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第2話 その手、刃物じゃなくて餡を握る手
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朝の《鶴の屋》王都支店は、甘い湯気で戦っていた。
蒸籠(せいろ)の蓋が開くたびに、白い息みたいな湯気が立ちのぼる。
餡の鍋がふつふつ鳴る。
包み紙がさらさら鳴る。
行列のざわめきが、戸の向こうで波のように寄せてくる。
――そして、その中心で。
ユズは、昨夜拾ってきた(※本人の感覚)新しい職人、カイを見上げていた。
「……本当に、ここに立っているのです」
カイは返事をしない。
返事の代わりに、視線で「当然」と言っている。
厨房の職人たちは、まだ半歩だけ警戒した目をしていた。
外套の男。やつれた顔。無口。目が鋭い。
でも――目だけで“仕事ができる人”の圧がある。
「とりあえず、初日は簡単な作業から――」
番頭が言いかけた瞬間、カイが静かに前に出た。
蒸籠の並び、鍋の位置、粉の袋、木型、包丁。
彼はそれらを一度“見る”だけで、厨房の動線を理解したようだった。
そして。
カイは、蒸籠の取っ手を布で掴むと、すっと持ち上げた。
湯気がぶわっと顔にかかる……はずだったのに。
湯気の流れが、なぜかユズの方に来ない。
「……?」
ユズが首を傾げた瞬間、カイの腕が少しだけ動いた。
蒸籠の角度が、湯気の“逃げ道”を作っている。
(なにそれ、優しい……)
ユズは感心する。
しかし口に出たのは、別の言葉だった。
「湯気が、賢いのです……!」
番頭が、頭を抱えた。
「支店長、湯気は賢くないです」
カイの目が、一瞬だけ笑った。
♢
「……じゃあ、餡の練りをお願いするのです。あんこは幸せの芯なのです」
ユズが桶を指さすと、カイは頷いた。
餡を練る――それだけの作業だ。
なのに、彼の手が入った瞬間、厨房の空気が変わった。
音が、違う。
へらが桶の縁を擦る音が、無駄がない。
力の入り方が一定で、餡の表面がなめらかに揃っていく。
見習いの少年が、思わず呟く。
「……餡って、こんなに“静か”に練れるんだ」
「餡が静か……?」とユズが言う。
番頭が、また頭を抱えた。
「支店長、静かなのは彼の手元です」
ユズは「なるほどなのです」と真剣に頷いた。
カイは無言のまま、視線だけで「そこはどうでもいい」と言っている。
♢
午前中、カイはほとんど喋らなかった。
でも――仕事は増えていった。
• 箱が足りない → 無言で箱のサイズを測り、折りやすいように束ねてくれる
• 粉が散る → 置き場所を変え、袋の口を整え、散らない向きに直す
• 木型が足りない → 一つ一つの型を点検し、欠けているものを抜き、使える順に並べ直す
“静かな整理”が、厨房を救っていく。
ユズは、感動した。
(猫の手どころじゃないのです。これは……猫の手を百本持っている人なのです)
番頭が低い声で言った。
「支店長。猫は百本も手がありません」
「でもカイさんは、ありますのです(確信)」
カイが、ユズを見た。
その目が言っていた。
――本当に、何を言っているんだ。
♢
問題が起こったのは、昼前だった。
練り切りの“花告げ”――恋菓祭に向けた人気商品。
外側は淡い桃色。中は白餡。花びらの重なりが命。
見習いが花びらを成形している途中、指が震えて崩した。
「うっ……すみません、また……!」
焦りが厨房を走る。
行列は伸びる。予約札は積み上がる。
誰かが言う。「時間がない」と。
ユズはすぐに笑って、言った。
「大丈夫なのです。和菓子は、急ぐほど優しさが必要なのです」
――自分で言って、少しだけ不安になる。
本当に大丈夫?
大丈夫って言うだけで、今日が回るの?
