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5:捕獲の入口
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夜明け前。
屋敷がいちばん静かになる時間に、リィナはふと、自分の呼吸の音で目を覚ました。
……眠っていた。椅子の上で、背中を丸めたまま、短い眠りに落ちていたらしい。
手は——まだ、握られている。
当主の指は熱い。
昨日ほど強くはないが、確かに“そこにある”と分かる圧だ。
(……鍵)
扉の方へ視線をやる。
薄闇の中、鍵穴が小さく光って見える。
“きちんと掛けられた”——執事の言葉が胸に刺さる。
閉じ込められた、というほど乱暴ではない。
でも、帰り道が“整えられていない”のは確かだった。
リィナは唇を噛み、ゆっくり息を吐いた。
(朝になれば誰かが来る。……その時に説明すればいい)
職務上妥当。
その言葉だけを胸に抱える。
当主は眠っている。
リィナは手をそっと抜こうとした。少しずつ、少しずつ。指と指の間から、逃げるように。
——抜けない。
当主の指が、反射のように締まった。
「……っ」
痛みはない。
ただ、“行くな”という意思だけがある。
リィナは震える息で囁いた。
「アレクシス様……眠っているのに、ずるいです」
返事はない。
けれど、握る力がわずかに緩んだ。
その隙にリィナは、今度こそ丁寧に指を滑らせた。
指先が離れた瞬間、ひどく冷たく感じて、胸がきゅっと縮む。
(……何で、寂しいの)
自分で自分が怖い。
リィナは手を握りしめ、立ち上がった。
まず、当主の額に手を当てる。
熱は少し下がっている。呼吸も安定している。咳も少ない。
次に、ランプの油を確認する。まだ持つ。
カーテンは開けすぎない。朝の光が強いと目が疲れる。
やるべきことを、無心で並べる。
そうしないと、“昨日のこと”が心を引き裂くから。
扉へ向かい、鍵に手を伸ばした。
鍵は内側から外せる。
執事が閉めたなら、外せないようにすることもできたはずだ。
それでも外せるようにしたのは——。
(……私が、逃げられるように?)
そんな優しさがあるなら、最初から閉めない。
思考がぐちゃぐちゃになる。
リィナは鍵を回した。
カチリ、と小さな音。
扉を開けると、廊下の冷えた空気が頬を撫でた。自由の空気。
(帰ろう)
そう思って一歩踏み出した瞬間。
背後から、低い声がした。
「……どこへ行く」
リィナは凍った。
振り返ると、当主が起きていた。
上体を起こしているわけではない。枕の上に顔を沈めたまま、こちらを見ている。瞳だけが鋭く、夜の残り香を宿していた。
「……お目覚めでしたか」
平静を装う声が、うまく出ない。
「出ていく音がした」
当主は掠れた声で言った。
「……帰るのか」
問いは短い。
けれど、言葉の底に、抑えた苛立ちがある。
リィナは扉の取っ手を握ったまま、答える。
「私は使用人です。持ち場に戻らないと——」
「持ち場?」
当主の眉がわずかに動く。
「ここだ」
リィナは言葉を失った。
「……そんな」
「医師は“一人にしない”と言った。……なら、お前はここにいるべきだ」
理屈だ。
理屈の形をした、執着。
リィナは震える息で言う。
「皆さまもおります。侍女長も、執事も。私でなくても——」
「違う」
当主は即座に否定した。
声が少し強くなり、すぐに咳が出る。リィナは反射的に戻り、杯の白湯を取りに行こうとした。
その腕が、止められた。
当主の手が、リィナの手首を掴む。
昨日より確かに力がある。回復している証拠。
「……違う」
当主はもう一度言う。
咳を堪え、息を整え、リィナをまっすぐ見る。
「お前がいないと、眠れない」
リィナの胸が跳ねる。
それを、言われるのが怖い。
嬉しいのがもっと怖い。
「……それは、気のせいです。病のせいで——」
「病のせいなら、治ったら終わるのか」
当主の声が、妙に静かになる。
「治ったら、お前は来ないのか」
リィナは答えられない。
