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第1話 公爵様は花屋に現れる
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王都の朝は、花の香りといっしょに始まる。
――と、リネットは思っている。
まだ日が高くなる前のやわらかな光のなか、花屋《フロール》の店先には、今日も色とりどりの花が並んでいた。淡い桃色の薔薇、青みがかった小花、ふわふわの白い霞草。水を替えたばかりの桶の表面が、きらきらと光を弾いている。
リネット・フロールは、抱えていた籠をそっと地面に下ろすと、少し首をかしげた。
「ううん……やっぱり、こっちかな」
店先中央の花台に置いていたクリーム色の薔薇を、ひとつ右へずらす。その隣に淡い緑の葉ものを添えると、全体がふわっとやさしい印象になった。
よし、と小さく頷く。
「今日も可愛いです」
誰にともなく言って、リネットは満足そうに微笑んだ。
すると店の奥から、父のミハイルが顔を出した。
「花に話しかけてるのか、リネット」
「ち、違います。ただ、可愛いなって……」
「同じだろう」
豪快に笑われて、リネットは少しだけ頬をふくらませた。
けれど実際、花は可愛いのだから仕方がない。元気に咲いている花を見ると、つい声をかけたくなるのだ。
「お父さん、今日の予約分、まとめておきました。午前中に取りに来る方の分も確認してあります」
「おう、助かる。相変わらず気が利くなあ、おまえは」
「それくらい普通です」
「いやいや、普通じゃない。うちの看板娘だ」
「もう……」
こういうことをさらっと言うのが父のずるいところだ。リネットは照れくさくなって、誤魔化すように花の葉を整えた。
王都の目抜き通りから少し外れたこの通りは、朝になると近所の人たちが行き交い、店先にも少しずつ賑わいが出てくる。パン屋の焼きたての香り、荷車の軋む音、遠くから聞こえる呼び売りの声。そのなかに混じって、自分の店の花の香りがあるのが、リネットは好きだった。
穏やかで、平和で、あたたかい。
できれば毎日こうして過ごしていたい、と心から思う。
――だから、その日の騒ぎは、本当に突然のことだった。
「道を空けてください!」
鋭い声が通りに響いた。
何事かと顔を上げれば、通りの向こうがざわついている。人々が慌てて端へ寄り、店主たちが店先から身を引く。いつもの賑やかさとは違う、張りつめた空気が一気に広がった。
「えっ?」
リネットは目を瞬かせた。
父が通りの先を見て、低く言う。
「公爵家の馬車だ」
「こうしゃくけ……?」
「ヴァレンシュタイン公爵家だよ」
その名を聞いた瞬間、リネットは思わず姿勢を正した。
王都でその名を知らない者はいない。ヴァレンシュタイン公爵家。王家に次ぐとも言われる名門で、現当主は若くして公爵位を継ぎ、政務でも社交界でも鮮やかに名を轟かせている――そんな人だと聞いたことがある。
ただし、聞いたことがあるだけだ。
リネットのような花屋の娘には、あまりにも遠い存在だった。
「見物しない。頭を下げてろ」
「は、はい」
父に言われて、リネットも慌てて店先から半歩下がる。
通りを進んできたのは、深い紺色に金の紋章をあしらった、ひと目で上等とわかる馬車だった。護衛の騎士が周囲を固め、通りの空気そのものがぴんと張りつめる。
窓は閉じられているのに、そこにいるだけで“格が違う”とわかるのが不思議だった。
あれが、公爵家。
すごい……と、純粋に思った、そのとき。
「わっ」
甲高い声と、陶器の割れる音がした。
リネットが反射的に振り向くと、通りの端で小さな男の子が尻もちをついていた。どうやら急いで道を空けようとして転んだらしい。腕に抱えていた小さな植木鉢が地面に落ち、無残に割れて、土がばらばらに散らばっている。
男の子は呆然としたあと、みるみる目を潤ませた。
「お、おかあさんに、たのまれたのに……っ」
周囲の大人たちは公爵家の行列に気を取られ、あるいは恐れて、すぐには動けないでいる。
けれどリネットには、そんなことを考える余裕はなかった。
「大丈夫!?」
気づけば駆け出していた。
男の子の前にしゃがみこみ、まず怪我がないかを確かめる。膝に少しかすり傷はあるが、深くはなさそうだ。
「痛い? 立てる?」
「ぅ……うん」
「よかった」
ほっとして、今度は散らばった土と割れた鉢を見る。中の花は根元からは傷んでいない。土を新しく入れ直せば助かるかもしれない。
「お父さん、空いてる鉢ある!?」
「ある! 持ってくる!」
父が店に駆け込み、リネットは割れた破片を手早く端へ寄せた。スカートの裾が汚れるのも気にせず土を集め、根を傷めないようそっと花を持ち上げる。
「もう大丈夫だからね。ちゃんと植え直せるよ」
安心させるように微笑むと、男の子はしゃくりあげながらもこくりと頷いた。
