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第2話 甘やかしが始まりました
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ヴァレンシュタイン公爵家の馬車で送られて帰ったその日、リネットは店の前で荷車を降ろしたあと、しばらくその場から動けなかった。
夕方の光が通りを橙色に染めている。いつもの見慣れた花屋《フロール》の店先も、今日はなんだか別の場所みたいに見えた。
「……夢、ではないですよね……」
ぽつりと呟いて、自分の頬をつねる。
「いひゃい」
痛い。夢ではなさそうだ。
ちょうどその瞬間、店の扉が勢いよく開いた。
「リネット!?」
飛び出してきたのは父のミハイルだった。店の奥でずっとそわそわ待っていたのだろう、娘の姿を見るなり、ほっとしたような顔になる。
「おかえり。遅かったから心配したぞ」
「た、ただいま戻りました……」
「……なんでそんな顔してる」
「え?」
「魂が半分抜けてる」
言われて、リネットは慌てて頬に手を当てた。そんなに変な顔をしていたのだろうか。
たぶんしていた。
なにしろ帰り道の記憶があまりない。馬車のなかで公爵の言葉を思い返しては赤くなり、思い返しては首を振り、最終的には「考えてもわからない……」という結論にしかならなかったのだから。
父が荷車を覗き込みながら聞く。
「納品は無事終わったか?」
「は、はい。たぶん……」
「たぶん?」
「ちゃんと飾れましたし、お花も褒めていただけました」
「それはよかったじゃねえか」
「あと、帰りは馬車で送っていただいて……」
「……は?」
父の動きがぴたりと止まった。
リネットはこくりと頷く。
「公爵様が、そうしろと……」
しん、と一瞬だけ沈黙が落ちた。
次の瞬間、父はものすごく遠い目をした。
「おい、リネット」
「は、はい」
「おまえ、公爵閣下に何した」
「何もしてません!」
全力で否定してしまった。
していない。本当にしていない。花を届けて、緊張して、しどろもどろになって、気づけば馬車を出されていただけだ。……改めて振り返ると、やっぱり意味がわからない。
「私、何か失礼があったのかと思って、ずっとどきどきしていたんですけど……怒られることはなくて……」
「怒られるどころか送ってもらったんだろう?」
「はい……」
「うーん」
父は腕を組み、難しい顔になる。
その横顔は、どう見ても「公爵様は何を考えてるんだ」という顔だった。リネットも同じことを思っているので何も言えない。
店のなかへ入ると、まだ花の香りが濃く残っていた。今日の営業はそろそろ終わりに近く、売れ残った花をまとめた桶がいくつか並んでいる。いつもならこの匂いを吸えば落ち着くのに、今日は落ち着くどころか心臓の鼓動がまた変に早くなった。
父が注文台の前に座りながら言う。
「公爵閣下は、他に何か言ってたか?」
「ええと……その、花が見事だと」
「ほう」
「あと、今後も花はうちに頼むと……」
「……ほう」
「それから……」
リネットはそこで詰まった。
父が怪訝そうに眉を上げる。
「それから?」
言うべきだろうか。
花も、君も歓迎しよう。
君はそのままでいい。
あの言葉をそのまま父に伝えるのは、なんだか妙に恥ずかしい。いや、恥ずかしいというより、声に出した途端、意味がはっきりしてしまいそうで怖かった。
「…………」
「リネット?」
「その……少し、お優しかったです」
「少しで済むか?」
父の即答に、リネットは思わず口を閉じた。
たしかに、少しではないかもしれない。だがでは何だというのか、と問われても困る。公爵様の考えていることなんて、花屋の娘にわかるわけがないではないか。
「と、とにかく! お店にとっては良いことですよね!」
無理やり話を戻すと、父はあっさり頷いた。
「それはそうだ。公爵家との取引なんて滅多にないし、ありがたい話だ」
「ですよね」
「ただし」
「ただし?」
「おまえが無理するなら別だ」
リネットは目を丸くした。
父は少しだけ眉尻を下げて笑う。
「相手が公爵家だろうが何だろうが、うちは花屋だ。花を届けるのが仕事だ。けど、おまえがずっと顔を青くして帰ってくるようなら考えもんだからな」
「お父さん……」
「もちろん、顔を赤くして帰ってくるのも、別の意味で考えもんだが」
「なっ」
思わず声が裏返った。
父はにやにやしている。からかっているのが丸わかりで、リネットは頬を熱くしながら反論した。
「ち、違います! そんなんじゃありません!」
「何が?」
「……!」
やられた。
まだ何も言っていないのに。
リネットは真っ赤になったまま、手近な花桶を持ち上げて奥へ逃げた。背後で父の笑い声が聞こえる。ひどい。娘がこんなに混乱しているのに、父は呑気すぎる。
とはいえ、あまり強くは怒れない。
自分でも、今日は少し、変だったと思うからだ。
◇
翌朝。
店を開けてすぐに、近所のパン屋の娘で親友のサラがやってきた。
「リネット! 聞いたよ!」
「ひゃっ」
朝一番から勢いよく両肩を掴まれ、リネットは小さく跳ねた。
