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第1話 となり獲得プロトコル
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花の王都リリシアは、今日も少しだけ浮かれていた。
通りを縁取る並木は、季節の花で編まれた花飾りをまとい、窓辺には小さな鉢植えが笑うみたいに揺れている。数日後にひかえた「春の花祭」のせいで、町全体がそわそわと色づいていた。
その賑わいの中を、一台の馬車がゆっくりと進んでいく。
紋章は、花祭運営局を束ねるフロレアル家のもの。王都で「花の段取りといえばあの家」と言われる、由緒正しい家柄だ。
馬車の中で、ひとりの男が手帳とにらめっこしていた。
――ローラン・フロレアル、二十七歳。
花祭運営局の若き参事官にして、王都屈指の策士。自信家、計画魔、プライド高め。自覚はある。
手帳の見開きには、びっしりと文字が並んでいる。
ページ上部には、太字でこう記されていた。
《作戦名:となり獲得プロトコル》
その下には、小さな文字で、目的・手順・想定されるリスク・保険が、軍の戦略書も顔負けの細かさで書き込まれている。
――目的:
本日の花時計前の逢瀬にて、「君のとなりが欲しい」と伝え、
心理的・物理的距離の短縮を図る。
――手順:
1.花時計前にて二人きりの状況を形成。
2.季節の話題→花の話題→未来の話題と自然に移行。
3.頃合いを見て、台詞「君のとなりが欲しい」を投下。
4.彼女が赤面→沈黙→肯定の返答、までを想定。
――リスク:
・人目が多く、彼女が恥ずかしがる。
・突然すぎて引かれる。
・そもそも意味が伝わらない。
――保険:
・「となり」という言葉を「護衛」や「補佐」の意味にも取れるよう、
曖昧に笑ってごまかす導線を確保。
・周囲に人がいた場合は、仕事の話としてすり替え可能。
ローランは、そこまで読み返して、ふうと小さく息を吐いた。
「……完璧だ」
思わず口に出した独り言に、自分で頷く。
この計画を立てるのに、昨夜どれだけ時間をかけたことか。彼にとって「好意を伝える」とは、もっとも失敗を許されない案件のひとつだ。
――そもそもの原因は、あの日の一目惚れである。
ブランシュ伯爵家の茶会で、レースとリボンと小さな花をまとった少女を見たとき。
ふわふわとした印象のおっとりとした笑顔。お菓子のラムネみたいな少し丸い瞳。
「守らなければ」という感情が、彼の中で、理屈をすっ飛ばして最優先事項に踊り出た。
その少女――今は婚約者となったリリアンヌ・ブランシュは、間もなくこの馬車の到着を待っているはずだ。
婚約は家同士の思惑もあったが、彼自身が望んだ縁談でもある。
だからこそ、失敗したくない。
プライドの高い男にとって、「想いを伝えて拒まれる」という事態は、できうる限り避けたい統計的悪夢だった。
そこで彼がたどり着いた結論が――計画である。
感情は制御できない。だからこそ段取りで囲い込む。
言葉は震える。だからこそ台詞を組み立て、リスクを洗い出し、保険をかける。
……そういう生き方をずっとしてきた。
戦場の布陣を考えるように、花祭の進行を考えるように、恋もまた設計できると、どこかで信じている。
「参事官、そろそろ到着します」
御者の声に、ローランは手帳をぱたりと閉じた。
「わかった」
表情はいつもの冷静なものに戻したつもりだが、指先には、わずかに汗がにじんでいる。
馬車が止まり、扉が開いた先には――花時計前の広場がひろがっていた。
***
花時計の針は、約束の時間を少しだけ過ぎたところを指していた。
「ローラン様!」
鈴のような声に振り向くと、そこにリリアンヌがいた。
淡いクリーム色のドレスに、同じ色のレースの手袋。胸元には小さな花束を模したブローチ。髪はいつもより少しだけ丁寧に巻かれ、耳の後ろには、白い小花が一輪結い込まれている。
――努力している。
それが、ローランが彼女を見た瞬間の第一印象だった。
ふわふわしているように見えて、きちんと約束のために整えてくる。そういうところが、とても愛おしい。
「お待たせいたしました」
リリアンヌは、少し息を弾ませながら、きちんと裾を持ち上げてお辞儀をする。
「いや。今来たところだ」