そのときだった。
ふっと、あたりの空気が変わった。
ざわめきが、ぴたりと止む。
リネットは何となく顔を上げ――そして固まった。
すぐ目の前に、ひとりの男が立っていた。
いつの間に馬車を降りたのか、誰も気づかなかったらしい。
長身で、すらりとしていて、朝の光を受ける銀灰色の髪がひどく上品に見える。整いすぎるほど整った顔立ちは冷たく見えてもおかしくないのに、その眼差しは静かで落ち着いていた。濃い青の瞳が、まっすぐリネットを見ている。
息をするのを忘れた。
この人が誰なのか、紹介されなくてもわかった。
ヴァレンシュタイン公爵。
アルベルト・レオニード・ヴァレンシュタイン、その人だ。
「っ……!」
声にならない息が喉から漏れる。
周囲の人々が一斉に頭を下げる気配がした。リネットも慌てて立ち上がろうとして、しかし手に土のついた花を持ったままだったことに気づき、ますます慌てた。
「あ、え、あの、これは、その……!」
何をどう言えばいいのかわからない。
公爵の前で膝をついて土まみれになっているだなんて、きっととんでもなく無礼なのではないか。そう思った瞬間、頭のなかが真っ白になった。
だがアルベルトは咎めるでもなく、男の子へ一瞬視線を向け、それからリネットの手元の花を見た。
「植え直せるのか」
低く、よく通る声だった。
「え?」
「その花だ」
「は、はい……! 根はまだ大丈夫そうなので、新しい鉢と土があれば、たぶん……」
しどろもどろに答えると、アルベルトは小さく頷いた。
「そうか」
ただそれだけなのに、なぜだか胸がどきどきした。
遅れて父が新しい鉢を抱えて戻ってくる。公爵の姿を見てぎょっと目を剥き、危うく鉢を落としかけた。
「こ、公爵閣下!」
「構わない。続けてくれ」
落ち着いた声でそう言われ、父は慌てて深く頭を下げた。
リネットは公爵の視線を意識しすぎて指先が震えそうになるのを必死で抑えながら、新しい鉢に土を入れ、花を植え直していく。いつもなら簡単な作業なのに、今日はひどく時間がかかる気がした。
失敗したらどうしよう。土の量はこれでよかっただろうか。もっと綺麗に整えたほうがいいだろうか。ああでも公爵様が見ている。どうして見ているの。
心のなかは大混乱だ。
「……よし」
最後に土を軽く押さえて、リネットはようやく顔を上げた。
「できました」
父がほっと息をつき、男の子の母親らしい女性が青ざめた顔で駆けてくる。事情を知って平謝りする彼女に、リネットは「大丈夫です、割れた鉢も気にしないでください」と伝えた。
男の子が植え直された花を抱きしめるように持ち、涙の跡の残る顔で言う。
「ありがとう、おねえちゃん」
「ううん。気をつけて帰ってね」
ようやく一件落着、と思った、そのとき。
「君」
呼ばれて、リネットはびくりと肩を跳ねさせた。
まだ、いた。
いや、当然なのだが、公爵がまだすぐそばに立っていることに今さら気づき、心臓が大きく跳ねる。
「は、はいっ」
「名は?」
「……え」
間の抜けた声が出た。
名。
名前を聞かれている。公爵様に。自分が。
頭ではわかるのに、現実感がなさすぎて理解が追いつかない。
「な、名、ですか」
「そうだ」
「り、リネットです……! リネット・フロールと申します……!」
勢い余って深く頭を下げると、自分の声が少し裏返った。恥ずかしい。消えたい。今すぐ花桶に飛び込みたい。
しかしアルベルトは笑わなかった。
ただ、その名を確かめるようにゆっくり繰り返す。
「リネット・フロール」
自分の名前がそんなふうに呼ばれたことがあっただろうか。
不思議と、その音がやけに丁寧に胸へ落ちてくる。
「覚えておこう」
「……え?」
「よく咲く花を選ぶ店だ」
リネットはぱちぱちと瞬いた。
何と言われたのか、すぐにはわからない。
よく咲く花。店。覚えておこう。
それが褒め言葉らしいと理解したころには、アルベルトはすでに踵を返していた。
護衛たちがすぐに続き、止まっていた馬車が再び動き出す。何事もなかったかのように一行は通りを去っていき、あとに残ったのは呆然とした静けさだった。
……今のは、何だったのだろう。
しばらくしてから、通りのあちこちで堰を切ったようにざわめきが戻る。
「公爵閣下がお声を……?」
「花屋の娘に?」
「名前を聞かれただと?」
そんな囁きが聞こえてきて、リネットは一気に青くなった。
「えっ、えっ? わ、私、何か失礼なことを……!?」
「してねえよ、大丈夫だ」
父が苦笑しながら肩を叩く。
「でも、お父さん、公爵様が、私の名前を……」
「聞いてたなあ」
「どうして……?」
「さあな」
さあな、で済ませていいことだろうか。
リネットはしばらくその場で固まり、それからはっと我に返って、慌てて散らばった土の残りを片づけはじめた。とにかく手を動かしていないと落ち着かない。
ただ、そのあいだもずっと、耳の奥であの低い声が反響していた。
