執事はお嬢様の午後三時のティータイムだけは死守したい (告白は未着手ですが、隣の席だけは確定です)

星乃和花

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第10話『お嬢様の“猫被りモード”が解除されかけた瞬間、執事が「異常検知」して元に戻そうとする』

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 来客のある日は、屋敷の空気が少し硬くなる。
 銀器はいつもより磨かれ、花はいつもより背筋を伸ばし、時計の針の音がいつもよりはっきり聞こえる。

 そして――エマ(お嬢様)は、“完璧な令嬢”に戻る準備をする。

 鏡の前。
 微笑みの角度。
 顎の引き方。
 声の高さ。
 言葉の選び方。

(大丈夫。私は、できる。いつも通り)

 “いつも通り”は鎧だ。
 着れば痛くなくなる。
 着れば寂しくなくなる……ふりができる。

 背後で、レオン(執事)が手袋の指先を整えている。
 真顔。静かな動作。
 彼はいつも通りの“管理”をしている。

「お嬢様。来客は一組。応接は西。滞在は――」

「わかってるわ」

 エマは微笑みながら言った。
 完璧な令嬢の声。

 でも、その瞬間――鏡に映った自分の目が、ほんの少しだけ揺れた。

(……やだ。揺れないで)

 庭師の一言がまだ胸に残っている。
 “抱きしめてほしいんでしょ”
 “腕に指先だけ触れた”
 その小さな進展が、嬉しかったぶん、怖い。

 このまま素が出たら、戻れなくなる。
 来客の前に崩れるのは、恥ずかしい。
 でも――

 エマは思わず、小さく息を吐いた。

「……来客、少しだけ……怖い」

 声が、素に寄りかけた。
 弱音寸前。
 猫被りモードの留め具が、今にも外れそうな瞬間。

 そして、その“素”は――レオンの前でだけ、出かけた。

 レオンの動きが止まった。

 完全に止まった。
 手袋の指先が空中で止まり、視線がエマの頬に向かい、彼の中の警報が鳴るのが分かった。

「……異常検知」

 言うな。

「お嬢様。顔色が通常値と異なります」

 言うなって言った。

「体調不良の可能性があります。来客対応を延期し――」

 エマの胸の奥が、すっと冷えた。

 “異常”。
 “通常値と異なる”。
 “体調不良”。

 つまり――

(私が素になるのって、異常なの?)

 喉がきゅっと詰まる。
 でも、令嬢は喉を詰まらせない。
 詰まらせたら、負ける。

 エマは鏡の中で微笑みを作り直した。
 その微笑みは完璧で、だからこそ冷たかった。

「……大丈夫よ、レオン」

「しかし――」

「いつも通りにして」

 言い切る。
 鎧を締め直す。

 レオンは一拍止まり、真顔で頷いた。

「承知しました」

 その“承知”は、いつもより重く聞こえた。

 ・♢ー♢ー♢・

 来客は、つつがなく終わった。

 応接間。
 笑顔。
 会話。
 上品な相槌。
 指先でカップを持ち上げる角度まで完璧。

 エマは“完璧”を演じ切った。
 演じ切れたことが、少しだけ誇らしくて――同じくらい、虚しかった。

(私、何してるんだろう)

 来客が帰った後、廊下を歩きながら、胸の奥がじんと痛んだ。
 さっきの“異常検知”が、まだ刺さっている。

 レオンは悪気がない。
 だから余計にきつい。

 悪気がない言葉は、正しくて、逃げ場がない。
 “あなたが素なのは異常”って言われたみたいで、言い返すのも子どもみたいで。

(……私は、異常じゃない)

 そう言い切れるほど、強くない。
 だから、鎧を着るしかない。

 ・♢ー♢ー♢・

 十五時。

 ティールームはいつも通り。
 死守された香り。
 守られた温度。

 エマは、完璧な猫被りモードで席に着いた。
 背筋はまっすぐ。
 微笑みは柔らかく。
 声は優雅に。

 完璧な令嬢は、泣きそうにならない。
 泣きそうでも、それを見せない。

 レオンが紅茶を運んでくる。
 トレイを置き、カップを置こうとして――

 止まった。

 いつも止まらない人が、止まった。
 カップは宙に浮いたまま。
 レオンの指がわずかに固い。

 エマは微笑んだまま、言った。

「……いつも通りで結構よ」

 言葉は完璧。
 中身は防御。

 レオンはカップをそっと置いた。
 でも、次の動きが出ない。
 ティータイムの手順が、彼の中で迷子になっている。

「お嬢様」

「なあに」

 エマは視線を落とした。
 目が潤みそうだったから。

 沈黙が数秒続く。
 レオンが困っているのが分かる。

 ――彼が困るのは、珍しい。

 レオンは、いつものように手帳を開かなかった。
 資料も出さなかった。
 代わりに、ぽつりと言った。

「……いつも通り、ではない方が……よろしいですか」

 その問いは、今までになかった。

 “こうします”でも、“承知しました”でもない。
 “どうしますか”でもない。

 “よろしいですか”。

 選ばせようとしている。
 エマの気持ちに、触れようとしている。

 胸の奥が、ぎゅっと熱くなった。

(……今、聞いてくれた)

 エマはカップを握りしめた。
 手が少し震える。
 紅茶の熱のせいにできない震え。

 目が潤む。
 完璧な令嬢の仮面が、ほんの少しだけ揺れる。

 エマは、強がりの形で笑おうとした。
 でも、笑えなかった。

「……レオン」

「はい」

 声が小さくなる。
 猫被りが、解除されかける。
 でも今度は、怖いだけじゃない。

「私……さっきの……“異常”って言葉が……」

 喉が詰まる。
 涙が落ちそうで、エマは急いで視線を逸らした。

「……私が素になるのって、異常なの? って思って……」

 言ってしまった。
 言えた。
 言えた瞬間、胸の穴が少しだけ呼吸を始める。

 レオンの目が、わずかに揺れた。
 情緒の温度が、上がる音がした気がした。

「……異常という意味ではありません」

 即答。
 けれど、いつもより言葉が慎重だった。

「私は――お嬢様が崩れる兆候を、体調として扱っていました。
 しかし……」

 レオンは一度、息を吸った。
 執事が息を吸うのは、珍しい。

「……それは、誤りでした」

 エマの胸が震えた。

「素の表情は、お嬢様です。
 通常値……という表現が、間違っていました」

 エマの目に涙が溜まる。
 でも、それは痛い涙ではなくて――ほどける涙だった。

 エマは小さく笑ってしまった。
 涙混じりの、無防備な笑い。

「……じゃあ、私の“素”は……」

 レオンが、少しだけ首を傾げた。

「……必要です」

 言い切る。
 でも“統計”じゃない。
 “手順”じゃない。
 ただの言葉だ。

 エマは、微笑みの仮面を外しきれないまま、でも少しだけ外して言った。

「……じゃあ、今日は……いつも通りじゃなくていい」

 レオンは、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
 抜いたように見えた。

「承知しました」

 その“承知”は、いつもより柔らかかった。

 ティータイムの香りは変わらない。
 でも、空気は少しだけ違う。

 完璧な令嬢が、完璧じゃないまま座ってもいい時間。
 執事が初めて問いを投げた時間。

 エマはカップを持ち上げ、涙を一滴だけ飲み込んで、そっと言った。

「……ありがとう。聞いてくれて」

 レオンは真顔のまま、しかし声を落とした。

「……こちらこそ。
 “いつも通りではない方”を、今後も確認してよろしいですか」

 その問いは、次の進展の予告だった。
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