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第13話 『隣の席が“通常運用”になった結果、執事が心拍と頬温度を数え始めてしまい、お嬢様が「見てて、でも数えないで」と言う日』
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隣の席が、当たり前になりつつあった。
昨日までの“特別”が、今日からの“日常”へ変わる時。
嬉しいはずなのに、なぜか少しだけ怖い。
エマ(お嬢様)は、朝の鏡の前で、自分の微笑みを丁寧に整えながら思った。
(慣れたら、普通になってしまうのかしら)
(普通になったら、あの人は……戻すのでは?)
そんな不安を追い払うように、背筋を伸ばす。
今日も優雅に。今日も猫被り。
――でも、15:00だけは、少しだけ素でいたい。
廊下の向こうから、寸分狂わぬ足音。
「お嬢様。お目覚めのご様子、安定しております」
レオン(執事)は真顔で言った。
祝福より先に安定が来るあたり、いつも通りで少し安心する。
「ええ。ありがとう」
エマは微笑んだ。
その微笑みが“嬉しい”なのか“鎧”なのか、自分でも判別がつかないまま。
・♢ー♢ー♢・
そして、15:00。
ティールームの光は、今日も柔らかい。
花も、銀器も、空気も、全部が「ここは大丈夫」と言っている。
――隣の椅子も。
レオンが、当然のように隣の椅子を引いた。
「お嬢様。こちらへ」
その一言で、胸の奥がふっとほどける。
エマは言葉を失いそうになりながら、上品に頷いて座った。
隣。
近い。
近いのに、触れてはいない距離。
レオンも座る。
椅子の脚が床を擦る音が、今日は少し大きく聞こえた。
「本日の茶葉は、昨日お嬢様にお贈りした稀少茶葉より、軽やかな香りのものを選定しました」
「……ありがとう。いつも、完璧ね」
エマはそう言って、カップに視線を落とした。
頬が熱い。隣のせいだ。絶対。
その時だった。
「お嬢様」
レオンの声が低くなる。
“何か見つけた声”だ。
「はい?」
「瞬きの頻度が、通常値より増加しています」
エマの指が止まった。
「……え?」
レオンは、真顔で小さな手帳を開いた。
見覚えのある“運用の手帳”。
ページには、整然とした線と項目が並んでいる。
(まさか……)
「頬温度も上昇傾向です」
エマの脳内が真っ白になる。
(頬温度って何!?)
レオンはさらに淡々と続けた。
「呼吸がわずかに浅い。指先の力が入っています。
隣席による環境変化の影響が考えられます」
エマは、優雅な顔のまま固まった。
そして、内心で叫んだ。
(環境変化って言わないで!!)
カップを持つ手が微かに震えた。
それを見て、レオンの目がさらに真剣になる。
「お嬢様、安定運用のため、隣席における“通常値”を定義する必要があります」
「定義……?」
「はい。現状はデータ不足です。継続観測を行います」
エマは、思わず口を開いた。
「……観測って」
「はい。お嬢様の安定を守るためです」
悪気がない。
真剣だ。
だからこそ、胸の奥がきゅっとなる。
“守る”と言ってくれているのに。
“見ている”はずなのに。
見られているのが、数字みたいで――少し寂しい。
(私、隣に座ってほしかったのに)
(データになりたかったんじゃない)
そこへ、後方から咳払いがひとつ。
「……レオン」
メイド長マリアだった。
扉のところで腕を組み、笑いを堪える顔をしている。
「それ、恋の観測よ」
「恋は未確定です」
「未確定でも、今それやるとお嬢様の心が溶けて蒸発するの。わかる?」
マリアはそう言い、エマの方を見て、そっと目配せした。
“言っていいのよ”という合図みたいに。
エマは、言えない。
でも、言わないと、このまま“隣席通常値”が未来永劫採用される気がする。
レオンは手帳を持ったまま、エマを見た。
「お嬢様。息苦しさはありますか」
真面目。
心配してる。
なのにズレている。
エマは一度、紅茶の湯気を吸い込んだ。
香りが、背中を押す。
「……息苦しいわけじゃないの」
「では、なぜ頬温度が」
「それは……」
言えない。
“あなたが近いから”なんて言えない。
エマは猫被りを戻して逃げたくなった。
でも、戻したら、また遠くなる気がした。
だから、ほんの少しだけ、素のまま言った。
「見てて」