――リネット・フロール。
いやいやいや、と首を振る。
名前を呼ばれただけだ。挨拶?のようなものだ。たぶん。きっと。そうに違いない。
そう自分に言い聞かせたのに、その日一日、どうにも胸がそわそわして仕方がなかった。
◇
数日後。
「リネットー! 大変だぞ!」
昼前、店の奥で伝票を整理していたリネットは、父の大声にびくっと肩を震わせた。
「な、何!? 虫ですか!? 火事ですか!?」
「どっちでもねえ!」
店先から飛んできた父の声は、妙に裏返っていた。これはこれで不安になる声色である。
慌てて表へ出ると、父が一枚の紙を両手で持って固まっていた。顔がこわばっている。
「お父さん?」
「注文だ」
「はい」
「公爵家からの」
「……はい?」
一拍置いて、意味が頭に入る。
「こうしゃく、け?」
「ヴァレンシュタイン公爵家だ」
リネットはその場でかちんと止まった。
父の手のなかの注文書には、たしかに見たこともないほど立派な封蝋印が押されている。しかも内容を覗き込めば、かなりまとまった量の花の依頼だ。季節の花を中心に、品のよい色合いで揃えてほしいとある。
「え、ええと……うち、で合ってますか?」
「俺もそう思って三回見直した」
「何かの間違いでは……」
「使いの人は間違いなくうちだと言ってた」
父娘そろって注文書を見つめる。
沈黙のあと、リネットはおそるおそる言った。
「……あの日の、ですかね」
「たぶんなあ」
父も難しい顔で腕を組む。
あの日。公爵が店の前で足を止め、リネットの名前を聞いた日。
あれが本当にきっかけなのだとしたら、なんだか恐れ多すぎる。
「ど、どうしましょう」
「どうもこうも、注文は注文だ。気合い入れて作るぞ」
「あ、はい……!」
動揺していても仕事は仕事である。
リネットは頭をぶんぶん振って気持ちを切り替えると、注文内容に合わせて花を選び始めた。派手すぎず、けれど地味ではない。格式ある家にふさわしく、なおかつ季節の柔らかさも感じられるもの。
考えに考え、父と相談し、何度も組み合わせを見直して、ようやく納得のいく仕上がりになった。
「……可愛い」
「可愛いな」
父娘で同じ感想をこぼし、少しだけ笑う。
この花なら大丈夫。そう思えたから、リネットは緊張しながらも自分で納品に行くことにした。
◇
ヴァレンシュタイン公爵邸は、想像していた以上に大きかった。
大きい、というより、広い。正門から建物までの道だけで、花屋《フロール》がすっぽり入りそうなくらい広い。整えられた庭園は美しく、芝ひとつ、木の枝一本まで行き届いているように見えた。
「ひぇ……」
思わず変な声が出た。
花を積んだ荷車を押しながら門をくぐった瞬間から、リネットの心臓はうるさいほど鳴っている。
帰りたいわけではない。逃げたいわけでもない。けれど、場違いすぎて足が震えるのだ。
「フロール花店より、納品に参りました……」
門番に声をかけると、丁寧に案内される。途中で使用人らしい人に引き継がれ、さらに邸内の一角へ通される。
磨き上げられた床、静かな廊下、飾られた絵画。何もかもが上等で、リネットは歩くだけで緊張した。
案内された先は、陽のよく入る広間だった。そこへ花を運び込み、指定された場所に飾っていく。ひとつ置くたび、空間がふわりとやわらかくなっていくのがわかる。
少しだけ落ち着いてきた、そのときだった。
「やはり君が来たか」
不意に聞こえた低い声に、リネットはほとんど飛び上がった。
振り向いた先にいたのは、アルベルトだった。
今日の彼は視察の日よりもさらに近寄りがたい雰囲気をまとっていた。濃紺の上着は仕立てがよく、襟元には控えめな刺繍。無駄のない立ち姿ひとつで、この邸の主なのだとわかる。
けれど、向けられた眼差しだけは不思議とやわらかかった。
「こ、公爵様……!」
「久しいな、リネット」
久しいと言うほど日数は経っていない気がするが、反論できるはずもない。
「お、お世話になっております……!」
何のお世話だろう。言ってからわからなくなり、リネットはますます混乱した。
アルベルトの視線が花へ移る。
「これを君が選んだのか」
「は、はい」
「見事だ」
短い言葉なのに、まっすぐで、誤魔化しがなかった。
リネットは思わず花束を抱え直す。
「あ、ありがとうございます……」
「季節のやわらかさがある。だが甘くなりすぎない」
そう言って近づいてくる。リネットのすぐそばで足を止め、花に触れそうで触れない距離から眺めた。
「この広間に合うよう考えたのだろう」
「……え」
「違うか?」
「い、いえ、その……はい」
まさにその通りだったので驚いた。花そのものだけでなく、この広間の光や壁の色に合うよう整えたのだ。そんなことまで見抜かれるとは思わなかった。
「よく見ておられるんですね……」
ぽろっと本音が出る。
するとアルベルトは、少しだけ目を細めた。
「見る価値のあるものは見ている」
