看病しに行ったら、当主の“眠り”になってしまった

星乃和花

文字の大きさ
12 / 36

12:休み

朝。

リィナは、柔らかい沈黙で目を覚ました。
屋敷の朝は本来、もっと音がある。廊下の足音、台所の火の音、遠くの食器の触れ合い。けれどこの部屋は、音の層が薄い。

その薄さが、当主の息の音を際立たせていた。

(……寝てた)

自分が、ここで。
当主の寝室で。

昨夜の“今夜だけ”という条件は守られたのか、守られなかったのか。
リィナは慌てて自分の手を見る。

——握られていない。
指先に熱も跡もない。

ほっとするのに、胸の奥がほんの少しだけ寂しくて、リィナは眉を寄せた。

(何で寂しいの)

自分の心が分からない。

身体を起こすと、簡易寝具の端が少しだけ乱れていた。
けれどベッドには上がっていない。記憶もない。

条件は守っている。
“手だけ”。
鍵は閉めない。

リィナはそっと扉へ視線を向けた。
鍵は確かに、掛かっていない。

(……帰れる)

帰れる。
その言葉が、なぜか苦い。

その時、ベッドの方から布の擦れる音がした。
当主が寝返りを打つ。
まぶたがゆっくり開き、灰色の瞳がこちらを捉える。

眠そうな目。
けれど、焦点が合うのが早い。

「……起きたのか」

声はまだ寝起きで低い。
いつもの冷静さが薄く、昨日より柔らかい。

「はい。……失礼しました。私、眠ってしまって」

言い訳のように言うと、当主は目を細めた。

「眠れたのか」

「……はい」

「よかった」

その言葉が、妙に優しい。
リィナの胸がきゅっとなる。

当主は上体を起こし、枕を背にして座った。
咳はない。顔色も良い。回復している。

それなのに、視線が離れない。

「……冷えなかった」

昨夜の寝言を、当主は覚えているのだろうか。
それとも、今、感じているのだろうか。

リィナは視線を落とした。

「それは……よかったです」

当主は少しだけ沈黙し、それから淡々と告げた。

「今夜も、泊まれ」

リィナは顔を上げた。

「……条件は“今夜だけ”です」

当主は頷く。

「だから更新する」

更新。
言葉が戻ってきた。
回復すると、理性が戻る。設計が上手くなる。

リィナは布を握りしめた。

「……私、今日は休みます。約束です」

「休め」

当主はすぐ頷いた。
その素直さが逆に怖い。

「休んで——」

当主は一拍置き、目を伏せる。

「今夜、来い」

お願いの形ではない。
しかし命令の形でもない。
“当然”の顔をした執着。

リィナは息を吸って吐いた。

「……今日だけ休んで、明日からまた……」

言いかけて止めた。
“明日からまた”と言うのは、次を約束することだ。

当主は、その止まり方を見逃さない。

「明日からまた、何だ」

リィナは言葉を飲み込む。

当主は、ふっと息を吐いた。

「……リィナ。お前は、俺が怖いと言ったな」

「はい」

当主は目を上げる。
真剣な目。

「俺も、お前が怖い」

リィナは息を呑んだ。

「……私が?」

「お前がいないと冷える。お前がいると眠れる。……それが当たり前になるのが怖い」

当主の声は静かだ。
理屈ではなく、感情だ。

「当たり前になったら、お前が“ただの使用人”のままではいられない」

リィナの胸が跳ねる。

「それは……」

何と言えばいい。
否定すれば、彼の弱さを否定する。
肯定すれば、戻れない。

当主は、ゆっくりと言葉を重ねた。

「だから——泊まれ、ではなく」

一瞬、言い淀む。

「……ここにいてほしい」

お願い。
今までのお願いより、もっと危ういお願い。

リィナは喉が震えた。

「……私は、休みます。今日は」

逃げではない。約束だ。
自分を守る枠だ。

当主は、頷いた。

「わかった」

それだけで終わるかと思った。
しかし、当主は続けた。

「だが、休む場所は——ここにしろ」

リィナは凍った。

「……はい?」

当主は淡々と告げる。

「お前が休む日だ。なら、お前を休ませるのは俺の役目だ」

また“守る”が出た。
相談する、と約束したのに。

リィナは震える声で言った。

「……それは、決めないでください」

当主の目が、一瞬だけ揺れる。
そして、静かに息を吐いた。

「……すまない」

謝る。
努力している。

当主は机の引き出しから紙を出した。
今度は計画書ではなく、短い箇条書き。

「提案だ」

提案。
相談の形。

・今日は“休み”として、昼食と夕食をここで取る
・夕方までは自由(読書・散歩・昼寝)
・夜は帰っていい(泊まりは要求しない)
