看病しに行ったら、当主の“眠り”になってしまった

星乃和花

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9:お願い

夜。

リィナは約束通り、当主の寝室へ向かった。
盆の上には白湯と、薄いスープ。薬包紙は今日は少なめ——医師が「もう熱は引く」と言ったからだ。

廊下の灯りは落とされ、屋敷は静かに眠りに向かっている。
その静けさの中で、リィナの足音だけがやけに大きく感じた。

(お願いだ)

昼に言われた言葉が、耳の奥で鳴る。

命令ではない。
計画書でもない。
けれど、お願いの形をした執着は、命令より逃げにくい。

寝室の前で立ち止まり、深呼吸をひとつ。

ノックは二回。

「……入れ」

声が返ってくる。
昼より落ち着いた声。熱の掠れが少ない。

扉を開けると、部屋の中は整っていた。
ランプはまだ消えている。カーテンは少しだけ開き、夜の気配が薄く入り込む。

当主はベッドに腰掛けていた。
上体が起こせる。顔色も戻っている。回復しているのが分かる。

それなのに。

彼の目は、まだ“弱さ”を抱えていた。
眠れない、という弱さを。

「来たか」

言い方が、少しだけ優しい。
昼の“合理”の声とは違う。

「はい。……約束ですから」

リィナは盆を置き、白湯を差し出した。
当主は受け取り、少し口をつける。

「……ちょうどいい」

まただ。
温度を褒める。リィナは目を伏せ、心の中でため息をついた。

(覚えさせないでください……)

当主は白湯を飲み終え、杯を置いた。
それから、ふっと視線を落とす。

「……条件の紙」

リィナの胸が跳ねる。

「守れるか」と言われるだろうか。
守れないと言われたら、何も変わらない。

当主は静かに続けた。

「鍵は閉めない。……執事にそう言ってある」

リィナは息を呑む。
言った。執事に。

「手を掴むのは禁止——」

当主はそこまで言って、口を閉じた。
自分の手を見つめ、ほんの少しだけ眉を寄せる。

「……難しい」

リィナは目を見開いた。

「難しい、ですか」

当主は淡々と頷く。

「俺は、あれを“癖”にし始めている」

ひどい。
正直すぎる。

リィナは、笑っていいのか分からなくて唇を噛んだ。
当主は真顔のまま続ける。

「だから、代わりに——言う」

リィナの心臓が跳ねた。

「掴みたい」

短い告白。
その言葉が、耳に触れた瞬間、リィナの頬が熱くなる。

当主は、リィナを見た。

「掴みたい。……触れたい」

それだけ言って、目を伏せる。
言った本人がいちばん困っている顔だ。

リィナは息を吸って吐いた。

条件の紙には「どうしてもなら、言葉で言う」と書いた。
今、彼はそれを守っている。

守っている。
努力している。

リィナは震える指を膝の上で握りしめ、言った。

「……いいですよ。少しだけ」

言ってしまった。

当主の目が、ゆっくり上がる。
驚きと、安堵と、抑えた欲が混ざった目。

彼は、ゆっくり手を伸ばした。
掴まない。
“置く”ように、リィナの手の上に指先を重ねる。

熱が移る。
その瞬間、当主の呼吸がふっと深くなる。

——本当に、眠るためなんだ。
リィナはそう思って、胸がきゅっと痛んだ。

当主は目を閉じた。
握らない。
ただ、触れているだけ。

「……こうしていると、落ち着く」

小さな声。

リィナは声を出せずに頷いた。
触れ合う指の間に、言葉にならないものが溜まる。

しばらくして、当主がぽつりと言った。

「お前は、眠れるか」

唐突だった。
でも、たぶん——今日の昼の後悔の延長だ。

「私は……眠れます」

そう言うと、当主の指先がほんの少しだけ動いた。
ぎゅっと握りそうになって、止まる。

努力している。

「……眠れないなら、言え」

「はい」

「……俺が、お前の灯りを整える」

その言い方が、支配ではなく祈りに近い。
リィナは胸が締めつけられた。

(この人は、怖い。けれど……)

怖いのは、彼の力だけじゃない。
彼の弱さが、こちらの優しさを引き出してしまうこと。

当主は目を閉じたまま、低く言った。

「話せ」

「短く、ですか」

「短く」

リィナは迷い、そして小さく話し始めた。
台所で煮物をしていると落ち着くこと。
火の揺れを見ていると、余計なことを考えなくて済むこと。
幼い頃、母が鍋を見守る背中が好きだったこと。

当主は何も言わない。
けれど、呼吸が少しずつ深くなる。

そして、ふと。

「……お前の母は」

当主が、珍しく質問を挟んだ。

リィナは驚きながらも答えた。

「早くに亡くなりました」

当主の指先が、ぴくりと動く。

「……そうか」

それだけ。
それなのに、部屋の空気が少しだけ重くなる。
当主もまた、何かを失っている人なのだと感じた。

リィナは言葉を選び、静かに言った。

「だから……誰かの生活を整えるのが、好きなのかもしれません。灯りとか、温度とか……」

言ってから、自分で苦しくなる。

(それが、捕獲ポイントなんだ)

お世話=情を育てて捕まえる。
自分で自分を捕まえに行っている。

当主は、眠りに落ちる寸前の声で囁いた。

「……俺の生活も、整えろ」

リィナは息を止めた。

命令ではない。
お願いでもない。
“呟き”に近い。

でも、胸に落ちる。

リィナは小さく答えた。

「……今は、看病です」

言い訳。
互いの言い訳。

当主の口元が、微かに動いた。

「……それでいい」

その声が、もう眠りの底に沈みかけている。

リィナは、当主の瞼が完全に落ちるのを待った。
呼吸が安定し、手の重みが少しだけ軽くなる。

(眠った)

条件は「眠ったら帰る」。
鍵は閉めない。
手は掴まない。——今日は守れた。

リィナはそっと指を抜いた。
今夜は、すんなり離れた。

寂しさが来る前に立ち上がる。
盆を持ち、扉へ向かう。

その背中に、眠ったはずの当主の声が追いかけてきた。

「……明日も」

リィナは立ち止まった。
振り返らない。振り返ったら、戻ってしまう。

当主の声は、夢の中の声みたいに掠れている。

「……来て」

お願いだ。
命令じゃない。

リィナは唇を噛み、震える声で、背中のまま答えた。

「……考えます」

嘘だ。
もう、答えは半分決まっている。

扉を閉める。

廊下の冷たい空気が頬を撫でた。
それでも、手の上の熱が消えない。

——捕獲は、静かに進んでいる。
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