どきりとした。
なぜだろう。今の言葉は花のことを言っているはずなのに、そう聞こえなかった。
リネットが答えに詰まっていると、アルベルトは静かに告げた。
「今後も、花は君の店に頼もう」
「えっ」
「問題があるか?」
「い、いえ……! 問題なんて、まったく……! むしろ光栄すぎて、ええと、あの……」
口がもつれる。
公爵家から継続して注文をもらえるなんて、店にとっては大変ありがたい話だ。ありがたいどころではない。夢のようだ。けれど、なぜ、そこまで。
リネットが答えを探して目を泳がせていると、アルベルトはほんの少し口元を和らげた。
「そう緊張しなくていい」
「む、無理です……!」
反射的に言ってしまってから、はっとして顔を青くする。
「も、申し訳ありません……!」
だが叱責は飛んでこなかった。
むしろアルベルトは、面白いものを見るようにわずかに笑った。
「正直で結構」
そんなふうに言われると、ますます困る。
どうしたらいいのかわからなくて、リネットは胸元できゅっと手を握った。するとアルベルトの視線がその手元に落ち、すぐにまた顔へ戻る。
「帰りは馬車を出させよう」
「えっ!?」
「花の納品を終えたあとだ。荷も軽くなるだろう」
「だ、大丈夫です、自分で帰れます!」
「この邸から店までは少し距離がある。荷車を押して戻るのは楽ではない」
「で、でも……!」
「遠慮はしなくていい」
穏やかなのに、なぜか押しが強い。
いや、押されているのだと今さら気づく。リネットはたじろぎながら首を振った。
「その、本当に、お気遣いなく……! そんな、恐れ多いですし……!」
「恐れ多い?」
アルベルトが一歩近づく。
ただそれだけで、リネットは息を呑んだ。
「私がそうしたいだけだとしてもか」
「……え」
見上げた先、深い青の瞳が静かにこちらを見ていた。
あまりにも真顔で言うものだから、冗談には聞こえない。
リネットの顔が一気に熱くなる。
「そ、そういうことを、あまり自然に言わないでください……!」
「何かおかしなことを言ったか?」
「お、おかしいです……!」
「そうか」
絶対にわかっていない顔だった。
嘘だ。この人、絶対に少しはわかっている。わかっていて落ち着いている。ずるい。
リネットがわたわたしているあいだに、アルベルトは近くに控えていた使用人へ視線だけで指示を出した。使用人は静かに一礼する。
どうやら、もう馬車の手配は決まってしまったらしい。
なぜこんなに話が早いのか。
リネットが軽くめまいを覚えていると、アルベルトがふと窓辺に飾った花を見て言った。
「やはり、よく馴染む」
あの日と同じような台詞だった。
けれど今回は、その視線が花だけを見ていない気がした。
「……君が選ぶものは、どれもいい」
心臓が、止まるかと思った。
それは褒められているのだろうか。花を? 店を? それとも――。
そこまで考えて、リネットはぶんぶんと頭のなかで否定した。いやいやいや。さすがに違う。そんなはずがない。
相手は公爵様だ。王都でもっとも遠いところにいるような人だ。花屋の娘に、そんな。
けれど動揺は顔に出ていたらしい。
アルベルトはそれを見て、ほんの少しだけ目元をやわらげた。
「また来るといい、リネット」
「わ、私がですか!?」
「花も、君も歓迎しよう」
その瞬間、リネットは本気で声を失った。
花も。
君も。
今、何と言ったのだろう、この人は。
「あ、あの、ええと、あの……!」
必死に何か返そうとするのに、言葉がひとつもまとまらない。顔は熱いし、心臓はうるさいし、頭はぐるぐるするしで、もう散々だ。
そんな彼女をしばらく見つめたあと、アルベルトは静かに言った。
「慌てなくていい」
その声音は、驚くほどやさしかった。
「君はそのままでいい」
やっぱり、その言葉はずるい。
何もできなくなるから。
リネットは真っ赤になったまま、こくりと頷くことしかできなかった。
◇
帰りの馬車のなかで、リネットはずっと膝の上に手を置いて固まっていた。
ふかふかの座席。揺れの少ない車輪。窓の外を流れる王都の景色。何もかもが現実味を欠いている。
「どうして……」
ぽつりと呟いても、答える人はいない。
公爵家から大口の注文が来た。納品に行った。公爵様本人がいた。褒められた。送ってもらっている。
どこからどう考えても、普通ではない。
けれど、だからといって理由がわからない。
店に戻ったら父に何と言おう。たぶん驚く。きっと呆れる。もしかしたら笑うかもしれない。
でも、ひとつだけたしかなのは。
あの日、通りで名前を呼ばれてから、何かが少しずつ動きはじめているということだった。
そしてそれはたぶん、リネットが思っているよりずっと大きくて、ずっと甘くて、ずっと逃げにくいものなのだ。
まだこのときのリネットは、知るはずもなかった。
ヴァレンシュタイン公爵アルベルトが、一度気に入ったものを簡単には手放さない人だということを。