定番の返答をしながら、ローランは花時計の影を見た。
……実際には五分前から待っていた。だが、そこを正直に報告する必要はない。自分のプライドのためにも。
「今日は、素敵なお時間をありがとうございます。
あの、ここでお会いするのは、久しぶりですね」
「そうだな。花時計前は、祭の目玉でもある。……下見を兼ねて、だ」
最後の一言は、照れ隠しに付け足した。
彼にしては、十分に可愛げのある嘘である。
花時計の周りには、すでに色とりどりの花が植えられている。
職人たちが手入れをしている姿も見えた。リリアンヌの視線が、自然とそちらへ吸い寄せられる。
「わぁ……。この花壇、先月見たときより、ずっと賑やかです。
同じ色のお花でも、高さや咲き方が違うと、ぜんぜん印象が変わるのですね」
「……そうだ。配置と高さと色と数で、かなり印象は変わる」
ローランは、職業柄つい真面目に答えてしまう。
「やっぱりローラン様は、そういうことも『最適化』なさるのですか?」
リリアンヌが、くるりと振り向いて首をかしげる。
彼の口癖を、柔らかく真似るような声音だった。
「まあ、そうだな。人の動き、視線の流れ、疲労度……それらを計算して、最も快適になるように整える。それが職務でもある」
「なんだか、魔法みたいですね」
「……魔法?」
「だって、わたしたちは何も考えなくても、ただ『きれい』って感じるだけで良くなってしまうから。
その裏で、ローラン様がたくさん考えて、最適化、してくださっているのでしょう?」
真剣な瞳で見上げられて、ローランは一瞬、言葉を失った。
自分のやっていることが「魔法みたい」などと言われたのは初めてだ。
大抵は、「やりすぎ」「細かい」「また表を作ったのか」などの評価で済まされる。
「……君は、変わったことを言うな」
「変わっていますか?」
「悪い意味ではない」
むしろ、危険なくらい好意的な意味だ、と心の中で付け加える。
――よし。導入はうまくいっている。
ローランは、心の中で深く頷いた。
季節の話題→花の話題→未来の話題。ここまでは予定通りの流れだ。
「……リリアンヌ」
名前を呼ぶと、リリアンヌはびくりと肩を震わせて、姿勢を正した。
「は、はい」
「君は、この花時計が好きか?」
「え?」
想定外の質問に、一拍おいてから彼女は笑った。
「はい。だって、ここで時間を見上げると、毎季節、違う花が迎えてくれるから。
同じひとときなんて一度もないのに、『またここで会えましたね』って言ってくれているみたいで……」
言いながら、自分でも少し照れたように頬を染める。
言葉の選び方が、やっぱりふわりと甘い。
ローランの胸の中で、何かがきゅっと鳴った。
――今だ。
彼は、さりげなく間合いを詰める。
あと一歩踏み出せば、手を伸ばさずとも、肩と肩が触れそうな距離。
「リリアンヌ」
もう一度呼ぶ。
彼女が真っ直ぐこちらを向く。
花時計の針が、静かに刻む音が聞こえるような気がした。
「君の――」
喉が、思ったよりも乾いている。
さっきまで頭の中で何度も反芻していた台詞が、急に遠くなる。
……大丈夫だ。これは、ただの一文だ。
「君のとなりが欲しい」――たった、それだけ。
ローランは、ほんの一瞬目を閉じて、覚悟を決めた。
「君のとなりが、欲しい」
静かな声だった。
けれど、彼の中のすべての段取りと保険とプライドをかき集めた一撃だった。
リリアンヌの瞳が、ぱちぱちと瞬く。
頬に、ゆっくりと色が広がる――……はずだった。
「……となり」
彼女は、ぽつりと呟いた。
そして、真剣な顔で花時計を見上げる。
「となり、どうやって、あげるのだろう」
「…………え?」
ローランの頭の中で、さらさらと作戦書の紙が崩れ落ちた。
「あの……右と左、どちらのとなりが、ローラン様の得意ですか?」
「得意?」
「はい。わたし、右のとなりに誰かがいると落ち着くのですけれど、
ローラン様はお仕事柄、左のほうがきっと慣れていらっしゃいますよね? 書類とか、腕章とか……」
彼女は完全に真面目だった。
「となり」という単語を、本当に「物理座標」として捉えている顔である。
ローランは一瞬、口を開けたまま固まった。
「いや……そういう意味では……」
「それに、もし、となりにいる時間が長くなるなら、ひざ掛けも用意したほうが良いでしょうか?
