看病しに行ったら、当主の“眠り”になってしまった

星乃和花

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2:看病の落とし穴

翌朝、リィナは自室で目を覚ました。

……いや、正確には「目を覚ました」と言うほど眠ってはいない。まぶたの裏に灯りの残像が貼りついていて、指先だけがまだ熱を覚えている。握られていた感触が、離れても残る。

(まずい……)

当主の寝室で、椅子に座ったまま、手を握られたまま。
そんな状態で夜を越してしまったなど、誰かに知られたら。

寝台の脇、椅子の上で目を閉じた瞬間のことを思い出して、リィナは慌てて布団を跳ねるように起きた。髪を整え、エプロンを結び直し、指先を見つめる。

そこに、うっすらと赤い跡が残っていた。
握力の跡だ。体調の悪い人の力とは思えない。

(……あの方、どれだけ無理を)

胸の奥がきゅっと詰まる。
心配と、恐れと、妙な温かさが一緒に湧く。手を握られただけで、自分の存在が“必要”だったかのように感じてしまった。そう思うのは、いけない。使用人として、いけない。

リィナは深呼吸して、台所へ向かった。

白湯。薄い粥。果物のすりおろし。
香りが強すぎないように。音が立たないように。盆の上をきれいに整える。薬包紙の数を確かめ、布も新しいものに替えた。

手慣れた作業のはずなのに、今日は指先が少しだけ震える。
昨日の“握り返し”が、作業の隙間から何度も顔を出すからだ。

侍女長は廊下でリィナを待っていた。
目が合うと、無駄な会話はせずに盆の中身だけ確認し、短く言う。

「夜、帰ってきたのは?」

リィナは息を詰めた。

「……遅くなりました。アレクシス様が、少し、咳を——」

「そう」

侍女長は表情を変えずに頷いた。けれど、その視線が一瞬、リィナの指先の赤い跡に落ちた気がして、リィナは思わず指を握り込む。

「無理はするな。あなたが倒れたら本末転倒だ」

それは叱責ではなく、注意だった。
リィナは胸の奥で安堵し、小さく頭を下げた。

「はい」

扉の前で、今日も深呼吸。

ノックは二回。
返事はない。

鍵を開ける音だけが、静かな廊下に小さく響いた。

——部屋の空気は、昨日より温かかった。

ランプの灯りは弱いまま。けれど“冷え”が薄れている。夜の間、誰かが火の加減を見ていたのだろうか。それとも——。

リィナは首を振り、余計な想像を追い払って中へ入った。

ベッドの上の当主は、昨日より顔色が少しだけ戻っている。
それでもまだ眠っている。睫毛が静かに影を落として、唇は乾いている。喉の動きが浅く、時折、胸が苦しげに上下する。

リィナは音を殺して近づき、額に手を当てた。

熱は、まだある。
けれど昨夜ほどではない。布で拭うと汗の量も減っている。

「……よかった」

思わず、声が漏れた。

その瞬間。

当主の睫毛が、ゆっくりと持ち上がった。

灰色の瞳が、薄い光を受けて開く。
寝起きで焦点が合っていないはずなのに、その視線は迷わずリィナを捉えた。

リィナは固まる。

(目が合った……!)