その瞬間。
カイが、崩れた練り切りを無言で受け取った。
指先が動く。
さっき崩れた“花びら”が、まるで最初からそうであったみたいに、戻っていく。
整えるというより、直す。
迷いのない修復。
見習いが息をのむ。
「……魔法?」
ユズが、ぱちぱちと手を叩きそうになった。
「カイさん、すごいのです! 和菓子職人の手が、神さまの手なのです!」
番頭が言った。
「支店長、褒め方がふわふわすぎます」
カイの目が、今度ははっきりと呆れた――ように見えて、やっぱり柔らかい。
そしてカイは、見習いの手元を指さした。
言葉はない。
でも、指の動きで「ここ」と教えている。
見習いが恐る恐る同じようにやってみると、花びらがきれいに整った。
「……できた……!」
見習いの顔がぱっと明るくなる。
ユズは胸の奥が熱くなるのを感じた。
(この人……ここにいてくれるだけで、みんなが救われるのです)
そして、誰より自分が救われている。
♢
午後。
一段落したと思った瞬間、今度は包丁が足りない騒ぎになった。
練り切りの細工は、刃の入れ方が命だ。
刃が鈍いと、餡が潰れる。
「支店長、これ……切れ味が……!」
「研いでも追いつかないのです……!」
ユズは困り顔になった。
新作の数が増えた分、刃物への負担も増えている。
そのとき、カイが包丁を手に取った。
そして、まるで呼吸の一部みたいに、砥石を出した。
「え、砥石……?」
ユズが目を丸くする。
番頭も驚いた。
「……持ってたんですか?」
カイは頷く。
頷き方が、当たり前すぎる。
砥石に水を含ませる音。
刃が触れる音。
シャリ、シャリ、シャリ。
その音が、厨房の騒がしさの中で妙に澄んでいた。
ユズは、なぜだか見入ってしまう。
カイの手は、大きくて硬そうなのに、動きが繊細だ。
(あの手……武器じゃなくて、餡を握る手なのです)
ふっと、思った瞬間。
カイが研ぎ終えた包丁を、ユズに差し出した。
ユズは受け取って――震えた。
軽い。
刃が“立っている”感じがする。
「……わ、すごいのです……!」
ユズが感動して、試しに紙を切ろうとした。
そのとき。
カイの手が、ユズの手首にそっと触れた。
止めたのだ。
そして、視線で言う。
――危ない。
ユズは、ぴたりと止まった。
(……触った)
手首。
指先。
ほんの一瞬。
なのに、そこだけ体温が残ったみたいに熱い。
ユズは顔が赤くなる前に、言い訳を口にする。
「えっと、今のは……安全確認なのです」
番頭が、ぼそっと言った。
「支店長。あなたが照れてる安全確認はいりません」
ユズは「!?!?」となる。
カイは何も言わない。
言わないけど、目だけが少し細くなっている。
……笑っている。
ユズだけが、気づかないふりをした。
♢
夕方。
店の戸の向こうの行列が、少しだけ短くなった。
厨房の空気が、やっと“息をする”余裕を取り戻す。
ユズは、疲れた肩を回した。
「今日も、幸せを運んだのです……」
言いながら、ふと隣を見る。
カイが、窓際で手を洗っていた。
夕日の光が、彼の横顔を柔らかく縁取っている。
やつれていたはずの頬に、ほんの少しだけ色が戻っているように見えた。
ユズは小さく微笑む。
(……良かった)
カイが、ユズを見る。
その視線が、今日いちばん静かで――雄弁だった。
言葉がないのに、胸の奥が勝手に理解してしまう。
――ここにいていいのか?
