「それと」
「はい」
「浮かれるな」
「努力します」
「努力ではなく実行しろ」
「はい」
グレン団長はそれだけ言って出ていった。
セドリックはしばらく扉を見つめていた。
そして、手帳を開く。
リリアの応援カード。
好きです。
その言葉を、何度も読み返してきた。
最初は、彼女の「好き」が軽やかで、楽で、温かくて、嬉しかった。
でも今は。
自分も言いたい。
同じ言葉を。
ただし、ファンサービスではなく。
セドリック自身の言葉として。
「……男として、か」
セドリックは小さく息を吐いた。
難しい。
でも、逃げたくはなかった。
(後編へ続く)
リリア・ベルクは、神殿の礼拝堂で床を磨いていた。
きゅっ。
きゅっ。
きゅっ。
いつもの音。
いつもの床。
いつもの朝。
けれど、リリアの心はまったくいつも通りではなかった。
「セドリック様……」
小さく呟いて、リリアはその場にしゃがみ込んだ。
昨日、名前で呼んだ。
副団長様ではなく。
セドリック様、と。
呼んでしまった。
しかもそのあと、好きですと言った。
いつもの言葉のはずだった。
これまで何度も言ってきた言葉だった。
けれど昨日の「好きです」は、今までのものと違った。
自分でもわかってしまった。
みんなの王子様として。
王都の宝として。
推しとして。
そういう好きだけではなくなっていた。
セドリック様が笑っていると嬉しい。
疲れていると心配。
自分を見つけてくれると、胸がいっぱいになる。
近いと困る。
でも離れると寂しい。
そして昨日、彼は言った。
――そして、そう言ってくれるあなたが好きです。
「……」
リリアは布を握ったまま、完全に停止した。
床磨きの通常業務も停止である。
副団長様が。
いや、セドリック様が。
好き、と。
言った。
自分に。
あれは、聞き間違いではないだろうか。
王都祭りの喧騒による幻聴ではないだろうか。
いや、かなりはっきり聞こえた。
近くにいた会員たちも温かい目をしていた。
つまり、現実である。
「リリアさん」
「はいっ!」
通りかかった神官に声をかけられ、リリアは勢いよく返事をした。
神官は床を見た。
「その一角だけ、かなり神々しくなっています」
「申し訳ありません。考えごとをしていました」
「副団長様のことですか」
「セドリック様です」
言ってから、リリアは両手で口元を押さえた。
神官はゆっくり瞬きした。
「おや」
「違います。違わないのですが、違います。いえ、違わないから困っています」
「なるほど。進みましたね」
「進んでしまいました」
「何か箱は?」
「いっぱいです」
「臨時整理が必要そうですね」
リリアはこくりとうなずいた。
心の中の何か箱は、もう蓋が閉まらない。
推し活。
応援。
憧れ。
感謝。
心配。
嬉しい。
寂しい。
名前で呼びたい。
自分だけを見てほしい。
いろいろな札が飛び出して、床の上に散らばっているような気がする。
しかも、その札の中央に、ひときわ大きな文字で書かれたものがある。
恋
リリアは、その文字をまだ直視できない。
「神官様」
「はい」
「推しが、推しではなくなりそうです」
神官は少しだけ微笑んだ。
「それは、なかなか大きな出来事ですね」
「はい。とても大きいです」
「誰かに相談してみては?」
「誰か」
「同じ気持ちを大切に扱ってくれる方々が、今のリリアさんにはいるのでは?」
リリアは目を瞬かせた。
同じ気持ちを大切に扱ってくれる人。
思い浮かぶのは、王都騎士団公式後援会《白銀の花束》の会員たちだった。
貴族令嬢会員。
学生会員。
主婦会員。
みんな、副団長様を応援している。
騎士団を応援している。
そして、最近はなぜか、リリアとセドリックのことを温かく見守っている。
相談したら、聞いてくれるだろうか。
恥ずかしい。
ものすごく恥ずかしい。
でも、ひとりではもう整理できない。
リリアは布を畳み、深く息を吸った。