長椅子の場合、真ん中に座るべきか、端に座るべきか……」
彼女は完全に、「どのような配置が相手にとって快適か」という問題にシフトしていた。
……それはそれで愛おしいが、今欲しいリアクションとは違う。
ローランは内心で頭を抱えながら、苦し紛れに口を開いた。
「……右でいい」
「右で、いいのですか?」
「いや、常に右とは限らないが……状況によっては左も――」
自分で言いながら、ますます泥沼にはまっている気がした。
「まあ。となりにも、状況に合わせた最適化があるのですね」
リリアンヌは、心から感心したように目を輝かせる。
「さすがローラン様です。となりまで、最適化なさるなんて。
では、将来もし、どちらかのとなりが混み合ってしまったら、わたしは空いているほうに、そっと移動しますね」
――違う。そうではない。
俺が言いたかったのは、「混み合う」以前に「君のとなりに、俺がいたい」という話で……。
喉まで出かかった言葉は、しかし、プライドと長年の習慣に阻まれて、うまく形にならなかった。
「……ああ。頼む」
結局、出てきたのは、妙に仕事じみた短い返事だった。
リリアンヌはほっとしたように笑う。
「よかった。わたし、最近やっと、ローラン様の『最適化』という言葉の意味が、少しだけわかってきた気がして。
いつか、『となりの最適化』も、お手伝いできたら嬉しいです」
それはそれで、正面から心臓を撃ち抜いてくるようなことを言ってくる。
ローランは、手帳の中の「想定される反応」の欄を、心の中で眺めた。
――赤面/沈黙/肯定の返答。
どれにも当てはまらない。書き足さねばならない。
彼は小さく咳払いをし、話題を切り替えることにした。
「……花祭のメインアーチの件だが」
「はい?」
「君にも、正式に協力を依頼する予定だ。今日のところは、その……下見を兼ねている」
「まあ、光栄です。
わたし、飾りつけは得意ではありませんが、お花を見ていると、やる気が出ますから。
ローラン様のお仕事の、おとなりぐらいなら、きっとお役に立てます」
さらりと「おとなり」と言われ、ローランの耳がじわりと熱くなった。
――となり。おとなり。
現時点の成功率は、せいぜい三割といったところだろう。
しかし、まったくの失敗でもない。
彼女は自分のとなりにいることを、嫌がってはいない。むしろ、そこに居場所を見つけようとしている。
それなら――いくらでも、作戦の打ちようはある。
冷静さを取り戻したローランは、心の中で、そっと次のページを開いた。
***
その日の夜。
自室の机の前で、ローランは再び手帳を広げていた。
《作戦名:となり獲得プロトコル》
その下に、小さく追記がされる。
――結果:
台詞の意味は、ほぼ「物理座標」の問題として受け取られた。
恋愛的意味合いの伝達率は低いが、「となり」に対する心理的抵抗は皆無。
――評価:
成功率32%、可愛さ指数∞。
――今後の課題:
抽象的表現の使用には、追加説明の導線が必要。
「最適化」および「保険」ワードの乱用に注意。
そして、ページの端に、さらさらと新しい文字が書き足される。
《次回作戦案》
・花通りデートにて、自然な歩幅合わせ。
・人混み時の庇い動作を用いた距離調整。
・「覚悟しておけ」パターンの検証。
最後の一行で、彼は少しだけペンを止めた。
「……『覚悟しておけ』は、言い方を間違えると、命の話になるな」
と、独りごちる。
明日は、もう少しマイルドな表現を考えよう――そう決意しながら、ローランは手帳を閉じた。
花の王都の夜は、花祭を待ちわびるように、静かに、甘い香りをふくらませていく。
その香りのどこかに、まだ言葉にならない恋心が混じっていることに、当事者たちは気づいていない。
少なくとも今のところは。
けれど、記録係がいたなら、きっとこう書き残すだろう。
――本日、花時計前にて。
フロレアル家の参事官、婚約者の「となり」を獲得し損ねる。
ただし、彼女の心の「おとなり」に、小さな席がひとつ、用意された模様。