・ただし、帰る前に“おやすみ”は言っていけ

最後の一行が、やけに可愛い。
ずるい。

リィナは紙を見つめ、苦笑しそうになるのを堪えた。

「……当主の部屋で、私が散歩……?」

「庭は広い」

当主は真顔で言う。

「迷子になるな。……いや、なるなら、執事を付ける」

リィナは思わず小さく笑ってしまった。
それを聞いた当主の目がわずかに緩む。

空気が少しだけほどけた。

リィナは息を整え、頷いた。

「……分かりました。今日は、その提案で」

当主の視線が少しだけ柔らかくなる。

「よし」

よし、って。
褒められているみたいで変だ。

当主は不意に言った。

「……お前の休み方を、俺は知らない」

リィナの胸がきゅっとなる。

「だから、今日、覚える」

覚える。
彼が、彼女の生活を。

リィナは怖いのに、どこか安心してしまう自分を叱りたくなった。

——その日。

リィナは当主の部屋で、初めて“休んだ”。

窓辺の椅子に座り、本を読んだ。
当主は少し離れた机で、書類を少しだけ片付ける。量は減っている。執事が監視しているのだろう。

昼食は二人で取った。
会話は短く。けれど、沈黙が苦しくない。

夕方、庭を歩いた。
当主は一緒には来ない。代わりに執事が付く。
それが、彼なりの“相談の形”だった。

そして夜。

リィナは帰る準備をした。
今日は泊まらない。枠を守る。

扉の前で振り返ると、当主がこちらを見ていた。
目が、少しだけ不安そうだ。

リィナは胸が痛んで、それでも条件を守るために、小さく言った。

「……おやすみなさい。アレクシス様」

当主の眉がふっとほどける。

「……おやすみ」

返ってきた言葉が、初めてだった。

リィナは驚いて目を見開いた。

当主は目を逸らし、少しだけ咳払いをした。

「……礼だ」

礼。
でも、たぶん——それだけじゃない。

リィナは扉を閉め、廊下へ出た。

冷たい空気。
なのに、胸の中は温かい。

捕獲は進んでいる。
でも今日は、檻ではなく——同じ部屋で休んだ日だった。

そして、リィナは知らない。

当主が“眠るため”ではなく、
“起きている時間”まで彼女を欲しがり始めていることを。
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】無口な旦那様は妻が可愛くて仕方ない

ベル
恋愛
旦那様とは政略結婚。 公爵家の次期当主であった旦那様と、領地の経営が悪化し、没落寸前の伯爵令嬢だった私。 旦那様と結婚したおかげで私の家は安定し、今では昔よりも裕福な暮らしができるようになりました。 そんな私は旦那様に感謝しています。 無口で何を考えているか分かりにくい方ですが、とてもお優しい方なのです。 そんな二人の日常を書いてみました。 お読みいただき本当にありがとうございますm(_ _)m 無事完結しました!

側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません!

花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」 婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。 追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。 しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。 夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。 けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。 「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」 フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。 しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!? 「離縁する気か?  許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」 凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。 孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!