そしてその“気に入ったもの”のなかに、自分が入ってしまっていることも。
――と、リネットは思っている。
まだ日が高くなる前のやわらかな光のなか、花屋《フロール》の店先には、今日も色とりどりの花が並んでいた。淡い桃色の薔薇、青みがかった小花、ふわふわの白い霞草。水を替えたばかりの桶の表面が、きらきらと光を弾いている。
リネット・フロールは、抱えていた籠をそっと地面に下ろすと、少し首をかしげた。
「ううん……やっぱり、こっちかな」
店先中央の花台に置いていたクリーム色の薔薇を、ひとつ右へずらす。その隣に淡い緑の葉ものを添えると、全体がふわっとやさしい印象になった。
よし、と小さく頷く。
「今日も可愛いです」
誰にともなく言って、リネットは満足そうに微笑んだ。
すると店の奥から、父のミハイルが顔を出した。
「花に話しかけてるのか、リネット」
「ち、違います。ただ、可愛いなって……」
「同じだろう」
豪快に笑われて、リネットは少しだけ頬をふくらませた。
けれど実際、花は可愛いのだから仕方がない。元気に咲いている花を見ると、つい声をかけたくなるのだ。
「お父さん、今日の予約分、まとめておきました。午前中に取りに来る方の分も確認してあります」
「おう、助かる。相変わらず気が利くなあ、おまえは」
「それくらい普通です」
「いやいや、普通じゃない。うちの看板娘だ」
「もう……」
こういうことをさらっと言うのが父のずるいところだ。リネットは照れくさくなって、誤魔化すように花の葉を整えた。
王都の目抜き通りから少し外れたこの通りは、朝になると近所の人たちが行き交い、店先にも少しずつ賑わいが出てくる。パン屋の焼きたての香り、荷車の軋む音、遠くから聞こえる呼び売りの声。そのなかに混じって、自分の店の花の香りがあるのが、リネットは好きだった。
穏やかで、平和で、あたたかい。
できれば毎日こうして過ごしていたい、と心から思う。
――だから、その日の騒ぎは、本当に突然のことだった。
「道を空けてください!」
鋭い声が通りに響いた。
何事かと顔を上げれば、通りの向こうがざわついている。人々が慌てて端へ寄り、店主たちが店先から身を引く。いつもの賑やかさとは違う、張りつめた空気が一気に広がった。
「えっ?」
リネットは目を瞬かせた。
父が通りの先を見て、低く言う。
「公爵家の馬車だ」
「こうしゃくけ……?」
「ヴァレンシュタイン公爵家だよ」
その名を聞いた瞬間、リネットは思わず姿勢を正した。
王都でその名を知らない者はいない。ヴァレンシュタイン公爵家。王家に次ぐとも言われる名門で、現当主は若くして公爵位を継ぎ、政務でも社交界でも鮮やかに名を轟かせている――そんな人だと聞いたことがある。
ただし、聞いたことがあるだけだ。
リネットのような花屋の娘には、あまりにも遠い存在だった。
「見物しない。頭を下げてろ」
「は、はい」
父に言われて、リネットも慌てて店先から半歩下がる。
通りを進んできたのは、深い紺色に金の紋章をあしらった、ひと目で上等とわかる馬車だった。護衛の騎士が周囲を固め、通りの空気そのものがぴんと張りつめる。
窓は閉じられているのに、そこにいるだけで“格が違う”とわかるのが不思議だった。
あれが、公爵家。
すごい……と、純粋に思った、そのとき。
「わっ」
甲高い声と、陶器の割れる音がした。
リネットが反射的に振り向くと、通りの端で小さな男の子が尻もちをついていた。どうやら急いで道を空けようとして転んだらしい。腕に抱えていた小さな植木鉢が地面に落ち、無残に割れて、土がばらばらに散らばっている。
男の子は呆然としたあと、みるみる目を潤ませた。
「お、おかあさんに、たのまれたのに……っ」
周囲の大人たちは公爵家の行列に気を取られ、あるいは恐れて、すぐには動けないでいる。
けれどリネットには、そんなことを考える余裕はなかった。
「大丈夫!?」
気づけば駆け出していた。
男の子の前にしゃがみこみ、まず怪我がないかを確かめる。膝に少しかすり傷はあるが、深くはなさそうだ。
「痛い? 立てる?」
「ぅ……うん」
「よかった」
ほっとして、今度は散らばった土と割れた鉢を見る。中の花は根元からは傷んでいない。土を新しく入れ直せば助かるかもしれない。
「お父さん、空いてる鉢ある!?」
「ある! 持ってくる!」
父が店に駆け込み、リネットは割れた破片を手早く端へ寄せた。スカートの裾が汚れるのも気にせず土を集め、根を傷めないようそっと花を持ち上げる。
「もう大丈夫だからね。ちゃんと植え直せるよ」
安心させるように微笑むと、男の子はしゃくりあげながらもこくりと頷いた。
そのときだった。
ふっと、あたりの空気が変わった。
ざわめきが、ぴたりと止む。
リネットは何となく顔を上げ――そして固まった。
すぐ目の前に、ひとりの男が立っていた。