サラ・ウェンディは、栗色の髪を高い位置でまとめた快活な娘だ。明るくて面倒見がよく、近所でも評判のパン屋《ウェンディ》の看板娘でもある。恋バナが大好物で、他人の色恋の気配にはとにかく敏い。
そのサラが、今、目を輝かせていた。
「公爵家の馬車で帰ってきたって本当!?」
「ど、どうしてもう広まってるの!?」
「目立つもの。紋章入りの立派な馬車がここに止まったら、通りじゅうの人が見るに決まってるでしょ」
「うう……」
それはそうだ。
昨夜は動揺のあまりそこまで考えていなかったが、冷静に思えば、あんな立派な馬車が花屋の前に停まれば大騒ぎになるに決まっている。
サラはずいっと顔を寄せてくる。
「で? 何があったの?」
「な、何って……花を納品して、帰りに送っていただいただけで……」
「だけ、じゃないのよそれは」
「そうかな……」
「そうなのよ!」
びしりと言い切られて、リネットはしゅんと肩をすくめた。
店先の花を整えながら、ぽつぽつと昨日のことを話す。公爵家から注文があったこと。納品に行ったこと。公爵本人がいたこと。花を褒められたこと。継続して頼むと言われたこと。馬車を出されたこと。
そこまで聞いたサラは、腕を組んでうなった。
「……それ、かなり気に入られてると思う」
「やっぱりそういう意味になる!?」
「逆にどういう意味だと思ってたの?」
「お店の花を気に入ってくださったのかなって……」
「それはそうでしょうね。でも、花だけじゃなくてリネット本人も気にしてる感じがする」
「しません!」
反射で否定してしまった。
するとサラはじとっとした目になる。
「昨日の夜、眠れなかった顔してるくせに?」
「……う」
図星だった。
昨夜、寝台に入ってから何度も寝返りを打ったのは事実だ。公爵の言葉を思い出しては胸がざわついて、ようやく眠れたと思ったら、今度は夢のなかでまで「君はそのままでいい」などと言われてしまった。大変心臓に悪かった。
「リネット、そういうところよ」
「どういうところ……?」
「自分が可愛いって無自覚なところ」
「か、可愛くないよ!」
「可愛いの」
即答である。
しかも真顔だ。茶化しているふうでもない。リネットはますます困ってしまって、店先の薔薇を一本ずつ並べ直した。並びはさっき整えたばかりなのに、手を動かしていないと落ち着かない。
サラはそんなリネットを見ながら、ふっと笑う。
「まあでも、悪い話じゃなさそう」
「え?」
「だって、公爵様、少なくともリネットを雑に扱ってないでしょ?」
「それは……はい」
むしろ、丁寧すぎるくらいだ。
それがいちばん困るのだけれど。
「なら、今は様子見でいいんじゃない?」とサラは言った。「無理に意味を決めなくても、公爵様が何考えてるかなんて、会ってればそのうち見えてくるかもしれないし」
「会ってればって……そんなに何度も会うことになるのかな」
「なるでしょ。継続して注文入るんでしょ?」
「……そうでした」
言われてみればその通りだった。
公爵家から花の注文が続くなら、また納品に行くことになる。場合によっては、今後も公爵本人に会うかもしれない。
その可能性をあらためて意識した瞬間、リネットの心臓がまた変な跳ね方をした。
サラはにやりと笑う。
「ほら赤い」
「赤くないです!」
「赤いよ」
「うう……」
勝てない。
親友というのは、どうしてこうも見抜くのが早いのだろう。
◇
その日の昼過ぎ、店は思いがけず忙しかった。
近所の宿屋に飾る花の注文が入り、常連客が立て続けに訪れ、鉢植えを見に来た年配の夫婦の相談にも乗る。忙しく働いているうちに、昨日から続いていたもやもやは少し薄れていった。
やはりリネットは、花に触れていると落ち着く。
色を見て、水を替え、葉を整え、誰かのために組み合わせを考える。そうしているあいだは余計なことを考えなくて済む。
「この薔薇とこの小花なら、お部屋がぱっと明るくなりますよ」
「まあ、素敵ねえ」
客の笑顔を見ると、リネットも自然と笑顔になる。
そう、こういう毎日でいいのだ。公爵様のことはたしかに気になるけれど、だからといって自分の暮らしが急に変わるわけじゃない。
――そう思っていたのに。
「フロール花店はこちらでしょうか」
店の前から、落ち着いた男の声がした。
振り向くと、そこには上質な黒の服を着た壮年の男性が立っていた。姿勢がよく、髪にはきっちりと白いものが混じっている。いかにも有能そうな人だ。
「は、はい。そうですけれど……」
「ヴァレンシュタイン公爵家より参りました、クラウス・ベルンと申します」
リネットはその場で固まった。
公爵家。
また。
しかも今度は、なんだかすごく立派そうな人が来た。
奥から父も飛び出してくる。
「こ、公爵家の……!」
「先日の花、旦那様が大変お気に召されました」
クラウスと名乗った男は、一分の隙もない礼をした。
「本日は追加のご相談に参った次第です」
「つ、追加……?」
「はい」
さらりと言われて、リネットと父は顔を見合わせた。
クラウスは店内の花々を見回し、それから視線をリネットに戻した。その目は穏やかだが、細かいところまできちんと見ている人の目だった。
「もし可能でしたら、今後は定期的に、邸内のいくつかの部屋にも花をお願いしたいとのことです」
