執事はお嬢様の午後三時のティータイムだけは死守したい (告白は未着手ですが、隣の席だけは確定です)

星乃和花

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幕間E(雨の日回)『傘の距離は“隣席の携帯版”――執事が「雨量に対して最適距離です」と言い、庭師に「それ好きだろ」と撃ち抜かれる』

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 雨の日の屋敷は、音が少ない。

 人の声が引いて、代わりに雨の音が満ちる。
 葉を打つ音。
 石畳を叩く音。
 傘に当たって滑る音。

 エマは窓の外を眺めながら、小さく息を吐いた。

(今日は外に出なくていい日だったらよかったのに)

 でも、用事は用事として来る。
 今日は敷地内の温室へ顔を出す必要があった。
 親族への返礼品に添える花の確認。
 “お嬢様のお役目”は、天気を選ばない。

 扉が静かに開き、レオンが入ってきた。

「お嬢様。外出の準備が整いました」

 いつも通りの真顔。
 いつも通りの丁寧。
 その腕に、黒い傘が一本。

 エマは微笑んだ。

「ありがとう。雨、強いのね」

「はい。現在の雨量は中程度。風速は低いです」

(雨量……)

 エマは心の中で小さく笑い、でもすぐに胸がきゅっとなる。

 雨の日は、距離が近くなるから。

 外へ出ると、空気が冷たい。
 湿った匂いが髪に触れる。
 傘が開く音が、静かに響いた。

 レオンが傘を差し、エマの隣へ。

 ――近い。

 近すぎて、エマの腕が傘の内側の影に触れそうだ。
 肩が、ほんの少しだけレオンの袖に触れる。

 エマの頬が熱くなる。

(やだ……近い)

 でも、その近さが嫌じゃない。
 嫌じゃないから、余計に恥ずかしい。

 エマは上品な顔のまま、視線だけ前へ固定した。
 猫被りの微笑みを崩さない。
 崩さないが、耳が熱い。

 レオンは淡々と歩く。
 水たまりを避け、歩幅を合わせ、傘の角度を微調整する。

 そして当然のように言った。

「この距離が、雨量に対して最適距離です」

 エマは、足を止めそうになった。

(さいてき……)

 なんでこの人、こんな時にまで“最適”って言うの。
 胸がぎゅっとなるのに、笑いたくなる。

 エマは声を落として言った。

「……最適、なのね」

「はい。濡れを最小化します」

「……そ、そう」

 エマは、余計なことを言わないように息を整えた。
 息まで近い気がして、さらに赤くなる。

(雨、ありがとう……って言いたくなるの、悔しい)

 その時。

 遠くから、雨音に混ざって声が飛んできた。

「おーい!」

 庭師だ。
 濡れた髪をくしゃっと払って、庇の下からこちらを見ている。

「それ“最適”じゃなくて“好き”だろ!」

 空気が、一瞬で止まった。

 レオンの足が、ほんのわずかに止まる。
 止まるだけで、全部わかる。

(刺さった)

 エマは思わず傘の内側に顔を隠しそうになり、堪えた。
 上品に、上品に……!

 レオンは真顔のまま、庭師の方へ視線だけ向ける。

「庭師。発言の適切性を――」

「いらないいらない! 適切とか!」

 庭師は手を振り、大笑いしている。

「それ、好きな距離だろ?
 傘って便利だよなぁ。隣席の携帯版じゃん」

 エマの胸が、どきんと跳ねた。

(携帯版……)

 言葉の意味が、雨音の中でやけに鮮明になる。

 レオンは一拍置く。
 いつもの“否定”が出そうで出ない。

 庭師がにやりとした。

「ほら、止まった。
 図星」

 レオンは、目を逸らさないまま、静かに言った。

「……雨量に対して、最適です」

 同じ言葉。
 でも、さっきより少しだけ、声が小さい。

 エマの胸がきゅっとして、口が勝手に動いた。

 小声で。
 雨に紛れるくらいの声で。

「……好きなら、最適でいい」

 言ってしまった。

 言った瞬間、心臓が跳ねて、息が詰まりそうになる。

(私、なに言って……)

 レオンが、ほんの一瞬だけ固まった。
 その沈黙が、雨音の中でもはっきりわかる。

 そして――

 レオンは何も言わずに、傘を少しだけ寄せた。

 ほんの数センチ。
 でも、世界が変わるくらいの数センチ。

 エマの肩とレオンの袖が、ふわっと触れる。
 雨は入ってこない。
 代わりに、温度が入ってくる。

 庭師が遠くで「うわ、今寄せた!」と叫んだ気がしたが、エマは聞こえないふりをした。

 レオンは淡々と歩き出す。

「進みます」

 エマも頷く。

「……ええ」

 傘の中は、雨の音と、近さと、言えなかった言葉でいっぱいだった。

 温室へ着く前に、エマはカップも椅子もない“隣席”を確かめるように、そっと息を吐いた。

(これが、携帯版)

 そして、少しだけ思った。

(……雨の日、嫌いじゃないかもしれない)

 ・♢ー♢ー♢・

 屋敷へ戻ると、ちょうど15:00には少し早かった。
 エマは、濡れた髪を整えながら、こっそりレオンを見た。

 レオンはいつも通り、傘を乾かし、床を拭き、運用を整える。
 でも、さっき傘を寄せた人の顔だ。

 エマは紅茶の時間を待ちながら、胸の中で小さく呟いた。

(好きなら、最適でいい)

 その言葉を、もう一度口に出す勇気はまだない。
 でも、傘が少し寄ったことだけは、確かに残っている。
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