いつの間に馬車を降りたのか、誰も気づかなかったらしい。
長身で、すらりとしていて、朝の光を受ける銀灰色の髪がひどく上品に見える。整いすぎるほど整った顔立ちは冷たく見えてもおかしくないのに、その眼差しは静かで落ち着いていた。濃い青の瞳が、まっすぐリネットを見ている。
息をするのを忘れた。
この人が誰なのか、紹介されなくてもわかった。
ヴァレンシュタイン公爵。
アルベルト・レオニード・ヴァレンシュタイン、その人だ。
「っ……!」
声にならない息が喉から漏れる。
周囲の人々が一斉に頭を下げる気配がした。リネットも慌てて立ち上がろうとして、しかし手に土のついた花を持ったままだったことに気づき、ますます慌てた。
「あ、え、あの、これは、その……!」
何をどう言えばいいのかわからない。
公爵の前で膝をついて土まみれになっているだなんて、きっととんでもなく無礼なのではないか。そう思った瞬間、頭のなかが真っ白になった。
だがアルベルトは咎めるでもなく、男の子へ一瞬視線を向け、それからリネットの手元の花を見た。
「植え直せるのか」
低く、よく通る声だった。
「え?」
「その花だ」
「は、はい……! 根はまだ大丈夫そうなので、新しい鉢と土があれば、たぶん……」
しどろもどろに答えると、アルベルトは小さく頷いた。
「そうか」
ただそれだけなのに、なぜだか胸がどきどきした。
遅れて父が新しい鉢を抱えて戻ってくる。公爵の姿を見てぎょっと目を剥き、危うく鉢を落としかけた。
「こ、公爵閣下!」
「構わない。続けてくれ」
落ち着いた声でそう言われ、父は慌てて深く頭を下げた。
リネットは公爵の視線を意識しすぎて指先が震えそうになるのを必死で抑えながら、新しい鉢に土を入れ、花を植え直していく。いつもなら簡単な作業なのに、今日はひどく時間がかかる気がした。
失敗したらどうしよう。土の量はこれでよかっただろうか。もっと綺麗に整えたほうがいいだろうか。ああでも公爵様が見ている。どうして見ているの。
心のなかは大混乱だ。
「……よし」
最後に土を軽く押さえて、リネットはようやく顔を上げた。
「できました」
父がほっと息をつき、男の子の母親らしい女性が青ざめた顔で駆けてくる。事情を知って平謝りする彼女に、リネットは「大丈夫です、割れた鉢も気にしないでください」と伝えた。
男の子が植え直された花を抱きしめるように持ち、涙の跡の残る顔で言う。
「ありがとう、おねえちゃん」
「ううん。気をつけて帰ってね」
ようやく一件落着、と思った、そのとき。
「君」
呼ばれて、リネットはびくりと肩を跳ねさせた。
まだ、いた。
いや、当然なのだが、公爵がまだすぐそばに立っていることに今さら気づき、心臓が大きく跳ねる。
「は、はいっ」
「名は?」
「……え」
間の抜けた声が出た。
名。
名前を聞かれている。公爵様に。自分が。
頭ではわかるのに、現実感がなさすぎて理解が追いつかない。
「な、名、ですか」
「そうだ」
「り、リネットです……! リネット・フロールと申します……!」
勢い余って深く頭を下げると、自分の声が少し裏返った。恥ずかしい。消えたい。今すぐ花桶に飛び込みたい。
しかしアルベルトは笑わなかった。
ただ、その名を確かめるようにゆっくり繰り返す。
「リネット・フロール」
自分の名前がそんなふうに呼ばれたことがあっただろうか。
不思議と、その音がやけに丁寧に胸へ落ちてくる。
「覚えておこう」
「……え?」
「よく咲く花を選ぶ店だ」
リネットはぱちぱちと瞬いた。
何と言われたのか、すぐにはわからない。
よく咲く花。店。覚えておこう。
それが褒め言葉らしいと理解したころには、アルベルトはすでに踵を返していた。
護衛たちがすぐに続き、止まっていた馬車が再び動き出す。何事もなかったかのように一行は通りを去っていき、あとに残ったのは呆然とした静けさだった。
……今のは、何だったのだろう。
しばらくしてから、通りのあちこちで堰を切ったようにざわめきが戻る。
「公爵閣下がお声を……?」
「花屋の娘に?」
「名前を聞かれただと?」
そんな囁きが聞こえてきて、リネットは一気に青くなった。
「えっ、えっ? わ、私、何か失礼なことを……!?」
「してねえよ、大丈夫だ」
父が苦笑しながら肩を叩く。
「でも、お父さん、公爵様が、私の名前を……」
「聞いてたなあ」
「どうして……?」
「さあな」
さあな、で済ませていいことだろうか。
リネットはしばらくその場で固まり、それからはっと我に返って、慌てて散らばった土の残りを片づけはじめた。とにかく手を動かしていないと落ち着かない。
ただ、そのあいだもずっと、耳の奥であの低い声が反響していた。
――リネット・フロール。
いやいやいや、と首を振る。
名前を呼ばれただけだ。挨拶?のようなものだ。たぶん。きっと。そうに違いない。
そう自分に言い聞かせたのに、その日一日、どうにも胸がそわそわして仕方がなかった。
