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15:勝手に欲しがる
扉の前で、リィナは一度だけ深呼吸をした。
(短く、お茶だけ)
約束の枠。
週に二回まで。
迎えに行かない。
来ない日を責めない。
自分で作った扉だ。
自分で入って、自分で出る。
ノックは二回。
「……入れ」
返ってきた声は、いつもより少し低い。
疲れているのかもしれない。
それだけで胸が動く自分が、まだ怖い。
リィナは扉を開けた。
部屋の灯りは弱い。
ランプの位置は、もう完全に“リィナの位置”になっている。
当主は机に向かっていた。書類はあるが、山ではない。
それでも、肩の線が固い。
「……来たな」
顔を上げる当主の目が、ほんの少しだけ緩む。
その“緩み”が、彼の努力の証拠みたいで、リィナは息を飲んだ。
「お茶を淹れます。短く」
「分かっている」
当主は淡々と頷いた。
“次はいつだ”と聞かない。
約束を守っている。
リィナは盆を机に置き、湯を温める。
茶葉を計る。
湯の音が小さく鳴る。
その音が、この部屋の空気を少しだけ柔らかくする。
当主は黙ってそれを見ていた。
視線が熱い。
けれど、言葉は少ない。
カップに注ぐ。
香りが立つ。
「……いい匂いだ」
当主がぽつりと言う。
それだけで、胸がほどけそうになる。
「今日は、少し軽めにしました」
「お前の匙加減は、いつも正しい」
(またそれを言う……)
リィナは顔を伏せ、余計な熱を隠した。
カップを差し出すと、当主は受け取った。
指先が触れそうで、触れない。
彼は掴まない。
努力している。
一口。
当主の喉が動く。
「……休む」
短い宣言。
「はい」
リィナは自分の分も淹れ、椅子に座った。
向かい合う距離は、以前より少しだけ遠い。
枠の距離。
沈黙が落ちる。
でも、苦しくない。
当主がカップを置き、ふと視線を落とした。
「リィナ」
名前。
呼ばれるたび胸が跳ねるのに、跳ねることを許したくなる。
「……来ない日を、責めない」
唐突に言われて、リィナは目を瞬いた。
「はい……約束ですから」
当主は首を振った。
「約束だから、ではない」
言い方が静かで、妙に重い。
「俺が……お前の枠を守ると言ったからだ」
守る。
今度は“努力する”ではなく、言い切った。
リィナの喉が熱くなる。
「ありがとうございます」
小さく言うと、当主は視線を逸らした。
照れたのか、何かを堪えたのか分からない。
しばらくして、当主がぽつりと言った。
「……今日は、冷えた」
リィナの背中がひやりとする。
約束の二つ目。
来ない日を責めない。冷えると言わない。
リィナが身構えると、当主はすぐに続けた。
「いや。責めていない。……報告だ」
報告。
言葉を変えて、枠の外に出ようとする。
当主は自分でも気づいて、少しだけ眉を寄せた。
「……言わない、と約束したな」
自分で止めた。
努力している。
リィナは息を吐き、微笑みを作った。
「……いいです。今日は来ましたから」
当主の目が、少しだけ柔らかくなる。
「来た」
その二文字を、噛みしめるように言う。
沈黙。
茶の香り。
灯り。
リィナはカップを持ち上げ、ゆっくり飲んだ。
(この時間が……好きだ)
言葉にしない。
枠の中に留める。
当主が突然、低く言った。
「……触れたい」
リィナの頬が熱くなる。
枠の約束には、“手”の条件は書いていない。
看病の枠は終わった。
今は、“意思で来る枠”。
触れるのは、枠の中か外か。
曖昧だ。
リィナは息を吸い、慎重に言った。
「……当主が掴まないなら」
当主の目が一瞬揺れる。
嬉しさと、欲と、理性。
「掴まない」
言い切る。
リィナは手を差し出した。
当主の指先が、そっと重なる。
握らない。
触れるだけ。
それだけで、当主の肩の線が緩む。
息が落ちる。