「……相談してみます」
「それがよいと思います」
「その前に、床は最後まで磨きます」
「それもよいと思います」
神官は穏やかにうなずいた。
その日の午後。
リリアはファンクラブの集会所へ向かった。
王宮の端にある、小さな会議室。
入口には《白銀の花束》の札がかかっている。
普段なら活動連絡や応援カード整理、物資支援の相談が行われる場所だ。
しかし今日は。
「リリアさん!」
学生会員がぱっと立ち上がった。
「お待ちしていました!」
「えっ」
中には、すでに何人もの会員が集まっていた。
貴族令嬢会員は優雅に席についている。
主婦会員はお茶を用意している。
学生会員たちは椅子を並べている。
なぜか黒板まで用意されていた。
黒板には大きく書かれている。
臨時会議
議題:推しが推しではなくなりそうな件について
リリアは入口で固まった。
「あの」
貴族令嬢会員が扇で口元を隠した。
「昨日の様子を拝見して、これは正式な場が必要だと判断いたしましたの」
主婦会員が温かくうなずく。
「ひとりで抱えるには大きいものねえ」
学生会員が真剣な顔で言う。
「私たち、全力で聞きます!」
「でも、どうして私が今日来ると」
「オズワルド様が」
全員が同じ方向を見る。
部屋の隅。
そこには、当然のようにオズワルド・クレインがいた。
書類束。
眼鏡。
無表情。
そして手元には議事録らしき紙。
「リリア・ベルクさんの心理的整理に会員間支援が有効と判断しました」
「運用ですか」
「運用です」
「恋愛相談まで運用に」
「王都平和です」
リリアは顔を覆った。
王都平和の範囲が広すぎる。
「ご安心ください」
オズワルドは淡々と続けた。
「本会議は任意参加、守秘前提、本人への過度な干渉禁止。副団長本人への情報漏洩も禁止です」
「そこは安心しました」
「なお、私は議事進行および規約確認のため同席します」
「恋愛相談の議事録を取るのですか」
「必要最低限です」
不安しかない。
だが、会員たちの表情はとても優しかった。
からかうような目ではない。
面白がる気配は少しある。
いや、かなりある。
けれどそれ以上に、リリアの気持ちを大切に扱おうとしてくれているのがわかった。
リリアは小さく頭を下げた。
「……よろしくお願いします」
「もちろんですわ」
「座って、まずお茶を飲みましょう」
「緊張すると喉が乾きますから!」
リリアは中央の席に座った。
主婦会員が温かいお茶を出してくれる。
学生会員は黒板の前に立ち、貴族令嬢会員は優雅に扇を開く。
オズワルドが羽ペンを構えた。
「では、臨時会議を開始します。議題は、推しが推しではなくなりそうな件について」
改めて言われると、恥ずかしい。
リリアはお茶の杯を両手で握った。
「まず、本人より現状報告をお願いします」
「現状報告」
「いつから、どのような変化があったのかを共有してください」
「これは本当に恋愛相談でしょうか」
「整理には事実確認が重要です」
リリアは深呼吸した。
事実確認。
それならできるかもしれない。
「最初は、広場で副団長様を見て、一目惚れしました」
会員たちが一斉にうなずいた。
「わかりますわ」
「副団長様ですものね」
「初見の破壊力は強いわよねえ」
「はい。そのときは、みんなの王子様みたいで、遠くから応援できれば幸せだと思いました」
リリアは指先を見つめる。
「ファンクラブに入って、好きですと言える場所ができて、とても嬉しかったです。私は、ただ応援できればよくて……副団長様に何かしてほしいとは、あまり思っていませんでした」
「推し活の初期幸福状態ですわね」
貴族令嬢会員が頷く。
「遠くで光っていてくれればいい、という」
「はい」
リリアは続けた。
「でも、訓練場でお声がけいただいて、応援カードを読んでいただいて、安全講習で手を取っていただいて……」
学生会員が小さく声を上げた。
