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第17話『執事が怪我を隠して“いつも通り”をしようとした結果、お嬢様が命令口調で「座って、飲んで、休んで」と守る番になる日』
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レオンが“いつも通り”でいる時ほど、危ない時はない。
メイド長マリアは、朝の廊下でそれを確信した。
足音が正確すぎる。
姿勢が真っ直ぐすぎる。
そして――右手首の動きが、わずかに不自然だ。
(ああ。隠してる)
マリアはため息を飲み込み、声を落とした。
「レオン。何かやった?」
「何も」
即答。
目も逸らさない。
そして、その即答がいちばん怪しい。
マリアは眉を上げる。
「右、痛いでしょ」
「痛くありません」
「……嘘つき」
「必要な嘘です」
(必要な嘘って何よ)
マリアが言い返そうとした瞬間、レオンはいつもの真顔で付け加えた。
「お嬢様の前では、通常運用を維持します」
マリアは、軽く額を押さえた。
「あなたねぇ……」
でも、止められないのも知っている。
止めようとしたら、より完璧に隠すだけだ。
(だったら、気づかせるしかないわね)
マリアは心の中で計画を立てた――が、計画は不要だった。
気づくのはいつも、あの人だ。
・♢ー♢ー♢・
15:00が近づく。
ティールームの準備は静かで、丁寧で、完璧だ。
レオンはいつも通り、銀器を並べ、茶葉を量り、湯を沸かす。
エマは扉の外で一瞬立ち止まり、耳を澄ませた。
カップの音。
トレイの音。
規則正しい音。
(いつも通り)
その“いつも通り”に、なぜか胸がざわつく。
エマは扉を開けた。
「レオン」
「お嬢様。お待ちしておりました」
真顔。
丁寧な礼。
そして、何も問題がないような声。
エマは隣席へ向かう――その前に、ふとレオンの手元を見た。
右手首。
袖口の下。
わずかに、布が引っ張られるような動き。
(……?)
エマは微笑みを保ったまま、座った。
隣の椅子が引かれる。
レオンも座る。
紅茶の時間が始まる。
いつも通りのはずなのに、エマの視線はカップではなく、レオンの手を追っていた。
レオンがティーポットを持ち上げる。
持ち上げた瞬間――
ほんの少し、手が震えた。
カップが、かすかに鳴った。
ちん。
たったそれだけの音で、エマの心臓が跳ねた。
エマは、猫被りの微笑みを保てなくなった。
微笑みが、薄くなる。
「……レオン」
「はい」
「手、どうしたの」
レオンは一拍置く。
ほんの一拍。
その一拍が、答えだった。
「問題ありません」
その言い方が、いつもより硬い。
エマの胸がきゅっと縮む。
「問題がある時ほど、あなたはそう言うのね」
エマの声が、いつもより低い。
自分でも驚くくらい、まっすぐだった。
レオンは視線を落とし、淡々と言う。
「軽微です。
業務遂行に支障は――」
「あるじゃない」
エマが遮った。
遮ったことに、レオンが一瞬だけ目を見開く。
エマは立ち上がった。
上品な動きのはずなのに、今日は勢いがある。
そして、命令口調で言った。
「座って」
レオンが固まる。
「……お嬢様」
「座って」
エマは繰り返した。
命令だ。
お願いじゃない。
逃げ道を塞ぐための声。
レオンは、微かに眉を動かす。
「不要です」
「不要じゃない!」
エマの声が大きくなる。
すぐに気づいて、息を吸い直した。
上品さを戻そうとして――戻せなかった。
戻さなくていい。
今日は戻したくない。
エマは続けた。
短い言葉で、逃げさせない。
「飲んで」
「……」
「休んで」
レオンの唇が開きかける。
反論が出そうになる。
エマはそれを許さなかった。
「今日は、私がやる」
レオンが即座に言う。
「危険です」
「危険じゃない」
「火傷の可能性が――」
「そんなの、いい」
エマの言葉が、切り捨てるように出た。
自分でも驚くほど、手順を置いてきた声。
理由も、適切性も、安定運用も。
今日は全部、置いていく。