「……休む」
また言う。
今度は、本当に。
リィナは胸が痛くなって、でも手を引かなかった。
引けば、冷える。
引かなければ、捕まる。
その間に、当主が低く言った。
「……お前が来るのは、俺の枠の中だ」
リィナは目を瞬いた。
「……はい?」
当主は淡々と続ける。
「俺は、お前の枠を守る。……だから、お前も、俺の枠を守れ」
リィナの背中が冷たくなる。
「あなたの枠……?」
当主は目を伏せる。
「俺が、お前を欲しがるのは許せ。……ただし、“迎えに行く”はしない」
リィナは息を呑んだ。
許せ。
許可を求められているのに、命令みたいだ。
当主は続けた。
「俺は、欲しがる。……それを止めろと言うな」
リィナは喉が震える。
「……私は、怖いです」
「分かっている」
「でも」
リィナは言葉を探す。
「でも、欲しがるのは……あなたの勝手です」
言った瞬間、当主の指先がわずかに動く。
掴みそうになって止まる。
「勝手に欲しがる。……お前が来ない日も、勝手に欲しがる」
当主は低く言った。
「ただ、それをお前にぶつけない」
——それが、彼の枠。
リィナは胸が痛くなる。
彼は、我慢する枠を自分に課している。
それを“守れ”と言っている。
リィナは小さく頷いた。
「……分かりました」
当主の呼吸が深くなる。
握らない指が、安心したみたいに落ち着く。
リィナは、時間を見た。
短く、と決めた。
「……そろそろ、戻ります」
当主の目が一瞬だけ鋭くなる。
でも、言わない。責めない。
ただ、低く言う。
「……おやすみは」
あ。
追加条件。
帰る前に一言。
リィナは立ち上がり、微かに笑って言った。
「おやすみなさい、アレクシス様」
当主の眉がふっとほどける。
「……おやすみ」
また返ってくる。
それが、嬉しいのが怖い。
リィナは扉を閉め、廊下へ出た。
冷たい空気。
でも、胸は温かい。
捕獲ではない。
そう言い聞かせる。
けれど、枠の中で触れ合った指先の熱が、いつまでも消えなかった。
(短く、お茶だけ)
約束の枠。
週に二回まで。
迎えに行かない。
来ない日を責めない。
自分で作った扉だ。
自分で入って、自分で出る。
ノックは二回。
「……入れ」
返ってきた声は、いつもより少し低い。
疲れているのかもしれない。
それだけで胸が動く自分が、まだ怖い。
リィナは扉を開けた。
部屋の灯りは弱い。
ランプの位置は、もう完全に“リィナの位置”になっている。
当主は机に向かっていた。書類はあるが、山ではない。
それでも、肩の線が固い。
「……来たな」
顔を上げる当主の目が、ほんの少しだけ緩む。
その“緩み”が、彼の努力の証拠みたいで、リィナは息を飲んだ。
「お茶を淹れます。短く」
「分かっている」
当主は淡々と頷いた。
“次はいつだ”と聞かない。
約束を守っている。
リィナは盆を机に置き、湯を温める。
茶葉を計る。
湯の音が小さく鳴る。
その音が、この部屋の空気を少しだけ柔らかくする。
当主は黙ってそれを見ていた。
視線が熱い。
けれど、言葉は少ない。
カップに注ぐ。
香りが立つ。
「……いい匂いだ」
当主がぽつりと言う。
それだけで、胸がほどけそうになる。
「今日は、少し軽めにしました」
「お前の匙加減は、いつも正しい」
(またそれを言う……)
リィナは顔を伏せ、余計な熱を隠した。
カップを差し出すと、当主は受け取った。
指先が触れそうで、触れない。
彼は掴まない。
努力している。
一口。
当主の喉が動く。
「……休む」
短い宣言。
「はい」
リィナは自分の分も淹れ、椅子に座った。
向かい合う距離は、以前より少しだけ遠い。
枠の距離。
沈黙が落ちる。
でも、苦しくない。
当主がカップを置き、ふと視線を落とした。
「リィナ」
名前。
呼ばれるたび胸が跳ねるのに、跳ねることを許したくなる。
「……来ない日を、責めない」