通りを縁取る並木は、季節の花で編まれた花飾りをまとい、窓辺には小さな鉢植えが笑うみたいに揺れている。数日後にひかえた「春の花祭」のせいで、町全体がそわそわと色づいていた。
その賑わいの中を、一台の馬車がゆっくりと進んでいく。
紋章は、花祭運営局を束ねるフロレアル家のもの。王都で「花の段取りといえばあの家」と言われる、由緒正しい家柄だ。
馬車の中で、ひとりの男が手帳とにらめっこしていた。
――ローラン・フロレアル、二十七歳。
花祭運営局の若き参事官にして、王都屈指の策士。自信家、計画魔、プライド高め。自覚はある。
手帳の見開きには、びっしりと文字が並んでいる。
ページ上部には、太字でこう記されていた。
《作戦名:となり獲得プロトコル》
その下には、小さな文字で、目的・手順・想定されるリスク・保険が、軍の戦略書も顔負けの細かさで書き込まれている。
――目的:
本日の花時計前の逢瀬にて、「君のとなりが欲しい」と伝え、
心理的・物理的距離の短縮を図る。
――手順:
1.花時計前にて二人きりの状況を形成。
2.季節の話題→花の話題→未来の話題と自然に移行。
3.頃合いを見て、台詞「君のとなりが欲しい」を投下。
4.彼女が赤面→沈黙→肯定の返答、までを想定。
――リスク:
・人目が多く、彼女が恥ずかしがる。
・突然すぎて引かれる。
・そもそも意味が伝わらない。
――保険:
・「となり」という言葉を「護衛」や「補佐」の意味にも取れるよう、
曖昧に笑ってごまかす導線を確保。
・周囲に人がいた場合は、仕事の話としてすり替え可能。
ローランは、そこまで読み返して、ふうと小さく息を吐いた。
「……完璧だ」
思わず口に出した独り言に、自分で頷く。
この計画を立てるのに、昨夜どれだけ時間をかけたことか。彼にとって「好意を伝える」とは、もっとも失敗を許されない案件のひとつだ。
――そもそもの原因は、あの日の一目惚れである。
ブランシュ伯爵家の茶会で、レースとリボンと小さな花をまとった少女を見たとき。
ふわふわとした印象のおっとりとした笑顔。お菓子のラムネみたいな少し丸い瞳。
「守らなければ」という感情が、彼の中で、理屈をすっ飛ばして最優先事項に踊り出た。
その少女――今は婚約者となったリリアンヌ・ブランシュは、間もなくこの馬車の到着を待っているはずだ。
婚約は家同士の思惑もあったが、彼自身が望んだ縁談でもある。
だからこそ、失敗したくない。
プライドの高い男にとって、「想いを伝えて拒まれる」という事態は、できうる限り避けたい統計的悪夢だった。
そこで彼がたどり着いた結論が――計画である。
感情は制御できない。だからこそ段取りで囲い込む。
言葉は震える。だからこそ台詞を組み立て、リスクを洗い出し、保険をかける。
……そういう生き方をずっとしてきた。
戦場の布陣を考えるように、花祭の進行を考えるように、恋もまた設計できると、どこかで信じている。
「参事官、そろそろ到着します」
御者の声に、ローランは手帳をぱたりと閉じた。
「わかった」
表情はいつもの冷静なものに戻したつもりだが、指先には、わずかに汗がにじんでいる。
馬車が止まり、扉が開いた先には――花時計前の広場がひろがっていた。
***
花時計の針は、約束の時間を少しだけ過ぎたところを指していた。
「ローラン様!」
鈴のような声に振り向くと、そこにリリアンヌがいた。
淡いクリーム色のドレスに、同じ色のレースの手袋。胸元には小さな花束を模したブローチ。髪はいつもより少しだけ丁寧に巻かれ、耳の後ろには、白い小花が一輪結い込まれている。
――努力している。
それが、ローランが彼女を見た瞬間の第一印象だった。
ふわふわしているように見えて、きちんと約束のために整えてくる。そういうところが、とても愛おしい。
「お待たせいたしました」
リリアンヌは、少し息を弾ませながら、きちんと裾を持ち上げてお辞儀をする。
「いや。今来たところだ」
定番の返答をしながら、ローランは花時計の影を見た。
……実際には五分前から待っていた。だが、そこを正直に報告する必要はない。自分のプライドのためにも。
「今日は、素敵なお時間をありがとうございます。