「あの手首指導回ですね」
「回」
「私たちの間ではそう呼んでいます」
「呼ばれていたのですか」
「はい」
リリアは顔を赤くした。
「そのあたりから、近いと恥ずかしくなりました。でも、それでもまだ、ファンサービスだと思っていました」
主婦会員がやさしく微笑む。
「リリアちゃんは、本当に一生懸命ファンサービス箱に入れていたものね」
「はい。入れていました。でも、清掃活動で副団長様がお疲れなのに気づいて……水と手拭いをお渡しして……」
胸が少し温かくなる。
「あのとき、王子様みたいな方にも、疲れる日があるのだと思いました。それで、人間らしくて好きだと思ってしまいました」
会員たちが静かになった。
貴族令嬢会員が扇を閉じる。
「それは、大きいですわね」
「はい。王子様だから好き、だけではなくなった気がしました」
リリアはお茶を一口飲んだ。
「それから、備品整理で、私に何か望むことはないのかと聞かれて。私は、ご無事で、たまに休んで、たまに笑ってくだされば嬉しいと答えました」
主婦会員が胸を押さえた。
「それを言えるリリアちゃんが、もうねえ」
「何か変でしたか」
「変じゃないわ。とても大切な好きよ」
リリアは少し俯いた。
「王都祭りの準備で、セドリック様が他の方に微笑んでいるのを見て、胸がざわっとしました」
言った瞬間、顔が熱くなる。
「それは、よくない気持ちだと思いました。だって、副団長様はみんなの王子様なのに」
貴族令嬢会員がやわらかく言った。
「それは、よくない気持ちではありませんわ」
「でも」
「独り占めしたいから相手を困らせるのは、考える必要があります。でも、少し胸がざわつくこと自体は、心が何かに気づいた合図ですわ」
「合図」
「ええ。恋は時々、綺麗な気持ちだけではなくて、少し不器用な顔もして現れますもの」
リリアはその言葉を胸に受け止めた。
恋。
言われると、心臓が跳ねる。
でも、もう完全には否定できなかった。
「そして昨日の祭りで、迷子の子を助けようとして、転びそうになって……セドリック様に支えていただいて」
学生会員たちが一斉に顔を赤くした。
「見ていました……!」
「すごかったです……!」
「抱き寄せではなく、支え。でも支えの威力が」
「はい」
リリアは両手で顔を覆った。
「心臓の通常業務が停止しました」
会員たちが深くうなずく。
「それは停止しますわ」
「停止しますね」
「むしろ再起動できて偉いわ」
「ありがとうございます……」
リリアは恥ずかしさに耐えながら続けた。
「そのあと、セドリック様が、私に応援されるだけでなく、私の隣にいたいとおっしゃって」
会議室の空気が、きゃあ、と言いかけて規約の内側に戻った。
貴族令嬢会員は扇を強く握っている。
学生会員は口元を押さえている。
主婦会員は「あらまあ」と小さく呟いた。
「それで、私も……副団長様が笑っていると嬉しい、疲れていると心配、私を見つけてくださると嬉しい、近いと困るけれど、離れると寂しい、と言いました」
リリアは声を小さくした。
「そして最後に、セドリック様と呼んで、好きですと言いました」
静寂。
そのあと、学生会員が黒板に大きく書いた。
結論:恋です
リリアはお茶を吹き出しかけた。
「は、早いです!」
「いえ、十分な根拠があります!」
学生会員は真剣だった。
「推しとして好きなら、遠くで輝いているだけで嬉しい。もちろん近づけたら嬉しいけれど、基本的には“相手の幸せ”を眺める幸福です」
「はい」
「でもリリアさんの場合、今は“自分との関係”が気になっています。見つけてくれると嬉しい。離れると寂しい。他の人に笑いかけると少しざわつく。名前で呼びたい。これ、恋です」
「恋……」
リリアは黒板の文字を見つめた。
大きい。
とても大きい。
逃げ場がない。
主婦会員が優しく言った。
「リリアちゃん、恋って、相手を困らせたい気持ちじゃないのよ」