唐突に言われて、リィナは目を瞬いた。
「はい……約束ですから」
当主は首を振った。
「約束だから、ではない」
言い方が静かで、妙に重い。
「俺が……お前の枠を守ると言ったからだ」
守る。
今度は“努力する”ではなく、言い切った。
リィナの喉が熱くなる。
「ありがとうございます」
小さく言うと、当主は視線を逸らした。
照れたのか、何かを堪えたのか分からない。
しばらくして、当主がぽつりと言った。
「……今日は、冷えた」
リィナの背中がひやりとする。
約束の二つ目。
来ない日を責めない。冷えると言わない。
リィナが身構えると、当主はすぐに続けた。
「いや。責めていない。……報告だ」
報告。
言葉を変えて、枠の外に出ようとする。
当主は自分でも気づいて、少しだけ眉を寄せた。
「……言わない、と約束したな」
自分で止めた。
努力している。
リィナは息を吐き、微笑みを作った。
「……いいです。今日は来ましたから」
当主の目が、少しだけ柔らかくなる。
「来た」
その二文字を、噛みしめるように言う。
沈黙。
茶の香り。
灯り。
リィナはカップを持ち上げ、ゆっくり飲んだ。
(この時間が……好きだ)
言葉にしない。
枠の中に留める。
当主が突然、低く言った。
「……触れたい」
リィナの頬が熱くなる。
枠の約束には、“手”の条件は書いていない。
看病の枠は終わった。
今は、“意思で来る枠”。
触れるのは、枠の中か外か。
曖昧だ。
リィナは息を吸い、慎重に言った。
「……当主が掴まないなら」
当主の目が一瞬揺れる。
嬉しさと、欲と、理性。
「掴まない」
言い切る。
リィナは手を差し出した。
当主の指先が、そっと重なる。
握らない。
触れるだけ。
それだけで、当主の肩の線が緩む。
息が落ちる。
「……休む」
また言う。
今度は、本当に。
リィナは胸が痛くなって、でも手を引かなかった。
引けば、冷える。
引かなければ、捕まる。
その間に、当主が低く言った。
「……お前が来るのは、俺の枠の中だ」
リィナは目を瞬いた。
「……はい?」
当主は淡々と続ける。
「俺は、お前の枠を守る。……だから、お前も、俺の枠を守れ」
リィナの背中が冷たくなる。
「あなたの枠……?」
当主は目を伏せる。
「俺が、お前を欲しがるのは許せ。……ただし、“迎えに行く”はしない」
リィナは息を呑んだ。
許せ。
許可を求められているのに、命令みたいだ。
当主は続けた。
「俺は、欲しがる。……それを止めろと言うな」
リィナは喉が震える。
「……私は、怖いです」
「分かっている」
「でも」
リィナは言葉を探す。
「でも、欲しがるのは……あなたの勝手です」
言った瞬間、当主の指先がわずかに動く。
掴みそうになって止まる。
「勝手に欲しがる。……お前が来ない日も、勝手に欲しがる」
当主は低く言った。
「ただ、それをお前にぶつけない」
——それが、彼の枠。
リィナは胸が痛くなる。
彼は、我慢する枠を自分に課している。
それを“守れ”と言っている。
リィナは小さく頷いた。
「……分かりました」
当主の呼吸が深くなる。
握らない指が、安心したみたいに落ち着く。
リィナは、時間を見た。
短く、と決めた。
「……そろそろ、戻ります」
当主の目が一瞬だけ鋭くなる。
でも、言わない。責めない。
ただ、低く言う。
「……おやすみは」
あ。
追加条件。
帰る前に一言。
リィナは立ち上がり、微かに笑って言った。
「おやすみなさい、アレクシス様」
当主の眉がふっとほどける。
「……おやすみ」
また返ってくる。
それが、嬉しいのが怖い。
リィナは扉を閉め、廊下へ出た。
冷たい空気。
でも、胸は温かい。
捕獲ではない。
そう言い聞かせる。
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