最悪だ。昨日の夜のことを覚えていたら。
手を握っていたこと。椅子に座ったまま眠りかけたこと。何より、「ここにいます」と言ってしまったこと。

喉がきゅっと締まって言葉が出ない。

当主は、しばらくリィナを見つめて——小さく息を吐いた。

「……来たのか」

低い声。掠れている。
それだけで胸が疼いた。

「はい。白湯と……お粥を」

リィナは慌てて盆を置き、杯を取り上げた。
昨日と同じように、彼の唇に当てる。ほんの少し。喉が鳴る。

「……うまい」

聞き間違いかと思った。
白湯に、うまいも何もない。

「え……?」

「ぬるい。……ちょうどいい」

当主はそう言って、もう一口飲んだ。
それから、目を閉じる。疲れているのに、眉間が少し緩んでいる。

リィナは、胸の奥がじわっと温かくなるのを感じた。
褒められるのに慣れていない。自分の仕事が、当主の“良い”に触れたのが、嬉しい。

それが、看病の落とし穴だと知らない。

「薬を……」

リィナが薬包紙を開こうとすると、当主がわずかに首を振った。

「先に、話せ」

「……はい?」

「昨日」

当主は言葉を探すように、少しだけ間を置いた。

「……お前の声が、した」

お前。
呼び方が変わったことに、リィナは気づかないふりをしたくなる。

「咳で……お辛かったでしょうか」

当主は目を開け、リィナの顔をまっすぐ見た。
その瞳の色は冷たいのに、視線の温度が妙に近い。

「……違う」

掠れた声が、昨日の熱を引きずっている。

「“ここにいます”と」

リィナの心臓が跳ねた。

覚えている。
当主は、覚えている。

「……申し訳ございません。勝手に……」

「謝るな」

当主は短く言い切った。
そして、枕元のシーツを握る指に力を入れ、少しだけ上体を起こそうとする。リィナが慌てて支えようと近づいた瞬間——

当主の手が、リィナの手首に触れた。

昨日のように乱暴に掴むのではなく、確かめるように、軽く。
しかし、その指の置き方が、逃げ道を塞ぐ位置だった。

「……帰るな」

言われて、リィナは一瞬、意味が分からなかった。

「え……?」

「……いや」

当主は目を伏せ、短く咳をした。

「必要なことだけして、帰ればいい。……そう思っていた」

それは、当主としての理性の言葉だ。
けれど、その次に続いたのは、理性がすくい損ねた本音だった。

「だが、昨日……」

指先がほんの少しだけ強くなる。

「お前がいなくなったら、息が浅くなった」

リィナは、息を呑む。

そんなことを、当主が言ってはいけない。
そんなことを、使用人が聞いてはいけない。

けれど、言葉はすでに落ちてしまった。
落ちた言葉は、拾う手を選ばない。

「……アレクシス様。私は、仕事を——」

「仕事だ」

当主は被せるように言い、視線を上げた。

「だから命令する。……しばらく、ここへ来い」

命令。
その言葉に、リィナの心がほんの少しだけ安心してしまう。

“命令”なら、踏み込みすぎていない。
“命令”なら、心が揺れても言い訳ができる。

リィナは小さく頷いた。

「承知しました。では、薬を」

薬を飲ませ、粥を少しだけ食べさせる。
スプーンを口元に運ぶたび、当主の視線が揺らがない。食べるより先に、こちらを見ているような気がして、リィナは居心地の悪さをごまかすために動作を丁寧にした。

食べ終わると、当主は疲れたように目を閉じた。

「……休まれますか」

「……ああ」

リィナは布団を整え、灯りを少し落とす。
ここまでが今日の仕事。これ以上は滞在しすぎだ。侍女長にも報告が必要だ。

そう思って踵を返した時。

「リィナ」

名を呼ばれた。

初めてだった。
当主の口から、自分の名前が落ちたのは。

リィナは振り返る。
当主は目を閉じたまま、短く言った。

「……昨日の手」

リィナの指先が、また熱を思い出す。

「……離したのは、いつだ」

問いが、妙に具体的すぎて息が止まる。
眠っていたはずなのに。熱に浮かされていたはずなのに。彼は“どれくらい”握っていたかを気にしている。

リィナは喉を鳴らし、視線を落とした。

「……気づいた時には、朝でした」

当主の唇が、ほんの少しだけ上がった。

笑みというより、満足の気配。
それが恐ろしくて、リィナは慌てて頭を下げた。

「では、失礼いたします。午後にまた様子を——」

「……ああ」

返事は簡単だった。
けれど、リィナが扉へ向かう背中に、当主の声が追いかけてくる。

「灯りは、そのままでいい」

リィナは立ち止まる。

「……はい」

「お前が整えたものは、動かすな」

——その言葉が、看病のためなのか。
それとも、“彼女の痕跡”を残すためなのか。

リィナには、まだ分からない。

ただ、部屋を出て扉を閉めた瞬間、胸の奥で小さな何かが確定した。

彼は回復していく。
その回復の中心に、自分が置かれ始めている。

それが怖いのに——
どこか、嬉しい。

リィナは廊下を歩きながら、指先の跡をそっと撫でた。

そして知らない。

その日から当主は、眠る前に必ずランプを見るようになったことを。
——そこに、彼女の“来る理由”が灯っているから。
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