当主は、リィナの手首を掴んだまま、少しだけ体を起こした。
目が合う距離が近くなる。
「リィナ」
名前を呼ばれるたび、呼吸が乱れる。
看病する側なのに。
当主は低く、まるで契約を結ぶように言った。
「……こうしよう」
リィナは息を呑む。
「お前がここにいる理由が欲しいのだろう。……なら、作る」
——また、理由の設計。
当主は続けた。
「看病が終わったら、今度は“俺が”お前を看病する」
リィナは目を見開いた。
「……はい?」
当主の口元が、ほんの少しだけ上がる。
初めて見る、悪い笑みだった。
「お前は、倒れるまで働く。……それを、俺は見たくない」
言い方が、優しいのに、逃げ道がない。
「だから、お前の勤務を俺が管理する。睡眠も食事も、灯りも。……全部、整える」
——彼女が彼にしたように。
リィナは思わず首を振った。
「そんなこと、許されません。私は使用人で——」
「俺は当主だ」
当主の声が、淡々と落ちる。
「許す」
リィナの喉が震える。
許す、で済むものじゃない。
けれど、当主の世界では、それが“済む”。
当主は掴んだ手首を離さないまま、最後に、静かに付け足した。
「……それが嫌なら」
リィナは息を止めた。
「今夜も、来い。……俺が眠るまで、ここにいろ」
選択肢に見せかけた、囲い込み。
拒否すれば、“当主が彼女を看病する”という名の介入が始まる。
受け入れれば、“毎晩ここにいる”が習慣になる。
リィナは立ち尽くした。
扉は開いている。廊下の空気もある。
なのに、足が動かない。
当主は、弱った声で、でも確かに言う。
「……責任を取れ、とは言わない」
リィナの心臓が跳ねた。
当主は、目を伏せて言い直す。
「……今はまだ」
“今はまだ”。
その含みが怖い。
リィナは白湯を取り、当主に飲ませた。
手首は解放された。
けれど、代わりに、見えない糸が指先に絡みついた気がした。
飲み終わった当主が目を閉じ、短く言う。
「決めろ。……今夜、来るか」
リィナは杯を持ったまま、言葉を失った。
看病しに来たはずなのに。
いつの間にか、選ばされている。
——捕獲の入口で。
屋敷がいちばん静かになる時間に、リィナはふと、自分の呼吸の音で目を覚ました。
……眠っていた。椅子の上で、背中を丸めたまま、短い眠りに落ちていたらしい。
手は——まだ、握られている。
当主の指は熱い。
昨日ほど強くはないが、確かに“そこにある”と分かる圧だ。
(……鍵)
扉の方へ視線をやる。
薄闇の中、鍵穴が小さく光って見える。
“きちんと掛けられた”——執事の言葉が胸に刺さる。
閉じ込められた、というほど乱暴ではない。
でも、帰り道が“整えられていない”のは確かだった。
リィナは唇を噛み、ゆっくり息を吐いた。
(朝になれば誰かが来る。……その時に説明すればいい)
職務上妥当。
その言葉だけを胸に抱える。
当主は眠っている。
リィナは手をそっと抜こうとした。少しずつ、少しずつ。指と指の間から、逃げるように。
——抜けない。
当主の指が、反射のように締まった。
「……っ」
痛みはない。
ただ、“行くな”という意思だけがある。
リィナは震える息で囁いた。
「アレクシス様……眠っているのに、ずるいです」
返事はない。
けれど、握る力がわずかに緩んだ。
その隙にリィナは、今度こそ丁寧に指を滑らせた。
指先が離れた瞬間、ひどく冷たく感じて、胸がきゅっと縮む。
(……何で、寂しいの)
自分で自分が怖い。
リィナは手を握りしめ、立ち上がった。
まず、当主の額に手を当てる。
熱は少し下がっている。呼吸も安定している。咳も少ない。
次に、ランプの油を確認する。まだ持つ。
カーテンは開けすぎない。朝の光が強いと目が疲れる。
やるべきことを、無心で並べる。
そうしないと、“昨日のこと”が心を引き裂くから。
扉へ向かい、鍵に手を伸ばした。
鍵は内側から外せる。
執事が閉めたなら、外せないようにすることもできたはずだ。
それでも外せるようにしたのは——。
(……私が、逃げられるように?)