「はい」
「その人が元気でいてほしい。笑ってほしい。休んでほしい。それだけでも十分、恋の形になるわ」
「でも、私は自分だけを見てほしいと思ってしまって」
「それも自然よ。大事なのは、その気持ちで相手を縛るかどうか。リリアちゃんは縛ろうとしていないでしょう?」
「……はい。困らせたいわけではないです」
「なら大丈夫。気持ちがあることと、押しつけることは違うわ」
貴族令嬢会員も静かに頷いた。
「それに、セドリック様はもう、かなりリリアさんを見ていますわ」
「そんな」
「見ています」
「見ていますね」
「見ているわねえ」
会員たちが口々に言う。
リリアはお茶の杯を握りしめた。
「でも、セドリック様は好かれることに慣れていらっしゃいます」
「慣れていても、本気で気になる相手への態度は別ですわ」
貴族令嬢会員がきっぱり言った。
「そもそも、慣れている方が『隣にいたい』とまで言うのは、かなり踏み込んでいます」
「踏み込んで」
「ええ。しかも、リリアさんの逃げ道を残しながら」
リリアは昨日の石段を思い出した。
セドリックは、隣にいた。
でも、距離は守ってくれた。
逃げなくてもいいと言ってくれた。
待つと言ってくれた。
その優しさを思うと、胸がいっぱいになる。
「私は……どうしたらいいのでしょう」
リリアは小さく聞いた。
会員たちは顔を見合わせた。
主婦会員が一番に言った。
「焦らなくていいと思うわ」
貴族令嬢会員が続ける。
「けれど、ずっと推し活の箱に入れたままでは、セドリック様も迷ってしまうかもしれませんわ」
学生会員が黒板に書き足す。
推し活 → 恋への移行期
必要:自分の気持ちの確認/相手への誠実な伝達
「誠実な伝達……」
リリアはその文字を見た。
「たとえば、昨日のように少しずつ言葉にすることですわ」
貴族令嬢会員が言った。
「まだ全部わからなくても、『前と違う好きになってきています』と伝えたのは、とても誠実でした」
「そうでしょうか」
「ええ。あれは、聞いていたこちらが扇を折りそうになるほどでした」
「折らないでください」
「耐えましたわ」
会員たちが笑った。
少し空気がやわらぐ。
オズワルドが羽ペンを置いた。
「整理すると、現時点でのリリア・ベルクさんの状態は、推し活的好意から恋愛的好意への移行がほぼ完了しつつある段階です」
「ほぼ完了」
「はい。ただし本人の自覚と言語化が追いついていません」
「その通りです……」
「次の課題は、セドリック副団長本人の意図確認です」
リリアは顔を上げた。
「意図確認」
「相手が何を望んでいるのか。今後どう向き合いたいのか。曖昧な状態で周囲だけが盛り上がると、本人たちの負担になります」
「確かに」
「したがって、本会としては、過度な干渉を避け、本人たちが話す機会を自然に設ける方針が適切です」
「自然に」
リリアはオズワルドを見た。
オズワルドは表情を変えない。
「自然に、です」
「運用で自然を作るのですか」
「環境整備です」
便利な言葉が増えた。
そのとき、扉がこんこんと鳴った。
会議室内が、一瞬で静かになる。
オズワルドが「どうぞ」と言う前に、扉の向こうからニックの声がした。
「オズワルドさん、団長から書類預かってきましたー」
オズワルドが扉を開ける。
ニックは書類を抱えて立っていた。
そして、室内を見た。
黒板。
リリア。
会員たち。
大きく書かれた「結論:恋です」。
ニックは目を輝かせた。
「おおっ! 恋の会議ですか!」
「ニックさん!」
リリアは立ち上がりかけた。
ニックは慌てて片手を上げる。
「あっ、すみません! 俺、見なかったことにします!」
だが、顔は完全に見た顔だった。
オズワルドが無表情で言う。
「守秘義務を課します」
「はい!」
「副団長に漏らした場合、祭り後片づけの何か箱整理を一人で担当してもらいます」
「それは重い! 絶対に黙ります!」