◇
数日後。
「リネットー! 大変だぞ!」
昼前、店の奥で伝票を整理していたリネットは、父の大声にびくっと肩を震わせた。
「な、何!? 虫ですか!? 火事ですか!?」
「どっちでもねえ!」
店先から飛んできた父の声は、妙に裏返っていた。これはこれで不安になる声色である。
慌てて表へ出ると、父が一枚の紙を両手で持って固まっていた。顔がこわばっている。
「お父さん?」
「注文だ」
「はい」
「公爵家からの」
「……はい?」
一拍置いて、意味が頭に入る。
「こうしゃく、け?」
「ヴァレンシュタイン公爵家だ」
リネットはその場でかちんと止まった。
父の手のなかの注文書には、たしかに見たこともないほど立派な封蝋印が押されている。しかも内容を覗き込めば、かなりまとまった量の花の依頼だ。季節の花を中心に、品のよい色合いで揃えてほしいとある。
「え、ええと……うち、で合ってますか?」
「俺もそう思って三回見直した」
「何かの間違いでは……」
「使いの人は間違いなくうちだと言ってた」
父娘そろって注文書を見つめる。
沈黙のあと、リネットはおそるおそる言った。
「……あの日の、ですかね」
「たぶんなあ」
父も難しい顔で腕を組む。
あの日。公爵が店の前で足を止め、リネットの名前を聞いた日。
あれが本当にきっかけなのだとしたら、なんだか恐れ多すぎる。
「ど、どうしましょう」
「どうもこうも、注文は注文だ。気合い入れて作るぞ」
「あ、はい……!」
動揺していても仕事は仕事である。
リネットは頭をぶんぶん振って気持ちを切り替えると、注文内容に合わせて花を選び始めた。派手すぎず、けれど地味ではない。格式ある家にふさわしく、なおかつ季節の柔らかさも感じられるもの。
考えに考え、父と相談し、何度も組み合わせを見直して、ようやく納得のいく仕上がりになった。
「……可愛い」
「可愛いな」
父娘で同じ感想をこぼし、少しだけ笑う。
この花なら大丈夫。そう思えたから、リネットは緊張しながらも自分で納品に行くことにした。
◇
ヴァレンシュタイン公爵邸は、想像していた以上に大きかった。
大きい、というより、広い。正門から建物までの道だけで、花屋《フロール》がすっぽり入りそうなくらい広い。整えられた庭園は美しく、芝ひとつ、木の枝一本まで行き届いているように見えた。
「ひぇ……」
思わず変な声が出た。
花を積んだ荷車を押しながら門をくぐった瞬間から、リネットの心臓はうるさいほど鳴っている。
帰りたいわけではない。逃げたいわけでもない。けれど、場違いすぎて足が震えるのだ。
「フロール花店より、納品に参りました……」
門番に声をかけると、丁寧に案内される。途中で使用人らしい人に引き継がれ、さらに邸内の一角へ通される。
磨き上げられた床、静かな廊下、飾られた絵画。何もかもが上等で、リネットは歩くだけで緊張した。
案内された先は、陽のよく入る広間だった。そこへ花を運び込み、指定された場所に飾っていく。ひとつ置くたび、空間がふわりとやわらかくなっていくのがわかる。
少しだけ落ち着いてきた、そのときだった。
「やはり君が来たか」
不意に聞こえた低い声に、リネットはほとんど飛び上がった。
振り向いた先にいたのは、アルベルトだった。
今日の彼は視察の日よりもさらに近寄りがたい雰囲気をまとっていた。濃紺の上着は仕立てがよく、襟元には控えめな刺繍。無駄のない立ち姿ひとつで、この邸の主なのだとわかる。
けれど、向けられた眼差しだけは不思議とやわらかかった。
「こ、公爵様……!」
「久しいな、リネット」
久しいと言うほど日数は経っていない気がするが、反論できるはずもない。
「お、お世話になっております……!」
何のお世話だろう。言ってからわからなくなり、リネットはますます混乱した。
アルベルトの視線が花へ移る。
「これを君が選んだのか」
「は、はい」
「見事だ」
短い言葉なのに、まっすぐで、誤魔化しがなかった。
リネットは思わず花束を抱え直す。
「あ、ありがとうございます……」
「季節のやわらかさがある。だが甘くなりすぎない」
そう言って近づいてくる。リネットのすぐそばで足を止め、花に触れそうで触れない距離から眺めた。
「この広間に合うよう考えたのだろう」
「……え」
「違うか?」
「い、いえ、その……はい」
まさにその通りだったので驚いた。花そのものだけでなく、この広間の光や壁の色に合うよう整えたのだ。そんなことまで見抜かれるとは思わなかった。
「よく見ておられるんですね……」
ぽろっと本音が出る。
するとアルベルトは、少しだけ目を細めた。
「見る価値のあるものは見ている」
どきりとした。
なぜだろう。今の言葉は花のことを言っているはずなのに、そう聞こえなかった。
リネットが答えに詰まっていると、アルベルトは静かに告げた。
「今後も、花は君の店に頼もう」
「えっ」