「いくつかの、部屋……?」
「応接間、談話室、書斎、食堂、来客用の小広間などを想定しております」
「そんなに……!?」
思わず声が大きくなった。
花屋《フロール》は小さな店ではないが、公爵邸ひとつをまるごと相手にするには大きくもない。もちろんありがたい話ではあるのだが、規模が大きすぎて一瞬くらくらする。
父が咳払いをしてから尋ねた。
「それは、その……うちで対応できる範囲でよろしければ、ぜひ、とは思いますが……」
「無理のない範囲で結構です」とクラウスは即座に答えた。「旦那様もそのように申しておりました」
旦那様。
つまり公爵様が。
リネットは胸のあたりがそわつくのを感じながら、小さく口を開いた。
「あの……公爵様が、そのように?」
「ええ。『負担になるなら本意ではない』と」
クラウスの声色は終始穏やかだったが、その一言だけで、リネットの胸が変に熱くなった。
負担になるなら本意ではない。
そんな言い方をする人なのだ。あの人は。
押しが強いようでいて、こちらが困ることは望んでいない。そういうところが、余計にずるい。
クラウスは続けた。
「また、旦那様よりこちらもお預かりしております」
差し出されたのは、艶のある箱だった。小ぶりだが、見るからに上等な品だ。
「えっ」
「先日の納品への謝意とのことです」
「しゃ、謝意……!?」
リネットは反射的に父を見た。父も目を丸くしている。こんな立派な箱をさらっと渡されていいはずがない。
「お、お受けできません!」
慌てて両手を振ると、クラウスは少しだけ困ったように微笑んだ。
「そうおっしゃるだろうと存じておりました」
「でしたら……!」
「ですが、旦那様は『断られても置いてこい』と」
「なぜですか!?」
つい叫んでしまった。
クラウスの目元に、ほんのわずかに笑いが浮かぶ。
「旦那様なりのお気遣いでしょう」
お気遣いの圧がすごい。
リネットは箱とクラウスを交互に見た。どう考えても高価そうだ。受け取るには恐れ多い。だが受け取らないわけにもいかなそうだ。公爵様はたぶん、断られるところまで見越している。
あの穏やかな顔でそこまで先回りするの、少しずるくないですか――と心のなかだけで訴える。
父がそっと口を開いた。
「……中身を伺っても?」
「焼き菓子です」
「焼き菓子」
「王都でも評判の菓子店のものを」
それならまだ受け取りやすい……いや、受け取りやすくはないが、宝飾品や布地ではなかっただけだいぶましだ。
リネットが戸惑っていると、クラウスはあくまで丁寧に告げた。
「旦那様は、先日の花をたいそう喜んでおられました。ですので、どうかお気になさらず」
その言い方が妙に優しくて、リネットはとうとう強く断れなくなってしまった。
「……あ、ありがとうございます……」
「お受け取りいただけて何よりです」
クラウスはきっちりと礼をし、それから次の定期注文について父と簡単な打ち合わせをして帰っていった。
店先に静けさが戻る。
そして残ったのは、花屋には少し場違いなくらい立派な焼き菓子の箱と、呆然とした父娘だけだった。
「……リネット」
「はい……」
「甘やかされてないか?」
「わ、私もそう思います……」
リネットは両手で顔を覆った。
まだ二回しか会っていないのに。
どうしてこんなことになるのだろう。
◇
箱を開けてみると、中には丁寧に並べられた焼き菓子が入っていた。小さな花の形をしたものまである。可愛い。可愛いが、可愛いで済ませていい話なのかはわからない。
夕方、サラがまた顔を出したので事情を話すと、親友は天井を仰いだ。
「それ、かなり本気でしょ」
「まだ言うの!?」
「言うよ。だって継続注文に加えて差し入れまできたんだよ?」
「でも、お店への謝意かもしれないし……」
「公爵家の老執事がわざわざ持ってくる時点で、もう“ついで”の域を超えてるのよ」
たしかにそうかもしれない。
リネットは菓子箱を見下ろした。花の形の焼き菓子は、見れば見るほど自分の好みに合っている気がしてくる。偶然かもしれない。けれどもし偶然でなかったら、と思うとまた胸が変に騒いだ。
サラがひとつ摘まんで口に入れる。
「おいしい」
「勝手に食べた」
「こういうとき毒見役は必要でしょ」
「いらない役目だと思う……」
でも、サラがいてくれて少し落ち着いた。ひとりで抱えていると、何もかも大げさに思えてくるからだ。
親友はもぐもぐしながら言う。
「まあ、公爵様がどういうつもりでも、リネットが嫌じゃないならいいんじゃない?」
「嫌、ではないけど……」
「困る?」
「困る……というか、心臓がもたない……」
素直にそう言うと、サラは吹き出した。
「それはもうだいぶ駄目じゃない」
「駄目って何!?」
「好きになりかけてる人の言い分なのよ、それ」
「違うもん!」
即座に否定したものの、語尾が弱くなる。
好き。
その言葉が頭のなかで転がって、リネットは慌てて首を振った。
そんなわけがない。まだ二回しか会っていない。しかも相手は公爵様だ。遠すぎる。眩しすぎる。よく知らない。なのにそんなふうに考えるなんて、身のほど知らずにもほどがある。
けれど、嫌ではない。