あの、ここでお会いするのは、久しぶりですね」
「そうだな。花時計前は、祭の目玉でもある。……下見を兼ねて、だ」
最後の一言は、照れ隠しに付け足した。
彼にしては、十分に可愛げのある嘘である。
花時計の周りには、すでに色とりどりの花が植えられている。
職人たちが手入れをしている姿も見えた。リリアンヌの視線が、自然とそちらへ吸い寄せられる。
「わぁ……。この花壇、先月見たときより、ずっと賑やかです。
同じ色のお花でも、高さや咲き方が違うと、ぜんぜん印象が変わるのですね」
「……そうだ。配置と高さと色と数で、かなり印象は変わる」
ローランは、職業柄つい真面目に答えてしまう。
「やっぱりローラン様は、そういうことも『最適化』なさるのですか?」
リリアンヌが、くるりと振り向いて首をかしげる。
彼の口癖を、柔らかく真似るような声音だった。
「まあ、そうだな。人の動き、視線の流れ、疲労度……それらを計算して、最も快適になるように整える。それが職務でもある」
「なんだか、魔法みたいですね」
「……魔法?」
「だって、わたしたちは何も考えなくても、ただ『きれい』って感じるだけで良くなってしまうから。
その裏で、ローラン様がたくさん考えて、最適化、してくださっているのでしょう?」
真剣な瞳で見上げられて、ローランは一瞬、言葉を失った。
自分のやっていることが「魔法みたい」などと言われたのは初めてだ。
大抵は、「やりすぎ」「細かい」「また表を作ったのか」などの評価で済まされる。
「……君は、変わったことを言うな」
「変わっていますか?」
「悪い意味ではない」
むしろ、危険なくらい好意的な意味だ、と心の中で付け加える。
――よし。導入はうまくいっている。
ローランは、心の中で深く頷いた。
季節の話題→花の話題→未来の話題。ここまでは予定通りの流れだ。
「……リリアンヌ」
名前を呼ぶと、リリアンヌはびくりと肩を震わせて、姿勢を正した。
「は、はい」
「君は、この花時計が好きか?」
「え?」
想定外の質問に、一拍おいてから彼女は笑った。
「はい。だって、ここで時間を見上げると、毎季節、違う花が迎えてくれるから。
同じひとときなんて一度もないのに、『またここで会えましたね』って言ってくれているみたいで……」
言いながら、自分でも少し照れたように頬を染める。
言葉の選び方が、やっぱりふわりと甘い。
ローランの胸の中で、何かがきゅっと鳴った。
――今だ。
彼は、さりげなく間合いを詰める。
あと一歩踏み出せば、手を伸ばさずとも、肩と肩が触れそうな距離。
「リリアンヌ」
もう一度呼ぶ。
彼女が真っ直ぐこちらを向く。
花時計の針が、静かに刻む音が聞こえるような気がした。
「君の――」
喉が、思ったよりも乾いている。
さっきまで頭の中で何度も反芻していた台詞が、急に遠くなる。
……大丈夫だ。これは、ただの一文だ。
「君のとなりが欲しい」――たった、それだけ。
ローランは、ほんの一瞬目を閉じて、覚悟を決めた。
「君のとなりが、欲しい」
静かな声だった。
けれど、彼の中のすべての段取りと保険とプライドをかき集めた一撃だった。
リリアンヌの瞳が、ぱちぱちと瞬く。
頬に、ゆっくりと色が広がる――……はずだった。
「……となり」
彼女は、ぽつりと呟いた。
そして、真剣な顔で花時計を見上げる。
「となり、どうやって、あげるのだろう」
「…………え?」
ローランの頭の中で、さらさらと作戦書の紙が崩れ落ちた。
「あの……右と左、どちらのとなりが、ローラン様の得意ですか?」
「得意?」
「はい。わたし、右のとなりに誰かがいると落ち着くのですけれど、
ローラン様はお仕事柄、左のほうがきっと慣れていらっしゃいますよね? 書類とか、腕章とか……」
彼女は完全に真面目だった。
「となり」という単語を、本当に「物理座標」として捉えている顔である。
ローランは一瞬、口を開けたまま固まった。
「いや……そういう意味では……」
「それに、もし、となりにいる時間が長くなるなら、ひざ掛けも用意したほうが良いでしょうか?