リリアは顔を覆った。
もう、だめだ。
恥ずかしさで床に沈みたい。
しかしニックは、少しだけ真面目な顔になった。
「でも、リリアさん」
「はい……」
「副団長、昨日からずっとちょっと変ですよ」
リリアは顔を上げた。
「変」
「浮かれてるんですけど、浮かれきれてないっていうか。嬉しそうなのに、慎重っていうか。団長に『報告書の句読点が多い』って注意されてました」
「句読点が」
「はい。迷いが文に出てるって」
グレン団長、すごい。
文章の句読点で副団長の迷いを見抜くとは。
「副団長は、いつも余裕がある感じなんですけど、リリアさんのことになると少し不器用です」
ニックは笑った。
「だから、リリアさんが迷ってるなら、たぶん副団長も迷ってます」
「セドリック様も」
「はい。あの人、好かれるのには慣れてますけど、自分から好きになるのは下手そうなので」
会議室内が静かになった。
その言葉は、リリアの胸にすとんと落ちた。
自分だけが迷っているのではない。
セドリック様も、迷っているかもしれない。
そう思ったら、少し怖さが小さくなった。
リリアは小さくうなずいた。
「……ありがとうございます、ニックさん」
「いえ! 俺は何も見てませんし、何も言ってません!」
「言いました」
「言いましたね!」
ニックは笑って、書類をオズワルドに渡した。
「じゃあ俺、戻ります。守秘義務、守ります!」
「お願いします」
「ただ、応援してます!」
ニックはそう言って、元気に去っていった。
扉が閉まる。
会員たちが顔を見合わせる。
貴族令嬢会員が微笑んだ。
「では、セドリック様側の状況も、かなり前向きと見てよさそうですわね」
学生会員が黒板に書く。
副団長側:不器用・慎重・でも明らかに好意あり
リリアは文字を見つめた。
明らかに好意あり。
その文字が、恥ずかしくて、嬉しくて、信じたいような、まだ怖いような。
「リリアちゃんは、どうしたい?」
主婦会員が聞いた。
リリアは胸に手を当てた。
どうしたい。
何度も、セドリックに聞かれたような気がする。
そして今、ようやく少しだけわかる。
「話したいです」
リリアは言った。
「セドリック様と、ちゃんと話したいです」
会員たちは、やさしく頷いた。
「私はまだ、自分の気持ちを全部うまく言えません。でも、昨日よりはわかっています。推しとしてだけではなく、セドリック様自身が好きなのだと思います」
言葉にした瞬間、胸が熱くなった。
怖い。
でも、すっきりした。
「だから、ちゃんと話したいです。応援だけで幸せだった気持ちも本当で、今、隣にいたいと思っている気持ちも本当だと」
貴族令嬢会員が扇を閉じた。
「素敵ですわ」
学生会員は少し涙目になっている。
「リリアさん、すごいです……!」
主婦会員はお茶を注ぎ足した。
「ちゃんと言えたわねえ」
オズワルドは議事録に一行書いた。
「本人の希望確認。セドリック副団長との対話を希望。環境整備へ移行」
「環境整備」
リリアは不安になった。
「あの、あくまでも自然に……」
「もちろんです」
オズワルドは眼鏡を押し上げる。
「本日、祭り後片づけにて、展示備品確認担当をリリア・ベルクさん、補助をセドリック副団長とします」
「それは自然でしょうか」
「昨日の展示備品を磨いたのはあなたです。確認担当として自然です。副団長も展示周辺担当でしたので自然です」
「自然が書類で作られている気がします」
「環境整備です」
会員たちは、なぜか深く納得していた。
リリアはお茶を飲んだ。
緊張する。
でも、話したい。
その気持ちは本当だった。
一方その頃。
王都騎士団詰所では、セドリック・アシュフォードが報告書と向き合っていた。
王都祭りの警備報告。
迷子対応件数。
落とし物件数。
演武の実施状況。
展示周辺の人流。
ファンクラブ会員の協力内容。
書くことは多い。
しかし、筆が止まる。