レオンが瞬きを止める。
「……はい」
エマは、頬の熱を隠すようにカップを持ち上げて、続けた。
「見てて、でも――数えないで」
言った瞬間、胸が痛いほど跳ねた。
言ってしまった。
わがままだ。
でも、言わなきゃ伝わらない。
レオンは一拍、動かなかった。
まるで、新しい言語を受信したみたいに。
そして、ゆっくりと手帳を閉じた。
ページが閉じる音が、やけに優しく聞こえた。
「承知しました」
いつもみたいな“承知”なのに、今日は少し違う。
数字を採用する承知じゃなくて、気持ちを採用する承知。
「観測を停止します」
エマの胸がふっとほどける。
涙が出そうになるのを、紅茶で誤魔化した。
レオンは続けた。
「しかし、見守ることは継続します」
「……うん」
エマは小さく頷いた。
それでいい。
それが欲しかった。
マリアが、後ろで小さくガッツポーズをした気配がした。
「よし。今日の15:00は勝ち」
「勝敗ではありません」
「勝ちよ」
その軽口が、部屋の空気を柔らかくする。
エマは思わず笑ってしまって、さらに頬が熱くなった。
レオンは――今度は何も言わない。
頬温度も、心拍も、瞬きも。
ただ、隣でエマを見ている。
数えずに。
逃げずに。
その視線が、数字じゃなくて、エマ自身に向いている気がして。
エマの胸の奥が、静かに温かくなった。
・♢ー♢ー♢・
ティータイムが終わりかけた頃、マリアが一通の封筒を持ってきた。
金の縁取りがある、上品な招待状。
「お嬢様。社交のご招待ですって」
エマの指先が、ほんの少し冷える。
(外……)
隣席ができない場所。
猫被りが必要な場所。
“いつも通り”を演じる場所。
エマが返事に迷う間に、レオンが真顔で言った。
「承知しました。外部環境における隣席代替案を準備します」
「……代替案って」
「はい。壁際の立ち位置、合図、退避ルート――」
マリアが肩を震わせた。
「また始まった」
エマは困って、でも少しだけ救われた。
この人はズレる。
でも、ちゃんと一緒に行こうとしてくれる。
エマは招待状を胸に抱え、隣の人を見上げた。
「……外でも、見ててね」
レオンは一拍置いて、いつもの声で答える。
「はい。数えずに」
エマは小さく笑った。
紅茶の湯気みたいに、ほどける笑いだった。
隣の席は、今日も死守された。
そして――次は、外の世界で“隣の代わり”をどう守るかの番になる。
昨日までの“特別”が、今日からの“日常”へ変わる時。
嬉しいはずなのに、なぜか少しだけ怖い。
エマ(お嬢様)は、朝の鏡の前で、自分の微笑みを丁寧に整えながら思った。
(慣れたら、普通になってしまうのかしら)
(普通になったら、あの人は……戻すのでは?)
そんな不安を追い払うように、背筋を伸ばす。
今日も優雅に。今日も猫被り。
――でも、15:00だけは、少しだけ素でいたい。
廊下の向こうから、寸分狂わぬ足音。
「お嬢様。お目覚めのご様子、安定しております」
レオン(執事)は真顔で言った。
祝福より先に安定が来るあたり、いつも通りで少し安心する。
「ええ。ありがとう」
エマは微笑んだ。
その微笑みが“嬉しい”なのか“鎧”なのか、自分でも判別がつかないまま。
・♢ー♢ー♢・
そして、15:00。
ティールームの光は、今日も柔らかい。
花も、銀器も、空気も、全部が「ここは大丈夫」と言っている。
――隣の椅子も。
レオンが、当然のように隣の椅子を引いた。
「お嬢様。こちらへ」
その一言で、胸の奥がふっとほどける。
エマは言葉を失いそうになりながら、上品に頷いて座った。
隣。
近い。
近いのに、触れてはいない距離。
レオンも座る。
椅子の脚が床を擦る音が、今日は少し大きく聞こえた。
「本日の茶葉は、昨日お嬢様にお贈りした稀少茶葉より、軽やかな香りのものを選定しました」
「……ありがとう。いつも、完璧ね」
エマはそう言って、カップに視線を落とした。
頬が熱い。隣のせいだ。絶対。
その時だった。
「お嬢様」
レオンの声が低くなる。
“何か見つけた声”だ。
「はい?」
「瞬きの頻度が、通常値より増加しています」
エマの指が止まった。
「……え?」
レオンは、真顔で小さな手帳を開いた。
見覚えのある“運用の手帳”。
ページには、整然とした線と項目が並んでいる。
(まさか……)
「頬温度も上昇傾向です」
エマの脳内が真っ白になる。
(頬温度って何!?)