困るくらいにどきどきするだけで。
「ほら」とサラがにやりとする。「否定しきれてない」
「うう……」
また負けた。
◇
その数日後、公爵家から二度目の定期注文が入った。
前回より少し量が多い。書斎と応接間用で、落ち着いた色合いを中心に、とのことだった。注文の細やかさから、リネットは自然と前より真剣に花を選ぶようになった。
相手が公爵家だから、というだけではない。
あの人が見るのだと思うと、いい加減なものは作りたくなかった。
「……だめだ、これじゃ少し硬いかな」
白い花を一本抜き、代わりに薄紫の小花を入れる。すると全体の表情が柔らかくなった。
父が横から覗き込む。
「悩んでるなあ」
「だって、書斎と応接間では雰囲気も違いますし……」
「真面目だねえ」
「仕事ですから」
そう言いながらも、胸の奥には少し別の感情があった。
公爵様が、見てくれるかもしれない。
花を見て、また何か言ってくれるかもしれない。
そんなことを期待している自分に気づくと、リネットはひどく落ち着かなくなる。
結局、前回と同じく自分で納品に行くことになった。
公爵邸の門が見えてきた瞬間、やっぱり心臓はうるさくなる。慣れない。慣れるはずがない。
だが前回と違ったのは、門をくぐるとすぐ、若い侍女がにこやかに迎えてくれたことだった。
「フロール様ですね。お待ちしておりました」
「は、はい……」
「どうぞこちらへ」
柔らかな物腰に少しほっとする。侍女はエマと名乗り、手際よく邸内へ案内してくれた。途中で「先日のお花、とても素敵でした」と言われ、リネットは恐縮してしまう。
「そ、そんな……」
「旦那様も何度かご覧になっていましたよ」
「えっ」
足が止まりかけた。
エマはくすっと笑う。
「書斎に飾ったお花、特にお気に召したようです」
胸が、どきんと跳ねた。
公爵様が花を見ていた。
いや、当然見はするだろうけれど、“何度か”という言い方がずるい。そんなふうに聞かされたら、どうしたって意識してしまうではないか。
案内された書斎は、静かで落ち着いた部屋だった。本棚が壁一面に並び、窓から入る光もやわらかい。そこへ持ってきた花を飾ると、たしかに前回よりしっくり馴染む気がする。
「うん……」
小さく頷いた、そのとき。
「やはり君が整えると違うな」
背後から聞こえた声に、リネットは危うく花器を落としかけた。
「ひゃ……っ!」
慌てて振り返る。
そこにいたのは、やはりアルベルトだった。
今日の彼は書斎にいたからか、前回より少しだけ肩の力が抜けた雰囲気をまとっていた。それでも圧倒的に整っていて、立っているだけで絵になることに変わりはない。
「す、すみません、驚いて……!」
「驚かせたなら悪かった」
そう言いながら、あまり悪かったと思っていなさそうな落ち着いた声だった。ずるい。
アルベルトは書斎の花を見て、それからリネットへ視線を移す。
「今回の花もいい」
「あ、ありがとうございます……」
「この部屋には前回のものより合う」
「そう思って、少し落ち着いた色にしました」
「よくわかっている」
さらりと褒められ、リネットはまた顔が熱くなる。
褒められるたびにこうなるの、どうにかならないのだろうか。自分でも情けない。だが仕方がない。公爵様に真正面から褒められて平然としていられるほど、図太くはできていない。
アルベルトは一歩近づくと、テーブルの上に小さな包みを置いた。
「これも持って帰るといい」
「えっ、またですか!?」
「先日、焼き菓子は嫌いではなかっただろう」
「な、なんでご存じなんですか!?」
「嫌いなら、あの執事がそれとなく把握してくる」
「クラウスさんが!?」
公爵家の情報収集能力がこわい。
リネットがわなわなしていると、アルベルトの口元がわずかに和らいだ。
「今回は花茶だ」
「はな、ちゃ……」
「花を扱う君なら嫌いではないかと思ってな」
包みを見下ろして、リネットは言葉を失った。
高価そうだとか、恐れ多いとか、そういう前に。
どうしてそんなふうに、自分のことを考えたものを選んでくるのだろう。
それが嬉しいと思ってしまうから、困るのに。
「公爵様……」
「無理に受け取れとは言わない」
アルベルトは静かに言った。
「ただ、君が慌ただしく働く合間に、一息つく時間があればいいと思っただけだ」
だめだ、と思った。
そんな言い方をされたら、断れるはずがない。
リネットはぎゅっと包みを見つめてから、そっと両手を差し出した。
「……ありがとうございます」
「そうか」
たったそれだけで、アルベルトの表情がわずかにやわらいだ気がした。
それを見てしまった瞬間、リネットの胸はさらに忙しくなる。
この人は本当にずるい。
何も強く言わないくせに、逃げ道だけきれいに塞いでくる。
「帰りは、また馬車を……?」
おそるおそる尋ねると、アルベルトは当然のように頷いた。
「そのつもりだが」
「やっぱり……」
「嫌か?」
真っ直ぐに聞かれて、リネットは言葉に詰まる。
嫌ではない。
嫌ではないのだ。困るだけで。
「……嫌、ではありません」
正直に答えると、アルベルトは少しだけ目を細めた。
「ならよかった」
そのひと言が、どうしてこんなに嬉しく聞こえるのだろう。