ユズは、いつもの呪文を、今度は相手に向けて言った。
「和菓子は幸せを運ぶのです」
そして、少しだけ声を柔らかくする。
「……だから、作れる人も幸せになっていいのです。カイさんも」
カイは、瞬きした。
驚いたみたいに。
それから、ゆっくり頷いた。
一回。
それだけで、ユズは胸がふわっと軽くなる。
番頭が二人の間の空気を察して、わざとらしく咳払いをした。
「支店長。明日から王宮便、さらに増えます」
ユズは即座に背筋を伸ばす。
「任せるのです! 幸せは運ぶのです!」
番頭が疲れた顔で言う。
「……支店長が一番幸せ運ばれてますよ」
ユズは「???」と首を傾げた。
カイの目が、また少しだけ笑う。
――今日も、甘い戦場が終わった。
そして、静かな職人の視線だけが、
「明日もここにいる」と、確かに言っていた。
蒸籠(せいろ)の蓋が開くたびに、白い息みたいな湯気が立ちのぼる。
餡の鍋がふつふつ鳴る。
包み紙がさらさら鳴る。
行列のざわめきが、戸の向こうで波のように寄せてくる。
――そして、その中心で。
ユズは、昨夜拾ってきた(※本人の感覚)新しい職人、カイを見上げていた。
「……本当に、ここに立っているのです」
カイは返事をしない。
返事の代わりに、視線で「当然」と言っている。
厨房の職人たちは、まだ半歩だけ警戒した目をしていた。
外套の男。やつれた顔。無口。目が鋭い。
でも――目だけで“仕事ができる人”の圧がある。
「とりあえず、初日は簡単な作業から――」
番頭が言いかけた瞬間、カイが静かに前に出た。
蒸籠の並び、鍋の位置、粉の袋、木型、包丁。
彼はそれらを一度“見る”だけで、厨房の動線を理解したようだった。
そして。
カイは、蒸籠の取っ手を布で掴むと、すっと持ち上げた。
湯気がぶわっと顔にかかる……はずだったのに。
湯気の流れが、なぜかユズの方に来ない。
「……?」
ユズが首を傾げた瞬間、カイの腕が少しだけ動いた。
蒸籠の角度が、湯気の“逃げ道”を作っている。
(なにそれ、優しい……)
ユズは感心する。
しかし口に出たのは、別の言葉だった。
「湯気が、賢いのです……!」
番頭が、頭を抱えた。
「支店長、湯気は賢くないです」
カイの目が、一瞬だけ笑った。
♢
「……じゃあ、餡の練りをお願いするのです。あんこは幸せの芯なのです」
ユズが桶を指さすと、カイは頷いた。
餡を練る――それだけの作業だ。
なのに、彼の手が入った瞬間、厨房の空気が変わった。
音が、違う。
へらが桶の縁を擦る音が、無駄がない。
力の入り方が一定で、餡の表面がなめらかに揃っていく。
見習いの少年が、思わず呟く。
「……餡って、こんなに“静か”に練れるんだ」
「餡が静か……?」とユズが言う。
番頭が、また頭を抱えた。
「支店長、静かなのは彼の手元です」
ユズは「なるほどなのです」と真剣に頷いた。
カイは無言のまま、視線だけで「そこはどうでもいい」と言っている。
♢
午前中、カイはほとんど喋らなかった。
でも――仕事は増えていった。
• 箱が足りない → 無言で箱のサイズを測り、折りやすいように束ねてくれる
• 粉が散る → 置き場所を変え、袋の口を整え、散らない向きに直す
• 木型が足りない → 一つ一つの型を点検し、欠けているものを抜き、使える順に並べ直す
“静かな整理”が、厨房を救っていく。
ユズは、感動した。
(猫の手どころじゃないのです。これは……猫の手を百本持っている人なのです)
番頭が低い声で言った。
「支店長。猫は百本も手がありません」
「でもカイさんは、ありますのです(確信)」
カイが、ユズを見た。
その目が言っていた。
――本当に、何を言っているんだ。
♢
問題が起こったのは、昼前だった。
練り切りの“花告げ”――恋菓祭に向けた人気商品。
外側は淡い桃色。中は白餡。花びらの重なりが命。
見習いが花びらを成形している途中、指が震えて崩した。
「うっ……すみません、また……!」
焦りが厨房を走る。
行列は伸びる。予約札は積み上がる。
誰かが言う。「時間がない」と。
ユズはすぐに笑って、言った。
「大丈夫なのです。和菓子は、急ぐほど優しさが必要なのです」
――自分で言って、少しだけ不安になる。
本当に大丈夫?
大丈夫って言うだけで、今日が回るの?