エマはレオンの右手首を見た。
見ただけで痛そうだった。
「あなたが痛い方が、嫌」
その一言で、部屋が静かになった。
レオンの顔から、いつもの“正確さ”が一瞬だけ抜けた。
言葉が、詰まる。
扉の隙間から、マリアが顔を出している。
泣き笑いの顔だ。
(あんたたち……ほんとに……)
マリアは声を出さない。
出したら崩れてしまうから。
でも、目が「尊い」と叫んでいる。
エマはティーポットを持ち上げた。
重い。
でも、できる。
できなくても、やる。
レオンが反射的に手を伸ばし――途中で止めた。
止めたことが、エマの勝ちだった。
エマは紅茶を注いだ。
湯気が立つ。
香りが広がる。
「……ほら」
エマはカップをレオンの前に置いた。
「飲んで」
レオンはカップを見つめた。
いつもなら、状況を整理して、手順を提示して、許可を求めて――そうするはずなのに。
今日は、しない。
レオンはゆっくりカップを持ち上げ、一口飲んだ。
エマは、その横顔を見つめた。
“見てて”と言わなくても、見ていた。
レオンはカップを置き、息を吐いた。
「……」
エマは椅子を引いた。
――隣の椅子を、レオンのために。
「座って」
レオンは一瞬迷い、そして従った。
隣席。
今日は、逆だ。
エマがレオンを隣に座らせる。
守る番が、入れ替わる。
レオンは隣に座ったまま、右手首を微かに押さえた。
エマはそれを見て、そっと言った。
「……隠さないで」
レオンが小さく頷く。
「承知しました」
いつもの言葉。
でも、今日は“逃げない”の承知。
エマは、もう一度紅茶を注いだ。
自分のカップにも。
ふたり分。
静かな時間が落ちる。
レオンが、ぽつりと言った。
「……ありがとうございます」
エマが、目を丸くする。
それは、いつもの“承知しました”じゃない。
手順でもない。
真正面の言葉。
エマは胸がきゅっとして、笑ってごまかした。
「遅い」
笑いながら、目が潤む。
猫被りじゃない涙が、出そうになる。
エマはカップを持ち上げ、湯気に顔を隠した。
「……次からは、最初に言って」
レオンが一拍置いて、低く答える。
「……はい」
短い。
でも、温度がある。
その温度で、エマは十分だった。
今日は、守る番になれた。
隣の席は、ふたりのものだと、改めて思えた。
マリアは扉の向こうで、こっそり拳を握った。
(よし。今日も屋敷は平和)
平和の定義は、たぶん少し間違っている。
でも――尊いので、正解だ。
メイド長マリアは、朝の廊下でそれを確信した。
足音が正確すぎる。
姿勢が真っ直ぐすぎる。
そして――右手首の動きが、わずかに不自然だ。
(ああ。隠してる)
マリアはため息を飲み込み、声を落とした。
「レオン。何かやった?」
「何も」
即答。
目も逸らさない。
そして、その即答がいちばん怪しい。
マリアは眉を上げる。
「右、痛いでしょ」
「痛くありません」
「……嘘つき」
「必要な嘘です」
(必要な嘘って何よ)
マリアが言い返そうとした瞬間、レオンはいつもの真顔で付け加えた。
「お嬢様の前では、通常運用を維持します」
マリアは、軽く額を押さえた。
「あなたねぇ……」
でも、止められないのも知っている。
止めようとしたら、より完璧に隠すだけだ。
(だったら、気づかせるしかないわね)
マリアは心の中で計画を立てた――が、計画は不要だった。
気づくのはいつも、あの人だ。
・♢ー♢ー♢・
15:00が近づく。
ティールームの準備は静かで、丁寧で、完璧だ。
レオンはいつも通り、銀器を並べ、茶葉を量り、湯を沸かす。
エマは扉の外で一瞬立ち止まり、耳を澄ませた。
カップの音。
トレイの音。
規則正しい音。
(いつも通り)
その“いつも通り”に、なぜか胸がざわつく。
エマは扉を開けた。
「レオン」
「お嬢様。お待ちしておりました」
真顔。
丁寧な礼。
そして、何も問題がないような声。
エマは隣席へ向かう――その前に、ふとレオンの手元を見た。
右手首。
袖口の下。
わずかに、布が引っ張られるような動き。
(……?)