リネットは自分でもわからないまま、ただ俯いて、熱くなった頬を隠すことしかできなかった。
甘やかしは、どうやら本当に始まってしまったらしい。
夕方の光が通りを橙色に染めている。いつもの見慣れた花屋《フロール》の店先も、今日はなんだか別の場所みたいに見えた。
「……夢、ではないですよね……」
ぽつりと呟いて、自分の頬をつねる。
「いひゃい」
痛い。夢ではなさそうだ。
ちょうどその瞬間、店の扉が勢いよく開いた。
「リネット!?」
飛び出してきたのは父のミハイルだった。店の奥でずっとそわそわ待っていたのだろう、娘の姿を見るなり、ほっとしたような顔になる。
「おかえり。遅かったから心配したぞ」
「た、ただいま戻りました……」
「……なんでそんな顔してる」
「え?」
「魂が半分抜けてる」
言われて、リネットは慌てて頬に手を当てた。そんなに変な顔をしていたのだろうか。
たぶんしていた。
なにしろ帰り道の記憶があまりない。馬車のなかで公爵の言葉を思い返しては赤くなり、思い返しては首を振り、最終的には「考えてもわからない……」という結論にしかならなかったのだから。
父が荷車を覗き込みながら聞く。
「納品は無事終わったか?」
「は、はい。たぶん……」
「たぶん?」
「ちゃんと飾れましたし、お花も褒めていただけました」
「それはよかったじゃねえか」
「あと、帰りは馬車で送っていただいて……」
「……は?」
父の動きがぴたりと止まった。
リネットはこくりと頷く。
「公爵様が、そうしろと……」
しん、と一瞬だけ沈黙が落ちた。
次の瞬間、父はものすごく遠い目をした。
「おい、リネット」
「は、はい」
「おまえ、公爵閣下に何した」
「何もしてません!」
全力で否定してしまった。
していない。本当にしていない。花を届けて、緊張して、しどろもどろになって、気づけば馬車を出されていただけだ。……改めて振り返ると、やっぱり意味がわからない。
「私、何か失礼があったのかと思って、ずっとどきどきしていたんですけど……怒られることはなくて……」
「怒られるどころか送ってもらったんだろう?」
「はい……」
「うーん」
父は腕を組み、難しい顔になる。
その横顔は、どう見ても「公爵様は何を考えてるんだ」という顔だった。リネットも同じことを思っているので何も言えない。
店のなかへ入ると、まだ花の香りが濃く残っていた。今日の営業はそろそろ終わりに近く、売れ残った花をまとめた桶がいくつか並んでいる。いつもならこの匂いを吸えば落ち着くのに、今日は落ち着くどころか心臓の鼓動がまた変に早くなった。
父が注文台の前に座りながら言う。
「公爵閣下は、他に何か言ってたか?」
「ええと……その、花が見事だと」
「ほう」
「あと、今後も花はうちに頼むと……」
「……ほう」
「それから……」
リネットはそこで詰まった。
父が怪訝そうに眉を上げる。
「それから?」
言うべきだろうか。
花も、君も歓迎しよう。
君はそのままでいい。
あの言葉をそのまま父に伝えるのは、なんだか妙に恥ずかしい。いや、恥ずかしいというより、声に出した途端、意味がはっきりしてしまいそうで怖かった。
「…………」
「リネット?」
「その……少し、お優しかったです」
「少しで済むか?」
父の即答に、リネットは思わず口を閉じた。
たしかに、少しではないかもしれない。だがでは何だというのか、と問われても困る。公爵様の考えていることなんて、花屋の娘にわかるわけがないではないか。
「と、とにかく! お店にとっては良いことですよね!」
無理やり話を戻すと、父はあっさり頷いた。
「それはそうだ。公爵家との取引なんて滅多にないし、ありがたい話だ」
「ですよね」
「ただし」
「ただし?」
「おまえが無理するなら別だ」
リネットは目を丸くした。
父は少しだけ眉尻を下げて笑う。
「相手が公爵家だろうが何だろうが、うちは花屋だ。花を届けるのが仕事だ。けど、おまえがずっと顔を青くして帰ってくるようなら考えもんだからな」
「お父さん……」
「もちろん、顔を赤くして帰ってくるのも、別の意味で考えもんだが」
「なっ」
思わず声が裏返った。
父はにやにやしている。からかっているのが丸わかりで、リネットは頬を熱くしながら反論した。
「ち、違います! そんなんじゃありません!」
「何が?」
「……!」
やられた。
まだ何も言っていないのに。
リネットは真っ赤になったまま、手近な花桶を持ち上げて奥へ逃げた。背後で父の笑い声が聞こえる。ひどい。娘がこんなに混乱しているのに、父は呑気すぎる。
とはいえ、あまり強くは怒れない。
自分でも、今日は少し、変だったと思うからだ。
◇
翌朝。
店を開けてすぐに、近所のパン屋の娘で親友のサラがやってきた。
「リネット! 聞いたよ!」
「ひゃっ」
朝一番から勢いよく両肩を掴まれ、リネットは小さく跳ねた。
サラ・ウェンディは、栗色の髪を高い位置でまとめた快活な娘だ。明るくて面倒見がよく、近所でも評判のパン屋《ウェンディ》の看板娘でもある。恋バナが大好物で、他人の色恋の気配にはとにかく敏い。
そのサラが、今、目を輝かせていた。
「公爵家の馬車で帰ってきたって本当!?」