その瞬間。
カイが、崩れた練り切りを無言で受け取った。
指先が動く。
さっき崩れた“花びら”が、まるで最初からそうであったみたいに、戻っていく。
整えるというより、直す。
迷いのない修復。
見習いが息をのむ。
「……魔法?」
ユズが、ぱちぱちと手を叩きそうになった。
「カイさん、すごいのです! 和菓子職人の手が、神さまの手なのです!」
番頭が言った。
「支店長、褒め方がふわふわすぎます」
カイの目が、今度ははっきりと呆れた――ように見えて、やっぱり柔らかい。
そしてカイは、見習いの手元を指さした。
言葉はない。
でも、指の動きで「ここ」と教えている。
見習いが恐る恐る同じようにやってみると、花びらがきれいに整った。
「……できた……!」
見習いの顔がぱっと明るくなる。
ユズは胸の奥が熱くなるのを感じた。
(この人……ここにいてくれるだけで、みんなが救われるのです)
そして、誰より自分が救われている。
♢
午後。
一段落したと思った瞬間、今度は包丁が足りない騒ぎになった。
練り切りの細工は、刃の入れ方が命だ。
刃が鈍いと、餡が潰れる。
「支店長、これ……切れ味が……!」
「研いでも追いつかないのです……!」
ユズは困り顔になった。
新作の数が増えた分、刃物への負担も増えている。
そのとき、カイが包丁を手に取った。
そして、まるで呼吸の一部みたいに、砥石を出した。
「え、砥石……?」
ユズが目を丸くする。
番頭も驚いた。
「……持ってたんですか?」
カイは頷く。
頷き方が、当たり前すぎる。
砥石に水を含ませる音。
刃が触れる音。
シャリ、シャリ、シャリ。
その音が、厨房の騒がしさの中で妙に澄んでいた。
ユズは、なぜだか見入ってしまう。
カイの手は、大きくて硬そうなのに、動きが繊細だ。
(あの手……武器じゃなくて、餡を握る手なのです)
ふっと、思った瞬間。
カイが研ぎ終えた包丁を、ユズに差し出した。
ユズは受け取って――震えた。
軽い。
刃が“立っている”感じがする。
「……わ、すごいのです……!」
ユズが感動して、試しに紙を切ろうとした。
そのとき。
カイの手が、ユズの手首にそっと触れた。
止めたのだ。
そして、視線で言う。
――危ない。
ユズは、ぴたりと止まった。
(……触った)
手首。
指先。
ほんの一瞬。
なのに、そこだけ体温が残ったみたいに熱い。
ユズは顔が赤くなる前に、言い訳を口にする。
「えっと、今のは……安全確認なのです」
番頭が、ぼそっと言った。
「支店長。あなたが照れてる安全確認はいりません」
ユズは「!?!?」となる。
カイは何も言わない。
言わないけど、目だけが少し細くなっている。
……笑っている。
ユズだけが、気づかないふりをした。
♢
夕方。
店の戸の向こうの行列が、少しだけ短くなった。
厨房の空気が、やっと“息をする”余裕を取り戻す。
ユズは、疲れた肩を回した。
「今日も、幸せを運んだのです……」
言いながら、ふと隣を見る。
カイが、窓際で手を洗っていた。
夕日の光が、彼の横顔を柔らかく縁取っている。
やつれていたはずの頬に、ほんの少しだけ色が戻っているように見えた。
ユズは小さく微笑む。
(……良かった)
カイが、ユズを見る。
その視線が、今日いちばん静かで――雄弁だった。
言葉がないのに、胸の奥が勝手に理解してしまう。
――ここにいていいのか?
ユズは、いつもの呪文を、今度は相手に向けて言った。
「和菓子は幸せを運ぶのです」
そして、少しだけ声を柔らかくする。
「……だから、作れる人も幸せになっていいのです。カイさんも」
カイは、瞬きした。
驚いたみたいに。
それから、ゆっくり頷いた。
一回。
それだけで、ユズは胸がふわっと軽くなる。
番頭が二人の間の空気を察して、わざとらしく咳払いをした。
「支店長。明日から王宮便、さらに増えます」
ユズは即座に背筋を伸ばす。
「任せるのです! 幸せは運ぶのです!」
番頭が疲れた顔で言う。
「……支店長が一番幸せ運ばれてますよ」
ユズは「???」と首を傾げた。
カイの目が、また少しだけ笑う。
――今日も、甘い戦場が終わった。
そして、静かな職人の視線だけが、
「明日もここにいる」と、確かに言っていた。
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