長椅子の場合、真ん中に座るべきか、端に座るべきか……」
彼女は完全に、「どのような配置が相手にとって快適か」という問題にシフトしていた。
……それはそれで愛おしいが、今欲しいリアクションとは違う。
ローランは内心で頭を抱えながら、苦し紛れに口を開いた。
「……右でいい」
「右で、いいのですか?」
「いや、常に右とは限らないが……状況によっては左も――」
自分で言いながら、ますます泥沼にはまっている気がした。
「まあ。となりにも、状況に合わせた最適化があるのですね」
リリアンヌは、心から感心したように目を輝かせる。
「さすがローラン様です。となりまで、最適化なさるなんて。
では、将来もし、どちらかのとなりが混み合ってしまったら、わたしは空いているほうに、そっと移動しますね」
――違う。そうではない。
俺が言いたかったのは、「混み合う」以前に「君のとなりに、俺がいたい」という話で……。
喉まで出かかった言葉は、しかし、プライドと長年の習慣に阻まれて、うまく形にならなかった。
「……ああ。頼む」
結局、出てきたのは、妙に仕事じみた短い返事だった。
リリアンヌはほっとしたように笑う。
「よかった。わたし、最近やっと、ローラン様の『最適化』という言葉の意味が、少しだけわかってきた気がして。
いつか、『となりの最適化』も、お手伝いできたら嬉しいです」
それはそれで、正面から心臓を撃ち抜いてくるようなことを言ってくる。
ローランは、手帳の中の「想定される反応」の欄を、心の中で眺めた。
――赤面/沈黙/肯定の返答。
どれにも当てはまらない。書き足さねばならない。
彼は小さく咳払いをし、話題を切り替えることにした。
「……花祭のメインアーチの件だが」
「はい?」
「君にも、正式に協力を依頼する予定だ。今日のところは、その……下見を兼ねている」
「まあ、光栄です。
わたし、飾りつけは得意ではありませんが、お花を見ていると、やる気が出ますから。
ローラン様のお仕事の、おとなりぐらいなら、きっとお役に立てます」
さらりと「おとなり」と言われ、ローランの耳がじわりと熱くなった。
――となり。おとなり。
現時点の成功率は、せいぜい三割といったところだろう。
しかし、まったくの失敗でもない。
彼女は自分のとなりにいることを、嫌がってはいない。むしろ、そこに居場所を見つけようとしている。
それなら――いくらでも、作戦の打ちようはある。
冷静さを取り戻したローランは、心の中で、そっと次のページを開いた。
***
その日の夜。
自室の机の前で、ローランは再び手帳を広げていた。
《作戦名:となり獲得プロトコル》
その下に、小さく追記がされる。
――結果:
台詞の意味は、ほぼ「物理座標」の問題として受け取られた。
恋愛的意味合いの伝達率は低いが、「となり」に対する心理的抵抗は皆無。
――評価:
成功率32%、可愛さ指数∞。
――今後の課題:
抽象的表現の使用には、追加説明の導線が必要。
「最適化」および「保険」ワードの乱用に注意。
そして、ページの端に、さらさらと新しい文字が書き足される。
《次回作戦案》
・花通りデートにて、自然な歩幅合わせ。
・人混み時の庇い動作を用いた距離調整。
・「覚悟しておけ」パターンの検証。
最後の一行で、彼は少しだけペンを止めた。
「……『覚悟しておけ』は、言い方を間違えると、命の話になるな」
と、独りごちる。
明日は、もう少しマイルドな表現を考えよう――そう決意しながら、ローランは手帳を閉じた。
花の王都の夜は、花祭を待ちわびるように、静かに、甘い香りをふくらませていく。
その香りのどこかに、まだ言葉にならない恋心が混じっていることに、当事者たちは気づいていない。
少なくとも今のところは。
けれど、記録係がいたなら、きっとこう書き残すだろう。
――本日、花時計前にて。
フロレアル家の参事官、婚約者の「となり」を獲得し損ねる。
ただし、彼女の心の「おとなり」に、小さな席がひとつ、用意された模様。
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幼い頃から憧れてきた“兄みたいな人”は、いつだって私の歩幅を守ってくれた。
大結界更新を前に、王都のための“婚約”が決まった日――
鈍感な令嬢エリシアは、ようやく自分の胸の熱の正体に気づきはじめる。
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結果で示した先に待っていたのは、初恋の名前を呼ぶ瞬間だった。
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ボタニカルseven
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ある日精霊たちはいった。
「あの方が迎えに来る」
カクヨム/なろう様でも連載させていただいております
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