「ど、どうしてもう広まってるの!?」
「目立つもの。紋章入りの立派な馬車がここに止まったら、通りじゅうの人が見るに決まってるでしょ」
「うう……」
それはそうだ。
昨夜は動揺のあまりそこまで考えていなかったが、冷静に思えば、あんな立派な馬車が花屋の前に停まれば大騒ぎになるに決まっている。
サラはずいっと顔を寄せてくる。
「で? 何があったの?」
「な、何って……花を納品して、帰りに送っていただいただけで……」
「だけ、じゃないのよそれは」
「そうかな……」
「そうなのよ!」
びしりと言い切られて、リネットはしゅんと肩をすくめた。
店先の花を整えながら、ぽつぽつと昨日のことを話す。公爵家から注文があったこと。納品に行ったこと。公爵本人がいたこと。花を褒められたこと。継続して頼むと言われたこと。馬車を出されたこと。
そこまで聞いたサラは、腕を組んでうなった。
「……それ、かなり気に入られてると思う」
「やっぱりそういう意味になる!?」
「逆にどういう意味だと思ってたの?」
「お店の花を気に入ってくださったのかなって……」
「それはそうでしょうね。でも、花だけじゃなくてリネット本人も気にしてる感じがする」
「しません!」
反射で否定してしまった。
するとサラはじとっとした目になる。
「昨日の夜、眠れなかった顔してるくせに?」
「……う」
図星だった。
昨夜、寝台に入ってから何度も寝返りを打ったのは事実だ。公爵の言葉を思い出しては胸がざわついて、ようやく眠れたと思ったら、今度は夢のなかでまで「君はそのままでいい」などと言われてしまった。大変心臓に悪かった。
「リネット、そういうところよ」
「どういうところ……?」
「自分が可愛いって無自覚なところ」
「か、可愛くないよ!」
「可愛いの」
即答である。
しかも真顔だ。茶化しているふうでもない。リネットはますます困ってしまって、店先の薔薇を一本ずつ並べ直した。並びはさっき整えたばかりなのに、手を動かしていないと落ち着かない。
サラはそんなリネットを見ながら、ふっと笑う。
「まあでも、悪い話じゃなさそう」
「え?」
「だって、公爵様、少なくともリネットを雑に扱ってないでしょ?」
「それは……はい」
むしろ、丁寧すぎるくらいだ。
それがいちばん困るのだけれど。
「なら、今は様子見でいいんじゃない?」とサラは言った。「無理に意味を決めなくても、公爵様が何考えてるかなんて、会ってればそのうち見えてくるかもしれないし」
「会ってればって……そんなに何度も会うことになるのかな」
「なるでしょ。継続して注文入るんでしょ?」
「……そうでした」
言われてみればその通りだった。
公爵家から花の注文が続くなら、また納品に行くことになる。場合によっては、今後も公爵本人に会うかもしれない。
その可能性をあらためて意識した瞬間、リネットの心臓がまた変な跳ね方をした。
サラはにやりと笑う。
「ほら赤い」
「赤くないです!」
「赤いよ」
「うう……」
勝てない。
親友というのは、どうしてこうも見抜くのが早いのだろう。
◇
その日の昼過ぎ、店は思いがけず忙しかった。
近所の宿屋に飾る花の注文が入り、常連客が立て続けに訪れ、鉢植えを見に来た年配の夫婦の相談にも乗る。忙しく働いているうちに、昨日から続いていたもやもやは少し薄れていった。
やはりリネットは、花に触れていると落ち着く。
色を見て、水を替え、葉を整え、誰かのために組み合わせを考える。そうしているあいだは余計なことを考えなくて済む。
「この薔薇とこの小花なら、お部屋がぱっと明るくなりますよ」
「まあ、素敵ねえ」
客の笑顔を見ると、リネットも自然と笑顔になる。
そう、こういう毎日でいいのだ。公爵様のことはたしかに気になるけれど、だからといって自分の暮らしが急に変わるわけじゃない。
――そう思っていたのに。
「フロール花店はこちらでしょうか」
店の前から、落ち着いた男の声がした。
振り向くと、そこには上質な黒の服を着た壮年の男性が立っていた。姿勢がよく、髪にはきっちりと白いものが混じっている。いかにも有能そうな人だ。
「は、はい。そうですけれど……」
「ヴァレンシュタイン公爵家より参りました、クラウス・ベルンと申します」
リネットはその場で固まった。
公爵家。
また。
しかも今度は、なんだかすごく立派そうな人が来た。
奥から父も飛び出してくる。
「こ、公爵家の……!」
「先日の花、旦那様が大変お気に召されました」
クラウスと名乗った男は、一分の隙もない礼をした。
「本日は追加のご相談に参った次第です」
「つ、追加……?」
「はい」
さらりと言われて、リネットと父は顔を見合わせた。
クラウスは店内の花々を見回し、それから視線をリネットに戻した。その目は穏やかだが、細かいところまできちんと見ている人の目だった。
「もし可能でしたら、今後は定期的に、邸内のいくつかの部屋にも花をお願いしたいとのことです」
「いくつかの、部屋……?」
「応接間、談話室、書斎、食堂、来客用の小広間などを想定しております」
「そんなに……!?」
思わず声が大きくなった。
