看病しに行ったら、当主の“眠り”になってしまった

星乃和花

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29:痛み

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翌朝、リィナは目覚めた瞬間に胸の奥が痛んだ。

昨日の「抱きしめたい」が、まだ掌に残っている。
握られたわけじゃないのに、熱だけが残る。
掴まない努力の震えが、皮膚の内側に焼き付いている。

(怖い)

名前をつける。

(終わり)

そうして終わらせたはずなのに、終わらないものがある。

——理由。

社交の翌日だけ追加枠を使える。
それを作ったのは自分だ。
自分が鍵を持つための枠だ。

でも、最近、胸が勝手に数えてしまう。

(次の社交は、いつ)

来る“理由”が欲しくなる。
その欲が生まれた瞬間、枠は檻に変わる。

リィナは顔を洗い、髪を結び、台所へ向かった。
働いている間は、手が心を引っ張ってくれる。
包丁、鍋、布。
生活の音は、恋の音を薄める。

——台所。

侍女長は火を見ながら、いつも通りの顔をしていた。
でも、リィナが入ってきた瞬間、目が一度だけリィナの手を見た。

「……昨日」

短い。
察している。

リィナは頷いた。

「……言われました。抱きしめたいって」

侍女長の眉がほんの少しだけ動く。
驚きではない。想定の範囲。

「言ったのに、抱きしめなかった?」

「……はい。“奪わない”って」

侍女長は短く息を吐いた。

「偉いのは、どっちか分からないわね」

リィナは苦く笑った。

「……私も、嫌じゃないって言ってしまいました」

侍女長の目が鋭くなる。

「それは、危ない」

「分かってます。……だから怖いんです」

侍女長は頷いた。

「怖いなら、次の課題は“理由”よ」

理由。
昨日から胸に刺さっている言葉。

侍女長は言った。

「あなた、最近、社交の日を気にしてる」

リィナの手が止まった。

「……」

否定できない。

侍女長は淡々と続ける。

「社交があると、追加枠が使える。——それが“来る口実”になる」

リィナの喉が震えた。

「……口実に、したくない」

侍女長は即答する。

「でも、してしまう。人はそういうふうにできてる」

容赦がない。
でも、その容赦が必要だ。

侍女長は続ける。

「だから、工夫する。——社交情報を、あなたが持たないようにする」

リィナは目を瞬いた。

「持たない……?」

「聞かない。見ない。数えない」

侍女長は火を弱めながら言う。

「当主が社交に出るかどうかは、あなたの鍵じゃない。あなたの鍵は“会う続き方”よ」

会う続き方。
それは、枠。
社交は、ただの外の予定。

リィナは小さく頷いた。

「……どうやって聞かないように」

侍女長は即答した。

「執事に言う。“社交の予定は私に伝えないで”って」

胸が痛い。
執事に言うことは、当主にも伝わる。
当主が傷つくかもしれない。

侍女長はリィナの顔を見て、少しだけ声を落とした。

「傷つくわよ。——でも、それが枠」

リィナは唇を噛んだ。

「……当主が」

「当主も怖いの。あなたの“理由”になってしまうことが」

え?

リィナは目を見開いた。

侍女長は淡々と告げる。

「だから、あの人は“社交じゃない日は追加枠を使わない”って決めたのよ。理由にしないために」

執事が言った言葉が胸に落ちる。

——当主は、枠を“理由”にしないようにしている。

リィナは息を吸った。

(あの人も、怖い)

怖いのに、欲しがる。
欲しがるのに、奪わない。
抱きしめたいのに、手だけにする。

リィナは胸を押さえ、言った。

「……分かりました。執事に伝えます」



昼過ぎ。

リィナは執事を廊下の角で待った。
待つのは枠の外。
でも、これは“守るため”の待ちだ。必要な待ち。

執事が現れ、立ち止まった。

「リィナ」

リィナは深呼吸を一つして、言った。

「お願いがあります」

執事は頷く。

「……社交の予定を、私に伝えないでください」

執事の目が、ほんの少しだけ動いた。
驚きではない。理解の動き。

「理由ですか」

短い質問。
核心。

リィナは正直に言った。

「……追加枠が、来る口実になりそうで怖いんです」

執事は一拍置き、低く答えた。

「承知しました。——当主にも伝えます」

胸が痛んだ。
でも、言わなければ守れない。

リィナは続けた。

「それから、もう一つ。もし当主が社交の翌日に追加枠を使う時は……侍女長から私に言ってください」

執事が頷く。

「あなたが“知る”のは、枠の必要が確定した後。——よい設計です」

設計。
執事がその言葉を使うと、当主の癖が移っているみたいで苦笑してしまう。

執事は淡々と付け足した。

「当主は、あなたが社交情報を持たないことを……痛みとして受け取ります」

リィナは喉が震えた。

「……はい」

執事は静かに言った。

「しかし、その痛みは“奪わない”痛みです。——必要です」

必要。
当主がよく使う言葉。

リィナは小さく頷いた。

「……お願いします」

執事は頭を下げ、去っていった。



その夜。

リィナは自室で布団を整え、机の上の木箱を視界の端に置いた。
社交情報は持たない。
数えない。理由にしない。

でも胸は、痛む。

(当主、傷つくかな)

心に名前。

(罪悪感)

終わり。

——ふっと、灯りが点いた。

(点いた)

深呼吸。ひとつ。ふたつ。みっつ。

気持ちに名前。

……嬉しい。
……罪悪感。
……怖い。

一つだけ。

(罪悪感)

終わり。

灯りは揺れて、揺れて——落ち着かない。
まるで、こちらの罪悪感を否定するみたいに。

リィナは目を閉じた。

(終わり)

——そのとき、遠くの廊下で、足音が止まった気配がした。

来ない。
来ないはず。
枠で決めた。

リィナは扉を見ない。
見ない練習。
でも、耳が拾ってしまう。

微かな声が聞こえた。

執事の声。

「当主。——戻ってください」

当主の声が、低く響く。

「……言うだけだ」

執事が遮る。

「言えば、彼女は理由を背負います」

沈黙。

当主の呼吸が、少し荒い。

「……俺は、社交の予定を教えない、と聞いた」

執事が静かに答える。

「はい。リィナの願いです」

当主の声が、掠れた。

「……俺は、傷ついた」

正直すぎる。
その言葉が、扉を越えて胸に刺さる。

執事は、低く言った。

「傷ついてください。——奪わないために」

当主の沈黙。

そして、低い声。

「……分かった」

足音が遠ざかる。

——机の灯りが、ふっと落ち着いた。

まるで、外の音が消えたことに安心したように。

リィナは布団の中で震えながら、心に名前をつけた。

(痛い)

そして終わり。

枠は、優しい。
でも優しいほど、痛みもちゃんと残る。

その痛みが“理由”にならないように、
リィナは目を閉じて、眠りに落ちた。
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