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第3話 公爵様、社交界でも無双する
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公爵家から花茶をもらって帰ったその夜、リネットは自室の机の上に置かれた包みを、しばらくじっと見つめていた。
薄い生成り色の上品な包み紙に、さりげなく銀の紐が結ばれている。飾りすぎていないのに、見ただけで上等なものだとわかる。
「……花茶」
そっと呟いてみる。
昼間、公爵に手渡されたときのことが思い出されて、頬が熱くなった。
――花を扱う君なら嫌いではないかと思ってな。
あの落ち着いた声で、まるで当然のように言うのだ。
こちらの心臓がどうなるかなんて、絶対に少しも考えていない。……いや、あの人なら、もしかしたら考えたうえでああなのかもしれない。だとしたらますますずるい。
「リネットー、湯、沸いてるぞ」
階下から父の声がして、はっと我に返った。
「は、はい!」
包みを抱えて下へ降りると、店の奥の居間にはすでに湯気の立つポットが用意されていた。父は椅子にどっかり座って腕を組んでいる。どう見ても、娘が花茶を持って降りてくるのを待っていた顔である。
「飲まないのか」
「の、飲みますけど……」
「じゃあ淹れてみろ」
言われて、リネットはおそるおそる包みを開いた。
中から現れたのは、乾燥させた花びらを中心に、細かな葉や実が美しく混ぜられた花茶だった。淡い桃色、明るい黄色、白に近い薄緑。香りもやさしく華やかで、思わず「わあ……」と小さく声が漏れる。
「きれいだな」と父も素直に感心したように言った。
「……はい」
きれいだ。
そして、いかにも自分が好きそうなものだった。
そこがいちばん困る。
リネットは丁寧に花茶をポットへ移し、湯を注いだ。ふわりと立ちのぼった香りは、思った以上に柔らかく、鼻に抜ける甘さも控えめで心地いい。少し待ってからカップへ注ぐと、透き通った淡金色の液面に花びらが揺れた。
「……可愛い」
「まず見た目で言うんだなおまえ」
「だって可愛いんです」
父は苦笑したが、それ以上は何も言わなかった。
ひと口飲んでみる。
香りほど甘くはなく、すっきりしているのに、飲み込んだあとにやさしい余韻が残る。
「おいしい……」
ぽろっとこぼれた本音に、父がにやりとした。
「気に入ったか」
「そりゃ、おいしいですけど……」
「でも困る?」
「困ります……」
心底そう思って答えると、父は肩を揺らして笑った。
「難儀だなあ」
「だって、お父さん。どうして公爵様が私なんかに、こんな……」
「私なんか、はやめとけ」
父の声が少しだけ真面目になった。
リネットが顔を上げると、ミハイルはカップを持ちながら、いつになくまっすぐ娘を見ていた。
「相手が公爵閣下だからって、おまえが急に価値のない娘になるわけじゃねえよ」
「でも……」
「うちは花屋だ。で、おまえは誰より花を大事にして、客のことを考えて、ちゃんと仕事してる。公爵閣下がそこを見てるんなら、変なことじゃねえだろ」
リネットは言葉に詰まった。
父の言うことはわかる。わかるけれど、それとこれとは別だと思ってしまう。公爵様はあまりにも遠い人だ。そんな人に何かを選ばれたり、気に留められたりするのは、どうしたって現実味がない。
それでも、父の言葉は少しだけ胸の奥に残った。
私なんか、はやめとけ。
そのひと言が、思ったよりあたたかく沁みた。
◇
その翌々日、公爵家から再び使いが来た。
今度はクラウスではなく、若い従者だった。丁寧に頭を下げた彼が差し出したのは、注文書ではなく、一通の招待状だった。
「……招待状?」
思わず復唱すると、従者は「はい」と端正に頷く。
「今週末、公爵家の庭園で小規模な茶会を催します。その折の花の設えについて、旦那様よりぜひフロール花店にお願いしたいとのことです」
「茶会……!」