花屋《フロール》は小さな店ではないが、公爵邸ひとつをまるごと相手にするには大きくもない。もちろんありがたい話ではあるのだが、規模が大きすぎて一瞬くらくらする。
父が咳払いをしてから尋ねた。
「それは、その……うちで対応できる範囲でよろしければ、ぜひ、とは思いますが……」
「無理のない範囲で結構です」とクラウスは即座に答えた。「旦那様もそのように申しておりました」
旦那様。
つまり公爵様が。
リネットは胸のあたりがそわつくのを感じながら、小さく口を開いた。
「あの……公爵様が、そのように?」
「ええ。『負担になるなら本意ではない』と」
クラウスの声色は終始穏やかだったが、その一言だけで、リネットの胸が変に熱くなった。
負担になるなら本意ではない。
そんな言い方をする人なのだ。あの人は。
押しが強いようでいて、こちらが困ることは望んでいない。そういうところが、余計にずるい。
クラウスは続けた。
「また、旦那様よりこちらもお預かりしております」
差し出されたのは、艶のある箱だった。小ぶりだが、見るからに上等な品だ。
「えっ」
「先日の納品への謝意とのことです」
「しゃ、謝意……!?」
リネットは反射的に父を見た。父も目を丸くしている。こんな立派な箱をさらっと渡されていいはずがない。
「お、お受けできません!」
慌てて両手を振ると、クラウスは少しだけ困ったように微笑んだ。
「そうおっしゃるだろうと存じておりました」
「でしたら……!」
「ですが、旦那様は『断られても置いてこい』と」
「なぜですか!?」
つい叫んでしまった。
クラウスの目元に、ほんのわずかに笑いが浮かぶ。
「旦那様なりのお気遣いでしょう」
お気遣いの圧がすごい。
リネットは箱とクラウスを交互に見た。どう考えても高価そうだ。受け取るには恐れ多い。だが受け取らないわけにもいかなそうだ。公爵様はたぶん、断られるところまで見越している。
あの穏やかな顔でそこまで先回りするの、少しずるくないですか――と心のなかだけで訴える。
父がそっと口を開いた。
「……中身を伺っても?」
「焼き菓子です」
「焼き菓子」
「王都でも評判の菓子店のものを」
それならまだ受け取りやすい……いや、受け取りやすくはないが、宝飾品や布地ではなかっただけだいぶましだ。
リネットが戸惑っていると、クラウスはあくまで丁寧に告げた。
「旦那様は、先日の花をたいそう喜んでおられました。ですので、どうかお気になさらず」
その言い方が妙に優しくて、リネットはとうとう強く断れなくなってしまった。
「……あ、ありがとうございます……」
「お受け取りいただけて何よりです」
クラウスはきっちりと礼をし、それから次の定期注文について父と簡単な打ち合わせをして帰っていった。
店先に静けさが戻る。
そして残ったのは、花屋には少し場違いなくらい立派な焼き菓子の箱と、呆然とした父娘だけだった。
「……リネット」
「はい……」
「甘やかされてないか?」
「わ、私もそう思います……」
リネットは両手で顔を覆った。
まだ二回しか会っていないのに。
どうしてこんなことになるのだろう。
◇
箱を開けてみると、中には丁寧に並べられた焼き菓子が入っていた。小さな花の形をしたものまである。可愛い。可愛いが、可愛いで済ませていい話なのかはわからない。
夕方、サラがまた顔を出したので事情を話すと、親友は天井を仰いだ。
「それ、かなり本気でしょ」
「まだ言うの!?」
「言うよ。だって継続注文に加えて差し入れまできたんだよ?」
「でも、お店への謝意かもしれないし……」
「公爵家の老執事がわざわざ持ってくる時点で、もう“ついで”の域を超えてるのよ」
たしかにそうかもしれない。
リネットは菓子箱を見下ろした。花の形の焼き菓子は、見れば見るほど自分の好みに合っている気がしてくる。偶然かもしれない。けれどもし偶然でなかったら、と思うとまた胸が変に騒いだ。
サラがひとつ摘まんで口に入れる。
「おいしい」
「勝手に食べた」
「こういうとき毒見役は必要でしょ」
「いらない役目だと思う……」
でも、サラがいてくれて少し落ち着いた。ひとりで抱えていると、何もかも大げさに思えてくるからだ。
親友はもぐもぐしながら言う。
「まあ、公爵様がどういうつもりでも、リネットが嫌じゃないならいいんじゃない?」
「嫌、ではないけど……」
「困る?」
「困る……というか、心臓がもたない……」
素直にそう言うと、サラは吹き出した。
「それはもうだいぶ駄目じゃない」
「駄目って何!?」
「好きになりかけてる人の言い分なのよ、それ」
「違うもん!」
即座に否定したものの、語尾が弱くなる。
好き。
その言葉が頭のなかで転がって、リネットは慌てて首を振った。
そんなわけがない。まだ二回しか会っていない。しかも相手は公爵様だ。遠すぎる。眩しすぎる。よく知らない。なのにそんなふうに考えるなんて、身のほど知らずにもほどがある。
けれど、嫌ではない。
困るくらいにどきどきするだけで。
「ほら」とサラがにやりとする。「否定しきれてない」
「うう……」
また負けた。
◇
その数日後、公爵家から二度目の定期注文が入った。
前回より少し量が多い。書斎と応接間用で、落ち着いた色合いを中心に、とのことだった。注文の細やかさから、リネットは自然と前より真剣に花を選ぶようになった。