エマは微笑みを保ったまま、座った。
隣の椅子が引かれる。
レオンも座る。
紅茶の時間が始まる。
いつも通りのはずなのに、エマの視線はカップではなく、レオンの手を追っていた。
レオンがティーポットを持ち上げる。
持ち上げた瞬間――
ほんの少し、手が震えた。
カップが、かすかに鳴った。
ちん。
たったそれだけの音で、エマの心臓が跳ねた。
エマは、猫被りの微笑みを保てなくなった。
微笑みが、薄くなる。
「……レオン」
「はい」
「手、どうしたの」
レオンは一拍置く。
ほんの一拍。
その一拍が、答えだった。
「問題ありません」
その言い方が、いつもより硬い。
エマの胸がきゅっと縮む。
「問題がある時ほど、あなたはそう言うのね」
エマの声が、いつもより低い。
自分でも驚くくらい、まっすぐだった。
レオンは視線を落とし、淡々と言う。
「軽微です。
業務遂行に支障は――」
「あるじゃない」
エマが遮った。
遮ったことに、レオンが一瞬だけ目を見開く。
エマは立ち上がった。
上品な動きのはずなのに、今日は勢いがある。
そして、命令口調で言った。
「座って」
レオンが固まる。
「……お嬢様」
「座って」
エマは繰り返した。
命令だ。
お願いじゃない。
逃げ道を塞ぐための声。
レオンは、微かに眉を動かす。
「不要です」
「不要じゃない!」
エマの声が大きくなる。
すぐに気づいて、息を吸い直した。
上品さを戻そうとして――戻せなかった。
戻さなくていい。
今日は戻したくない。
エマは続けた。
短い言葉で、逃げさせない。
「飲んで」
「……」
「休んで」
レオンの唇が開きかける。
反論が出そうになる。
エマはそれを許さなかった。
「今日は、私がやる」
レオンが即座に言う。
「危険です」
「危険じゃない」
「火傷の可能性が――」
「そんなの、いい」
エマの言葉が、切り捨てるように出た。
自分でも驚くほど、手順を置いてきた声。
理由も、適切性も、安定運用も。
今日は全部、置いていく。
エマはレオンの右手首を見た。
見ただけで痛そうだった。
「あなたが痛い方が、嫌」
その一言で、部屋が静かになった。
レオンの顔から、いつもの“正確さ”が一瞬だけ抜けた。
言葉が、詰まる。
扉の隙間から、マリアが顔を出している。
泣き笑いの顔だ。
(あんたたち……ほんとに……)
マリアは声を出さない。
出したら崩れてしまうから。
でも、目が「尊い」と叫んでいる。
エマはティーポットを持ち上げた。
重い。
でも、できる。
できなくても、やる。
レオンが反射的に手を伸ばし――途中で止めた。
止めたことが、エマの勝ちだった。
エマは紅茶を注いだ。
湯気が立つ。
香りが広がる。
「……ほら」
エマはカップをレオンの前に置いた。
「飲んで」
レオンはカップを見つめた。
いつもなら、状況を整理して、手順を提示して、許可を求めて――そうするはずなのに。
今日は、しない。
レオンはゆっくりカップを持ち上げ、一口飲んだ。
エマは、その横顔を見つめた。
“見てて”と言わなくても、見ていた。
レオンはカップを置き、息を吐いた。
「……」
エマは椅子を引いた。
――隣の椅子を、レオンのために。
「座って」
レオンは一瞬迷い、そして従った。
隣席。
今日は、逆だ。
エマがレオンを隣に座らせる。
守る番が、入れ替わる。
レオンは隣に座ったまま、右手首を微かに押さえた。
エマはそれを見て、そっと言った。
「……隠さないで」
レオンが小さく頷く。
「承知しました」
いつもの言葉。
でも、今日は“逃げない”の承知。
エマは、もう一度紅茶を注いだ。
自分のカップにも。
ふたり分。
静かな時間が落ちる。
レオンが、ぽつりと言った。
「……ありがとうございます」
エマが、目を丸くする。
それは、いつもの“承知しました”じゃない。
手順でもない。
真正面の言葉。
エマは胸がきゅっとして、笑ってごまかした。
「遅い」
笑いながら、目が潤む。
猫被りじゃない涙が、出そうになる。
エマはカップを持ち上げ、湯気に顔を隠した。
「……次からは、最初に言って」
レオンが一拍置いて、低く答える。
「……はい」
短い。
でも、温度がある。
その温度で、エマは十分だった。
今日は、守る番になれた。
隣の席は、ふたりのものだと、改めて思えた。
マリアは扉の向こうで、こっそり拳を握った。
(よし。今日も屋敷は平和)
平和の定義は、たぶん少し間違っている。
でも――尊いので、正解だ。
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