リネットは目を白黒させた。
花の注文だけならもう驚くまいと思っていたのに、さすがに茶会となると規模が違う。いや、小規模と言っていたが、公爵家の“小規模”が庶民の感覚と同じとはとても思えない。
父が受け取った招待状を開き、内容を確認する。
「花の搬入と飾り付けのため、当日は少し早めに来てほしい、か」
「は、はい」
従者はそこで、少し言いにくそうに付け加えた。
「また、旦那様より……その、設えの完成後、もし差し支えなければ、茶会のあいだも庭園に残っていただきたいとのことです」
「…………はい?」
父娘そろって固まった。
従者も少し困った顔になる。
「花を手がけた方にも、実際の雰囲気をご覧いただきたい、と」
それは、もっともらしい理由のようにも聞こえる。
聞こえるけれど、どうして花屋の娘が公爵家の茶会に残ることになるのか、まったくわからない。
「わ、私が、ですか?」
「はい、リネット・フロール様に」
名前まではっきり出されてしまって、リネットは逃げ場を失った気分になった。
自分で飾った花がどう場に馴染むかを見るのは、たしかに勉強になる。なるけれど、それはもっと別のやり方でもいいのではないだろうか。どうして“茶会に残る”という話になるのだ。
父も同じことを思ったらしく、ちらりと娘を見た。
「……無理にとは?」
「申しておりません」
従者はすぐに答えた。「あくまで、旦那様のご希望です」
ご希望。
その言葉の圧が強い。
リネットは招待状を見つめた。厚みのある紙、控えめだが高級感のある文字の装飾、公爵家の紋章。これを手にしているだけで心臓に悪い。
「どうする?」と父が小声で聞く。
「どうするって……」
断るべきなのだろうか。
けれど、仕事として頼まれた花の設えに関わること自体はありがたい。残ることについても、“花を見てほしい”という名目なら完全におかしくはない。……完全ではないが。
何より、アルベルトがそう言ったと聞くと、強く断るのが難しくなる自分がいた。
「……ご迷惑でなければ、伺います」
そう答えると、従者は穏やかに一礼した。
「承知いたしました。お伝えいたします」
そして帰っていったあと、店にはしばし沈黙が落ちた。
先に口を開いたのは父だった。
「リネット」
「はい……」
「それ、もう“花屋の娘”の扱いじゃない気がするんだが」
「私もそう思います……!」
思わず机に突っ伏した。
◇
その日の夕方、当然のようにサラが来た。
「招待されたの!?」
「声が大きい!」
店先に響いた親友の声に、リネットは慌てて口元へ指を立てた。だがサラは興奮を隠せない様子で、ぐいぐいと距離を詰めてくる。
「だって、公爵家の茶会でしょ? それって貴族の集まりでしょう? リネットがそこに?」
「花の設えのためだから!」
「でも残ってほしいんでしょ?」
「……そうだけど」
「それってもう特別枠じゃない?」
「言わないで……!」
自分でもそう思っていることを、はっきり口にされるとつらい。
サラは腕を組んでしみじみ頷いた。
「公爵様、やることが丁寧なくせに強引ね」
「そうなの……!」
つい強く同意してしまった。
「全部もっともらしい理由をつけてくるのに、気づくと逃げ道がないの」
「うわあ、本気だ」
「そこで目を輝かせないで」
サラはけろりとしている。
「だって、素敵じゃない。横暴じゃなくて、ちゃんと気遣ってるんでしょ?」
「それは、はい……」
「でも引かない」
「引かない……」
「すごい好きじゃん」
「好きって言わないで!」
また顔が熱くなる。
サラは笑いながらも、最後には真面目な顔になった。
「でも、気をつけてね」
「え?」
「相手は公爵様だから。たぶん意地悪な人じゃないけど、周りはそうとも限らないでしょ」
その言葉に、リネットの背筋が少しだけ伸びた。
たしかにそうだ。
相手がアルベルトひとりなら、困るほどやさしいだけなのかもしれない。けれど茶会となれば、そこには当然ほかの貴族たちもいる。花屋の娘がぽつんと混ざって、好奇の目を向けられないはずがない。