【完結】モブのメイドが腹黒公爵様に捕まりました

ベル
恋愛
皆さまお久しぶりです。メイドAです。 名前をつけられもしなかった私が主人公になるなんて誰が思ったでしょうか。 ええ。私は今非常に困惑しております。 私はザーグ公爵家に仕えるメイド。そして奥様のソフィア様のもと、楽しく時に生温かい微笑みを浮かべながら日々仕事に励んでおり、平和な生活を送らせていただいておりました。 ...あの腹黒が現れるまでは。 『無口な旦那様は妻が可愛くて仕方ない』のサイドストーリーです。 個人的に好きだった二人を今回は主役にしてみました。

【完結】冷徹執事は、つれない侍女を溺愛し続ける。

たまこ
恋愛
 公爵の専属執事ハロルドは、美しい容姿に関わらず氷のように冷徹であり、多くの女性に思いを寄せられる。しかし、公爵の娘の侍女ソフィアだけは、ハロルドに見向きもしない。  ある日、ハロルドはソフィアの真っ直ぐすぎる内面に気付き、恋に落ちる。それからハロルドは、毎日ソフィアを口説き続けるが、ソフィアは靡いてくれないまま、五年の月日が経っていた。 ※『王子妃候補をクビになった公爵令嬢は、拗らせた初恋の思い出だけで生きていく。』のスピンオフ作品ですが、こちらだけでも楽しめるようになっております。

冷酷騎士様の「愛さない」は一分も持たなかった件

良綏
恋愛
「君を愛するつもりはない」 結婚初夜、帝国最強の冷酷騎士ヴォルフラム・ツヴァルト公爵はそう言い放った。 出来損ないと蔑まれ、姉の代わりの生贄として政略結婚に差し出されたリーリア・ミラベルにとって、それはむしろ救いだった。 愛を期待されないのなら、失望させることもない。 契約妻として静かに役目を果たそうとしたリーリアは、緩んだ軍服のボタンを自らの銀髪と微弱な強化魔法で直す。 ただ「役に立ちたい」という一心だった。 ――その瞬間。 冷酷騎士の情緒が崩壊した。 「君は、自分の価値を分かっていない」 開始一分で愛さない宣言は撤回。 無自覚に自己評価が低い妻に、激重独占欲を発症した最強騎士が爆誕する。 以後、 寝室は強制統合 常時抱っこ移動 一秒ごとに更新される溺愛 妻を傷つける者には容赦なし宣言 甘さ過多、独占欲過剰、愛情暴走中。 さらにはリーリアを取り戻そうとする実家の横槍まで入り――? 自己評価ゼロの健気令嬢と愛が一分も我慢できなかった最強騎士。 溺愛が止まらない、契約結婚から始まる甘すぎる逆転ラブコメ

「氷の公爵子息は、平凡令嬢を手放さない」

白瀬しおん
恋愛
ただぶつかっただけのはずだった。 なのに気づけば、氷の公爵子息は隣に座り、手を取り、名前を呼ぶ。 そして—— 「逃げてもいい。でも、逃げ切れない」 平凡令嬢を静かに囲い込む、逃げ場なしの溺愛。 最後に待つのは、拒否権のない婚約だった。 ※初投稿のため、至らない点があるかもしれませんが、温かく見守っていただけると嬉しいです。

【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件

三谷朱花*Q−73@文フリ東京5/4
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。 ※アルファポリスのみの公開です。

生贄として捧げられた「忌み子」の私、あやかし皇帝の薬膳料理番になります ~呪いで拒食症の白虎陛下は、私のおかゆに胃袋を掴まれたようです~

腐ったバナナ
恋愛
実家の「一条家」で霊力なしの忌み子として虐げられてきた凛。生贄としてあやかしの国・天厳国へ捧げられた彼女を待っていたのは、呪いによって食事がすべて「泥の味」に変わる孤独な白虎皇帝・白曜だった。 死を覚悟した凛だったが、前世で培った「管理栄養士」の知識は、あやかしの国では伝説の「浄化の力」として目醒める! 最高級の出汁、完璧な栄養バランス、そして食べる者を想う真心。凛が作る一杯の「黄金の粥」が、数年間不食だった王の味覚を劇的に呼び起こした。 「美味い。……泥ではない味がする」 胃袋を掴まれた皇帝の態度は一変。冷酷な暴君から、凛を誰にも触れさせたくない「超絶過保護な独占欲の塊」へと豹変してしまい……!? 嫌がらせをする後宮の妃や、手の平を返して擦り寄る実家を「料理」と「陛下からの愛」で一掃する、美味しくて爽快な異世界中華風ファンタジー。