「問題があるか?」
「い、いえ……! 問題なんて、まったく……! むしろ光栄すぎて、ええと、あの……」
口がもつれる。
公爵家から継続して注文をもらえるなんて、店にとっては大変ありがたい話だ。ありがたいどころではない。夢のようだ。けれど、なぜ、そこまで。
リネットが答えを探して目を泳がせていると、アルベルトはほんの少し口元を和らげた。
「そう緊張しなくていい」
「む、無理です……!」
反射的に言ってしまってから、はっとして顔を青くする。
「も、申し訳ありません……!」
だが叱責は飛んでこなかった。
むしろアルベルトは、面白いものを見るようにわずかに笑った。
「正直で結構」
そんなふうに言われると、ますます困る。
どうしたらいいのかわからなくて、リネットは胸元できゅっと手を握った。するとアルベルトの視線がその手元に落ち、すぐにまた顔へ戻る。
「帰りは馬車を出させよう」
「えっ!?」
「花の納品を終えたあとだ。荷も軽くなるだろう」
「だ、大丈夫です、自分で帰れます!」
「この邸から店までは少し距離がある。荷車を押して戻るのは楽ではない」
「で、でも……!」
「遠慮はしなくていい」
穏やかなのに、なぜか押しが強い。
いや、押されているのだと今さら気づく。リネットはたじろぎながら首を振った。
「その、本当に、お気遣いなく……! そんな、恐れ多いですし……!」
「恐れ多い?」
アルベルトが一歩近づく。
ただそれだけで、リネットは息を呑んだ。
「私がそうしたいだけだとしてもか」
「……え」
見上げた先、深い青の瞳が静かにこちらを見ていた。
あまりにも真顔で言うものだから、冗談には聞こえない。
リネットの顔が一気に熱くなる。
「そ、そういうことを、あまり自然に言わないでください……!」
「何かおかしなことを言ったか?」
「お、おかしいです……!」
「そうか」
絶対にわかっていない顔だった。
嘘だ。この人、絶対に少しはわかっている。わかっていて落ち着いている。ずるい。
リネットがわたわたしているあいだに、アルベルトは近くに控えていた使用人へ視線だけで指示を出した。使用人は静かに一礼する。
どうやら、もう馬車の手配は決まってしまったらしい。
なぜこんなに話が早いのか。
リネットが軽くめまいを覚えていると、アルベルトがふと窓辺に飾った花を見て言った。
「やはり、よく馴染む」
あの日と同じような台詞だった。
けれど今回は、その視線が花だけを見ていない気がした。
「……君が選ぶものは、どれもいい」
心臓が、止まるかと思った。
それは褒められているのだろうか。花を? 店を? それとも――。
そこまで考えて、リネットはぶんぶんと頭のなかで否定した。いやいやいや。さすがに違う。そんなはずがない。
相手は公爵様だ。王都でもっとも遠いところにいるような人だ。花屋の娘に、そんな。
けれど動揺は顔に出ていたらしい。
アルベルトはそれを見て、ほんの少しだけ目元をやわらげた。
「また来るといい、リネット」
「わ、私がですか!?」
「花も、君も歓迎しよう」
その瞬間、リネットは本気で声を失った。
花も。
君も。
今、何と言ったのだろう、この人は。
「あ、あの、ええと、あの……!」
必死に何か返そうとするのに、言葉がひとつもまとまらない。顔は熱いし、心臓はうるさいし、頭はぐるぐるするしで、もう散々だ。
そんな彼女をしばらく見つめたあと、アルベルトは静かに言った。
「慌てなくていい」
その声音は、驚くほどやさしかった。
「君はそのままでいい」
やっぱり、その言葉はずるい。
何もできなくなるから。
リネットは真っ赤になったまま、こくりと頷くことしかできなかった。
◇
帰りの馬車のなかで、リネットはずっと膝の上に手を置いて固まっていた。
ふかふかの座席。揺れの少ない車輪。窓の外を流れる王都の景色。何もかもが現実味を欠いている。
「どうして……」
ぽつりと呟いても、答える人はいない。
公爵家から大口の注文が来た。納品に行った。公爵様本人がいた。褒められた。送ってもらっている。
どこからどう考えても、普通ではない。
けれど、だからといって理由がわからない。
店に戻ったら父に何と言おう。たぶん驚く。きっと呆れる。もしかしたら笑うかもしれない。
でも、ひとつだけたしかなのは。
あの日、通りで名前を呼ばれてから、何かが少しずつ動きはじめているということだった。
そしてそれはたぶん、リネットが思っているよりずっと大きくて、ずっと甘くて、ずっと逃げにくいものなのだ。
まだこのときのリネットは、知るはずもなかった。
ヴァレンシュタイン公爵アルベルトが、一度気に入ったものを簡単には手放さない人だということを。
そしてその“気に入ったもの”のなかに、自分が入ってしまっていることも。
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