さっきまで“公爵様に会うかもしれない”ことばかり考えていたが、それだけでは済まないのだと、今さら実感が湧いた。
「……そうだよね」
「うん。でも、困ったらちゃんと逃げてね」
「逃げる……」
「無理して愛想よくしなくていいってこと」
サラはそう言って、少しだけ眉をひそめた。
「公爵様が本当にリネットを大事に思ってるなら、困ってるの見たら助けるでしょ」
その言葉に、リネットはなぜか少しだけ胸が落ち着いた。
助けるでしょ。
そう言われると、不思議なくらい、アルベルトならそうするだろうと思えた。
◇
茶会当日。
朝からリネットは落ち着かなかった。
いつもより少しだけきちんとしたワンピースに着替え、髪も丁寧にまとめる。花屋として場に出る以上、みっともない格好はできない。けれど張り切りすぎても不自然だ。そこを考え始めると終わりがなく、結局サラに「可愛いからそれでいい」と押し切られた。
「可愛いって言わないでってば」
「言うよ。ほら、しゃんとして」
親友に背中を叩かれ、父には「具合悪くなったらすぐ帰れ」と念押しされ、リネットは大きく息を吸って公爵邸へ向かった。
庭園は、この前見たとき以上に見事だった。
春のやわらかな光の下、手入れの行き届いた芝と花壇、その間を縫うように白いテーブルがいくつも置かれている。今日の茶会は庭園の一角を使うらしく、青空の下で開かれるらしい。
リネットは用意してきた花を、指定された場所へ丁寧に飾っていった。テーブルごとに少しずつ色味を変えつつ、全体としては統一感が出るようにする。中央には明るめの色、端の席には落ち着いた色。風が吹いても乱れにくいよう工夫もした。
「こちらでよろしいでしょうか……」
最後の花器を整えたところで、控えていた使用人に確認すると、「はい、とても美しいです」と微笑まれた。
少しだけ肩の力が抜ける。
「ご苦労だった」
聞き慣れた低い声に、リネットはぴくりと肩を跳ねさせた。
振り向けば、そこにアルベルトが立っていた。
今日の彼はいつも以上に“公爵様”だった。仕立てのいい濃紺の正装に身を包み、銀灰色の髪はきちんと整えられている。庭園の緑のなかにあってもまるで埋もれず、むしろ一段鮮やかに見えるのだから不公平だ。
「こ、公爵様……!」
「よく似合っている」
「へ?」
何が、と思った次の瞬間、自分の格好を言われたのだと気づいて硬直した。
「え、あ、その、服、ですか」
「ほかに何がある」
さらりと返されて、リネットは一気に顔が熱くなった。
どうしてこの人は挨拶みたいにそういうことを言うのだろう。しかも、まるで本当にただ思ったことを口にしただけのような顔で。
「……ありがとうございます」
小さく絞り出すのがやっとだった。
アルベルトはそんな彼女を見て、わずかに口元をゆるめる。
「花も見事だ」
「ほ、本当ですか?」
「この庭によく合っている」
そのひと言で、さっきまで張りつめていたものが少しだけ報われた気がした。ほっとしたのが顔に出たのか、アルベルトの眼差しがやわらぐ。
「少し休んでいるといい。茶会が始まったら、そのまま近くに」
「え、ほ、本当に残るんですか?」
「もちろんだ」
「もちろん……」
やっぱりそこは決定事項らしい。
リネットが弱々しく繰り返しているうちに、客人たちが続々と庭園へ姿を見せ始めた。色とりどりのドレス、仕立てのよい上着、抑えた笑い声。見るからに身分の高そうな人たちばかりで、リネットはたちまち居心地が悪くなる。
目立たない場所へ下がろうとしたが、アルベルトが自然に彼女の立ち位置を自分に近い側へずらした。
「えっ」
「ここでいい」
「で、でも……!」
「君の花だ。近くにいて何か問題があるか?」
その理屈はずるい。
まったく反論できない。
客人たちの何人かがこちらへ目を向けた。
その視線の意味がわからないほど、リネットは鈍くない。
誰。
あの娘が?
