看病しに行ったら、当主の“眠り”になってしまった

星乃和花

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32:外

その提案は、昼の終わりにやってきた。

執事が台所に現れ、いつものように淡々と言った。

「今夜、枠の更新が必要です」

リィナの手が一瞬止まる。

枠の更新。
つまり、当主が“言葉にしたい欲”を抱えている夜。
あるいは、“言葉にしないため”に形を変える夜。

侍女長が火を見ながら、こちらを見ずに言った。

「……今日は社交?」

執事は首を振る。

「いいえ。社交ではありません。——それでも当主は“枠”を必要としています」

リィナの胸が鳴った。

社交じゃないのに、枠。
つまり、“理由”ではない形で会う必要があるということ。

(怖い)

でも、枠は“守るため”。
自分の鍵は自分が持つ。

リィナは深呼吸をして言った。

「……内容は」

執事は短く答えた。

「場所を変えます」

「場所……?」

執事は一拍置いて言った。

「部屋ではなく、庭です。——一時間」

庭。

リィナは目を瞬いた。
外。屋敷の中なのに、外。
部屋の扉も、灯りも、合図も——いつもの“捕獲”の舞台から離れる。

侍女長が、ようやく顔を上げた。

「閉じ込めの逆ね」

執事が頷いた。

「当主が、提案しました」

当主から?
あの人が、自分を抑えるために“外”を選ぶ。

リィナは胸が痛くなる。

「……分かりました」

侍女長が淡々と釘を刺す。

「庭でも枠は枠よ。手だけ。距離。終わりの合図。——そして、帰る」

リィナは頷いた。

「はい」

——夜。

屋敷の庭は、昼の整った美しさとは違って見えた。
暗さが輪郭を柔らかくし、木々の影が深くなる。
風が静かに葉を鳴らし、どこか遠い水音がする。

リィナは外套を羽織り、足元の石畳を踏みしめた。
執事が少し前を歩き、灯りを持っている。
灯りは強すぎない。誰にも見られないための明るさ。

庭の奥、東屋に近い場所で執事が止まった。

そこに当主がいた。

いつもの部屋着ではない。
外套を羽織り、手袋をしていない。
指先がむき出しだ。
冷えるはずなのに、冷えを許している。

当主はリィナを見ると、短く言った。

「来たな」

「はい。……一時間」

リィナが確認すると、当主は頷いた。

「枠の中だ」

執事は一歩下がり、灯りを東屋の柱に掛けた。
そして、淡々と言った。

「私は、視界の外におります。——必要になれば戻ります」

“止める役”は、今日もここにいる。
けれど距離を取る。
枠を守るための距離。

執事が離れると、庭の音が濃くなった。
風の音。葉の擦れる音。遠い水音。
屋敷の中では聞こえない音。

当主が、東屋のベンチに座った。
リィナも、少し離れて座る。
距離は枠の距離。

沈黙。

屋敷の壁がないだけで、沈黙の質が違う。
部屋の沈黙は“閉じた”静けさ。
庭の沈黙は“開いた”静けさ。

当主が、ふっと息を吐いた。

「……寒いな」

「冷えます」

リィナは淡々と答えた。
“寒い”に過剰反応しない。
それが枠。
寒いなら、外套を整える。灯りを落とす。——“抱きしめる”以外の方法がある。

リィナは立ち上がり、当主の外套の襟を少し整えた。
触れるのは布。手だけの枠の外ではない。
だが、近づきすぎないように、動きを短くする。

当主の視線が、リィナの指先を追った。

「……手袋をしなかった」

リィナは一拍置いた。
それは“触れてほしい”の匂いがする言葉。

リィナは枠の中の正直を選ぶ。

「……冷えるなら、持ってきます」

当主が低く笑った。

「違う」

短い否定。

そして、少しだけ声を落とした。

「……手だけ、の枠だろう」

リィナの胸が鳴る。

当主は続ける。

「手袋をしたら、触れた熱が分からない」

言ってしまった。
でも、言い方は乱暴じゃない。
静かな欲。

リィナは喉が震えながら、座り直した。

「……分かるほど、触れません」

枠。
線を引く。

当主は一拍置き、低く言った。

「……それでも、分かる」

夜風が吹いた。
木の葉がざわりと揺れる。
その音が、言葉の続きを飲み込ませるみたいに落ちた。

当主は手を差し出した。
いつもの“手”。

リィナはそっと自分の手を重ねた。
手袋がない分、熱が直に伝わる。
当主の指先は冷えている。
冷えているのに、力はある。

“掴みたい”力が、すぐ隣に潜んでいる。

当主は指を絡めようとして、止めた。
止めた震えが、夜風より細かく伝わる。

リィナは息を整えた。

深呼吸。
気持ちに名前。

(嬉しい)

終わり。
終わり。
終わり。

終わりを唱えながら、手は離さない。
それが枠の不思議さだ。
終わらせながら、続ける。

当主がぽつりと言った。

「……拒否された夜、灯りが点かなかった」

リィナの胸が鳴る。
それを、彼も知っている。

リィナは淡々と返した。

「……点かない夜もあります」

意味を持たせない。
温度を上げない。

当主は小さく息を吐いた。

「俺は、寂しかった」

リィナの喉が震える。

枠の外に出そうな言葉。
でも、それは“責め”じゃない。
ただの正直。

リィナは唇を噛んで、枠の中の正直を返した。

「……私も」

言ってしまった。
でも、止められなかった。

当主の指先が、ほんの少しだけ強くなる。
掴まない強さ。
でも、離したくない強さ。

風が吹く。
東屋の灯りが揺れる。

当主が低く言った。

「抱きしめたい」

また言った。
でも前回と同じ言い方じゃない。
庭の空気の中では、言葉が少しだけ柔らかい。

リィナの胸が痛む。

当主は続けた。

「……だが、抱きしめない」

言い切る。

リィナは息を吐いた。
怖いのに、嬉しい。

当主が視線を外し、夜空を見上げた。
屋敷の天井がない分、星が見える。

「……外は、いい」

当主が呟く。

「閉じ込めたくなる癖が、少しだけ弱まる」

リィナは胸を押さえた。

「……自分で分かってるんですね」

当主は低く笑った。

「分かっている。……だから、庭にした」

その言葉が、胸に落ちる。
捕まえるためじゃなく、捕まえないために場所を変えた。

時計の針が、終わりに近づく。
屋敷の中では時計の音が聞こえる。
庭では聞こえない。
だから、終わりは自分で作らなければならない。

当主が、東屋の灯りを指先で一段落とした。

合図を、彼がやった。

リィナの胸がきゅっとなる。
終わりを彼が作る。
奪わない終わり。

当主は低く言った。

「……戻れ」

リィナは頷いた。

「……おやすみなさい、アレクシス様」

当主は一拍置き、低く返した。

「……おやすみ」

手が離れる。
夜風が指の間に入って、冷える。
冷えるのに、胸は熱い。

——部屋に戻る道すがら。

執事が一定の距離で付いてくる。
振り返らない。
振り返れば、理由になる。

リィナは心に名前をつけた。

(名残)

終わり。

——その夜。

机の上の灯りは点かなかった。

点かないことに安堵して、点かないことに少しだけ寂しくて、
リィナはその矛盾に小さく笑った。

外に出る枠は、
抱きしめたい欲を“閉じ込めない”形に変えた。

手だけの限界は、まだ残る。
でも、限界の周りに“風”が通った夜だった。
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