レオンはさらに淡々と続けた。
「呼吸がわずかに浅い。指先の力が入っています。
隣席による環境変化の影響が考えられます」
エマは、優雅な顔のまま固まった。
そして、内心で叫んだ。
(環境変化って言わないで!!)
カップを持つ手が微かに震えた。
それを見て、レオンの目がさらに真剣になる。
「お嬢様、安定運用のため、隣席における“通常値”を定義する必要があります」
「定義……?」
「はい。現状はデータ不足です。継続観測を行います」
エマは、思わず口を開いた。
「……観測って」
「はい。お嬢様の安定を守るためです」
悪気がない。
真剣だ。
だからこそ、胸の奥がきゅっとなる。
“守る”と言ってくれているのに。
“見ている”はずなのに。
見られているのが、数字みたいで――少し寂しい。
(私、隣に座ってほしかったのに)
(データになりたかったんじゃない)
そこへ、後方から咳払いがひとつ。
「……レオン」
メイド長マリアだった。
扉のところで腕を組み、笑いを堪える顔をしている。
「それ、恋の観測よ」
「恋は未確定です」
「未確定でも、今それやるとお嬢様の心が溶けて蒸発するの。わかる?」
マリアはそう言い、エマの方を見て、そっと目配せした。
“言っていいのよ”という合図みたいに。
エマは、言えない。
でも、言わないと、このまま“隣席通常値”が未来永劫採用される気がする。
レオンは手帳を持ったまま、エマを見た。
「お嬢様。息苦しさはありますか」
真面目。
心配してる。
なのにズレている。
エマは一度、紅茶の湯気を吸い込んだ。
香りが、背中を押す。
「……息苦しいわけじゃないの」
「では、なぜ頬温度が」
「それは……」
言えない。
“あなたが近いから”なんて言えない。
エマは猫被りを戻して逃げたくなった。
でも、戻したら、また遠くなる気がした。
だから、ほんの少しだけ、素のまま言った。
「見てて」
レオンが瞬きを止める。
「……はい」
エマは、頬の熱を隠すようにカップを持ち上げて、続けた。
「見てて、でも――数えないで」
言った瞬間、胸が痛いほど跳ねた。
言ってしまった。
わがままだ。
でも、言わなきゃ伝わらない。
レオンは一拍、動かなかった。
まるで、新しい言語を受信したみたいに。
そして、ゆっくりと手帳を閉じた。
ページが閉じる音が、やけに優しく聞こえた。
「承知しました」
いつもみたいな“承知”なのに、今日は少し違う。
数字を採用する承知じゃなくて、気持ちを採用する承知。
「観測を停止します」
エマの胸がふっとほどける。
涙が出そうになるのを、紅茶で誤魔化した。
レオンは続けた。
「しかし、見守ることは継続します」
「……うん」
エマは小さく頷いた。
それでいい。
それが欲しかった。
マリアが、後ろで小さくガッツポーズをした気配がした。
「よし。今日の15:00は勝ち」
「勝敗ではありません」
「勝ちよ」
その軽口が、部屋の空気を柔らかくする。
エマは思わず笑ってしまって、さらに頬が熱くなった。
レオンは――今度は何も言わない。
頬温度も、心拍も、瞬きも。
ただ、隣でエマを見ている。
数えずに。
逃げずに。
その視線が、数字じゃなくて、エマ自身に向いている気がして。
エマの胸の奥が、静かに温かくなった。
・♢ー♢ー♢・
ティータイムが終わりかけた頃、マリアが一通の封筒を持ってきた。
金の縁取りがある、上品な招待状。
「お嬢様。社交のご招待ですって」
エマの指先が、ほんの少し冷える。
(外……)
隣席ができない場所。
猫被りが必要な場所。
“いつも通り”を演じる場所。
エマが返事に迷う間に、レオンが真顔で言った。
「承知しました。外部環境における隣席代替案を準備します」
「……代替案って」
「はい。壁際の立ち位置、合図、退避ルート――」
マリアが肩を震わせた。
「また始まった」
エマは困って、でも少しだけ救われた。
この人はズレる。
でも、ちゃんと一緒に行こうとしてくれる。
エマは招待状を胸に抱え、隣の人を見上げた。
「……外でも、見ててね」
レオンは一拍置いて、いつもの声で答える。
「はい。数えずに」
エマは小さく笑った。
紅茶の湯気みたいに、ほどける笑いだった。
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