理由は明白だった。
リリアのことを考えてしまうからだ。
――セドリック様。
昨日、彼女はそう呼んだ。
副団長様ではなく、名前で。
その声が、ずっと耳に残っている。
さらに。
――私の好きは、前と少し変わってきています。
そう言った彼女の顔。
赤くて、困っていて、でも逃げなかった。
セドリックは羽ペンを置いた。
「……仕事にならないな」
小さく呟く。
そこへ、扉が開いた。
「副団長」
グレン団長だった。
セドリックは姿勢を正す。
「団長」
「報告書は進んでいるか」
「おおむね」
「句読点が多い」
「まだ読んでいないのでは」
「顔に書いてある」
セドリックは苦笑した。
グレン団長は腕を組んだまま、静かに言う。
「迷っているのか」
「……そう見えますか」
「見える」
隠せない。
セドリックは椅子にもたれた。
「リリアさんに、応援されるだけで十分だと思っていました」
「そうか」
「でも、もう十分ではなくなりました」
「だろうな」
あまりにも当然のように言われた。
セドリックは少し笑う。
「団長は驚かないんですね」
「お前が一名を目で追いすぎるようになってから、驚きは終わっている」
「そんなに見ていましたか」
「見ていた」
「……そうですか」
セドリックは視線を落とした。
「彼女は、僕をみんなの王子様だと言います」
「言いそうだな」
「最初は、それが楽でした。慣れている見られ方だったので」
「だろうな」
「でも彼女は、王子様と言いながら、僕が疲れていることにも気づく。休めと言う。人間らしくて好きだと言う」
言葉にするたび、胸の奥が温かくなる。
「そんなふうに見られることに、慣れていません」
グレン団長は黙って聞いていた。
「僕は、彼女に特別になってほしいと思っています」
「なら、そう言えばいい」
「簡単ですね」
「簡単ではない。だが、言わなければ伝わらん」
グレン団長の声は真面目だった。
「ファンサービスの顔で口説くな」
セドリックは目を瞬いた。
「団長」
「お前は、誰にでも丁寧に笑える。それは長所だ。だが、そういう顔のままでは、相手は迷う」
「……はい」
「リリア嬢は真面目な娘だ。お前がみんなに向ける優しさと、自分に向ける気持ちを区別できずにいる」
「そうですね」
「ならば、男として向き合え」
セドリックは黙った。
男として。
副団長としてではなく。
みんなの王子様としてではなく。
爽やかな騎士としてでもなく。
セドリック・アシュフォードとして。
「……難しいですね」
「難しいなら、難しい顔を見せろ」
グレン団長はきっぱり言った。
「完璧な顔で全部済ませようとするな。お前が迷っているなら、迷っていると伝えればいい」
「団長は、恋愛相談にも強いんですか」
「知らん。だが部下の報告書の乱れくらいは読める」
セドリックは思わず笑った。
グレン団長も、ほんの少しだけ目元を和らげた。
「本日の片づけ、展示周辺の確認に入れ」
「僕が、ですか」
「オズワルドから依頼が来た」
「……運用ですね」
「職務だ」
グレン団長は即答した。
「ただし、話すなら仕事を終えてからにしろ」
「はい」
「それと」
「はい」
「浮かれるな」
「努力します」
「努力ではなく実行しろ」
「はい」
グレン団長はそれだけ言って出ていった。
セドリックはしばらく扉を見つめていた。
そして、手帳を開く。
リリアの応援カード。
好きです。
その言葉を、何度も読み返してきた。
最初は、彼女の「好き」が軽やかで、楽で、温かくて、嬉しかった。
でも今は。
自分も言いたい。
同じ言葉を。
ただし、ファンサービスではなく。
セドリック自身の言葉として。
「……男として、か」
セドリックは小さく息を吐いた。
難しい。
でも、逃げたくはなかった。
(後編へ続く)
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