どうして公爵閣下の近くに?
そんな無言の囁きが、ひしひしと伝わってくる。
胃がきゅっと縮む。
だがアルベルトはまるで気にした様子もなく、むしろ彼女が下がりすぎないようにさりげなく気を配っていた。その態度が逆に、リネットを“特別”だと周囲へ示しているようで、余計に心臓に悪い。
茶会が始まってしばらくしたころ、ひとりの若い男が近づいてきた。
明るい茶髪に柔らかな微笑み。服装も洗練されていて、一見すると感じがよい。だがその目は、どこか“面白いものを見つけた”ような色をしていた。
「アルベルト公爵、珍しいですね」
男は軽く一礼してから、すぐにリネットへ目を向けた。
「そちらのお嬢さんは?」
リネットは背筋をこわばらせる。
アルベルトが淡々と答えた。
「花を手がけた者だ」
「へえ。なるほど」
男はにこやかに笑い、今度はリネットへ向き直る。
「はじめまして。ルシアン・ド・ベルフォールです」
「あ、は、はじめまして……リネット・フロールです……」
名乗り返したものの、声が少し上ずった。
ベルフォール。聞いたことはないが、貴族なのだろう。たぶんかなり上のほうの。
ルシアンは庭園の花々を見回し、感心したように言った。
「君が飾ったのですか? 素晴らしいですね。柔らかくて上品だ。まるで君みたいだ」
「えっ」
突然の言葉に、リネットは固まった。
何と言えばいいのかわからない。褒められた、のだろうか。たぶんそうなのだろうが、あまりに慣れない種類の言葉で処理が追いつかない。
とっさに「ありがとうございます」と返そうとした、その前に。
「ルシアン」
アルベルトの声が静かに割って入った。
低く、穏やかで、しかし妙に冷える声音だった。
「うちの客人を困らせるな」
場の空気が、すっと変わった。
ルシアンは一瞬だけ目を丸くし、それから肩をすくめて笑った。
「困らせるつもりはありませんよ。ただ、花もご本人もとても愛らしかったので」
「そういう台詞は、相手が楽しめる場だけで使え」
「これは手厳しい」
笑っているのに、ルシアンの目は少しだけ引きつっていた。
リネットは完全に固まってしまっていた。
怒鳴っているわけではない。睨んでいるわけでもない。なのに、アルベルトが一言二言発しただけで、会話の主導権が全部そちらへ移ってしまったのがわかる。
これが、公爵様。
普段は穏やかでやさしいのに、必要な場では一歩も引かない。しかも相手に反論の隙を与えない言い方をする。
ルシアンはそれ以上何も言わず、「失礼」と軽く会釈して去っていった。
見送ったあと、リネットはようやく息を吐いた。
「……す、すみません」
「なぜ君が謝る」
「だって、ご迷惑を……」
「迷惑ではない」
きっぱりと言い切られて、リネットは言葉を失った。
アルベルトは彼女の顔を見て、少しだけ眉を寄せる。
「気分が悪いか?」
「い、いえ。大丈夫です」
「本当に?」
「はい……ちょっと、びっくりしただけで」
そう答えると、アルベルトの表情がわずかに和らいだ。
「ならいい」
それから、ほんの少し身をかがめて、リネットにだけ聞こえる声で言う。
「君が困っているのを、見たくない」
どくん、と心臓が強く打った。
すぐ近くで聞こえた低い声。
周囲には人がいるのに、その瞬間だけ世界が狭まったような気がした。
リネットはぱっと顔を上げた。
アルベルトの青い瞳は、冗談ではなく、からかいでもなく、ただ真っ直ぐにこちらを見ていた。
「あ……」