相手が公爵家だから、というだけではない。
あの人が見るのだと思うと、いい加減なものは作りたくなかった。
「……だめだ、これじゃ少し硬いかな」
白い花を一本抜き、代わりに薄紫の小花を入れる。すると全体の表情が柔らかくなった。
父が横から覗き込む。
「悩んでるなあ」
「だって、書斎と応接間では雰囲気も違いますし……」
「真面目だねえ」
「仕事ですから」
そう言いながらも、胸の奥には少し別の感情があった。
公爵様が、見てくれるかもしれない。
花を見て、また何か言ってくれるかもしれない。
そんなことを期待している自分に気づくと、リネットはひどく落ち着かなくなる。
結局、前回と同じく自分で納品に行くことになった。
公爵邸の門が見えてきた瞬間、やっぱり心臓はうるさくなる。慣れない。慣れるはずがない。
だが前回と違ったのは、門をくぐるとすぐ、若い侍女がにこやかに迎えてくれたことだった。
「フロール様ですね。お待ちしておりました」
「は、はい……」
「どうぞこちらへ」
柔らかな物腰に少しほっとする。侍女はエマと名乗り、手際よく邸内へ案内してくれた。途中で「先日のお花、とても素敵でした」と言われ、リネットは恐縮してしまう。
「そ、そんな……」
「旦那様も何度かご覧になっていましたよ」
「えっ」
足が止まりかけた。
エマはくすっと笑う。
「書斎に飾ったお花、特にお気に召したようです」
胸が、どきんと跳ねた。
公爵様が花を見ていた。
いや、当然見はするだろうけれど、“何度か”という言い方がずるい。そんなふうに聞かされたら、どうしたって意識してしまうではないか。
案内された書斎は、静かで落ち着いた部屋だった。本棚が壁一面に並び、窓から入る光もやわらかい。そこへ持ってきた花を飾ると、たしかに前回よりしっくり馴染む気がする。
「うん……」
小さく頷いた、そのとき。
「やはり君が整えると違うな」
背後から聞こえた声に、リネットは危うく花器を落としかけた。
「ひゃ……っ!」
慌てて振り返る。
そこにいたのは、やはりアルベルトだった。
今日の彼は書斎にいたからか、前回より少しだけ肩の力が抜けた雰囲気をまとっていた。それでも圧倒的に整っていて、立っているだけで絵になることに変わりはない。
「す、すみません、驚いて……!」
「驚かせたなら悪かった」
そう言いながら、あまり悪かったと思っていなさそうな落ち着いた声だった。ずるい。
アルベルトは書斎の花を見て、それからリネットへ視線を移す。
「今回の花もいい」
「あ、ありがとうございます……」
「この部屋には前回のものより合う」
「そう思って、少し落ち着いた色にしました」
「よくわかっている」
さらりと褒められ、リネットはまた顔が熱くなる。
褒められるたびにこうなるの、どうにかならないのだろうか。自分でも情けない。だが仕方がない。公爵様に真正面から褒められて平然としていられるほど、図太くはできていない。
アルベルトは一歩近づくと、テーブルの上に小さな包みを置いた。
「これも持って帰るといい」
「えっ、またですか!?」
「先日、焼き菓子は嫌いではなかっただろう」
「な、なんでご存じなんですか!?」
「嫌いなら、あの執事がそれとなく把握してくる」
「クラウスさんが!?」
公爵家の情報収集能力がこわい。
リネットがわなわなしていると、アルベルトの口元がわずかに和らいだ。
「今回は花茶だ」
「はな、ちゃ……」
「花を扱う君なら嫌いではないかと思ってな」
包みを見下ろして、リネットは言葉を失った。
高価そうだとか、恐れ多いとか、そういう前に。
どうしてそんなふうに、自分のことを考えたものを選んでくるのだろう。
それが嬉しいと思ってしまうから、困るのに。
「公爵様……」
「無理に受け取れとは言わない」
アルベルトは静かに言った。
「ただ、君が慌ただしく働く合間に、一息つく時間があればいいと思っただけだ」
だめだ、と思った。
そんな言い方をされたら、断れるはずがない。
リネットはぎゅっと包みを見つめてから、そっと両手を差し出した。
「……ありがとうございます」
「そうか」
たったそれだけで、アルベルトの表情がわずかにやわらいだ気がした。
それを見てしまった瞬間、リネットの胸はさらに忙しくなる。
この人は本当にずるい。
何も強く言わないくせに、逃げ道だけきれいに塞いでくる。
「帰りは、また馬車を……?」
おそるおそる尋ねると、アルベルトは当然のように頷いた。
「そのつもりだが」
「やっぱり……」
「嫌か?」
真っ直ぐに聞かれて、リネットは言葉に詰まる。
嫌ではない。
嫌ではないのだ。困るだけで。
「……嫌、ではありません」
正直に答えると、アルベルトは少しだけ目を細めた。
「ならよかった」
そのひと言が、どうしてこんなに嬉しく聞こえるのだろう。
リネットは自分でもわからないまま、ただ俯いて、熱くなった頬を隠すことしかできなかった。
甘やかしは、どうやら本当に始まってしまったらしい。
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