そんな優しさがあるなら、最初から閉めない。
思考がぐちゃぐちゃになる。
リィナは鍵を回した。
カチリ、と小さな音。
扉を開けると、廊下の冷えた空気が頬を撫でた。自由の空気。
(帰ろう)
そう思って一歩踏み出した瞬間。
背後から、低い声がした。
「……どこへ行く」
リィナは凍った。
振り返ると、当主が起きていた。
上体を起こしているわけではない。枕の上に顔を沈めたまま、こちらを見ている。瞳だけが鋭く、夜の残り香を宿していた。
「……お目覚めでしたか」
平静を装う声が、うまく出ない。
「出ていく音がした」
当主は掠れた声で言った。
「……帰るのか」
問いは短い。
けれど、言葉の底に、抑えた苛立ちがある。
リィナは扉の取っ手を握ったまま、答える。
「私は使用人です。持ち場に戻らないと——」
「持ち場?」
当主の眉がわずかに動く。
「ここだ」
リィナは言葉を失った。
「……そんな」
「医師は“一人にしない”と言った。……なら、お前はここにいるべきだ」
理屈だ。
理屈の形をした、執着。
リィナは震える息で言う。
「皆さまもおります。侍女長も、執事も。私でなくても——」
「違う」
当主は即座に否定した。
声が少し強くなり、すぐに咳が出る。リィナは反射的に戻り、杯の白湯を取りに行こうとした。
その腕が、止められた。
当主の手が、リィナの手首を掴む。
昨日より確かに力がある。回復している証拠。
「……違う」
当主はもう一度言う。
咳を堪え、息を整え、リィナをまっすぐ見る。
「お前がいないと、眠れない」
リィナの胸が跳ねる。
それを、言われるのが怖い。
嬉しいのがもっと怖い。
「……それは、気のせいです。病のせいで——」
「病のせいなら、治ったら終わるのか」
当主の声が、妙に静かになる。
「治ったら、お前は来ないのか」
リィナは答えられない。
当主は、リィナの手首を掴んだまま、少しだけ体を起こした。
目が合う距離が近くなる。
「リィナ」
名前を呼ばれるたび、呼吸が乱れる。
看病する側なのに。
当主は低く、まるで契約を結ぶように言った。
「……こうしよう」
リィナは息を呑む。
「お前がここにいる理由が欲しいのだろう。……なら、作る」
——また、理由の設計。
当主は続けた。
「看病が終わったら、今度は“俺が”お前を看病する」
リィナは目を見開いた。
「……はい?」
当主の口元が、ほんの少しだけ上がる。
初めて見る、悪い笑みだった。
「お前は、倒れるまで働く。……それを、俺は見たくない」
言い方が、優しいのに、逃げ道がない。
「だから、お前の勤務を俺が管理する。睡眠も食事も、灯りも。……全部、整える」
——彼女が彼にしたように。
リィナは思わず首を振った。
「そんなこと、許されません。私は使用人で——」
「俺は当主だ」
当主の声が、淡々と落ちる。
「許す」
リィナの喉が震える。
許す、で済むものじゃない。
けれど、当主の世界では、それが“済む”。
当主は掴んだ手首を離さないまま、最後に、静かに付け足した。
「……それが嫌なら」
リィナは息を止めた。
「今夜も、来い。……俺が眠るまで、ここにいろ」
選択肢に見せかけた、囲い込み。
拒否すれば、“当主が彼女を看病する”という名の介入が始まる。
受け入れれば、“毎晩ここにいる”が習慣になる。
リィナは立ち尽くした。
扉は開いている。廊下の空気もある。
なのに、足が動かない。
当主は、弱った声で、でも確かに言う。
「……責任を取れ、とは言わない」
リィナの心臓が跳ねた。
当主は、目を伏せて言い直す。
「……今はまだ」
“今はまだ”。
その含みが怖い。
リィナは白湯を取り、当主に飲ませた。
手首は解放された。
けれど、代わりに、見えない糸が指先に絡みついた気がした。
飲み終わった当主が目を閉じ、短く言う。
「決めろ。……今夜、来るか」
リィナは杯を持ったまま、言葉を失った。
看病しに来たはずなのに。
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——捕獲の入口で。
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