声にならない。
困る。
そんなふうに言われたら、本当に困る。
どうしてこの人は、こんなに落ち着いた顔で、とんでもないことを言うのだろう。しかも、自分ではとんでもないことを言っている自覚があまりなさそうなのが、なお悪い。
リネットが真っ赤になって言葉を失っていると、その少し離れた場所から、今度は澄ました女の声がした。
「まあ。閣下はずいぶんとご熱心ですのね」
振り向くと、淡い紫のドレスをまとった令嬢が立っていた。流れるような金髪を美しく結い上げ、いかにも高位貴族らしい洗練をまとっている。微笑んではいるが、目は笑っていなかった。
リネットは無意識に背筋を縮こまらせる。
アルベルトの表情が、わずかに冷えた。
「セレナ嬢」
「ごきげんよう、アルベルト様」
令嬢――セレナは優雅に一礼してから、ちらりとリネットを見る。その視線には、好奇心と値踏み、それからごく薄い侮りが混ざっていた。
「お噂は耳にしておりましたけれど、まさか本当に……花屋のお嬢さんをおそばに置かれるなんて」
リネットの指先がこわばる。
やっぱり、そう見えるのだ。
場違いだと。おかしいと。そう言われているのと同じだった。
だが次の瞬間、アルベルトが一歩前へ出た。
「何か問題が?」
静かな問いだった。
しかし、その声音は先ほどルシアンに向けたものよりさらに冷たかった。
セレナの笑みがわずかに揺らぐ。
「いえ、ただ少し驚いただけですわ」
「なら、それで済ませるといい」
ぴしゃり、と。
音はしないのに、そんなふうに空気が切られた気がした。
セレナは一瞬だけ言葉を失い、それから何とか笑みを保って言う。
「……失礼いたしました」
「そうしてくれ」
完全に終わった。
誰の目にもそうわかるくらい、アルベルトの返しは明確だった。
セレナはそれ以上何も言えず、硬い笑顔のまま去っていく。
リネットはただ呆然としていた。
すごい。
いや、本当にすごい。
誰かを怒鳴るわけでもなく、感情的になるわけでもなく、ただ穏やかに、でも完璧に相手を退けてしまう。これが社交界で無双するということなのだろうか。言葉の剣、みたいなものがあるなら、たぶんこういうのだ。
「大丈夫か」
再び向けられた声は、さっきまでとは打って変わってやわらかかった。
リネットは何度か瞬きをして、ようやく現実へ戻る。
「だ、大丈夫です……たぶん……」
「たぶん?」
「ちょっと、びっくりして……」
「そうだろうな」
アルベルトは小さく息をついたあと、近くのテーブルから茶器をひとつ取って、リネットへ渡した。
「少し飲むといい」
「えっ、で、でも」
「手が冷えている」
言われて初めて、自分の指先が少し震えていることに気づいた。
どうやら緊張していたらしい。今さらだが。
リネットはおずおずとカップを受け取る。
「あ、ありがとうございます……」
ほんのりあたたかい。
それだけで、張りつめていたものが少しゆるんだ気がした。
アルベルトは彼女がひと口飲むのを見届けてから、ようやく視線を外す。
その自然な気遣いがまた、たまらなく心臓に悪い。
「公爵様」
「なんだ」
「その……助けてくださって、ありがとうございました」
ちゃんとお礼を言わなければと思って口にしたのに、最後のほうは小さくなってしまった。
アルベルトは少しだけ目を細める。
「礼を言われることではない」
「でも……」
「君は私が呼んだ客人だ。軽く扱わせるつもりはない」
さらりと言われたその言葉に、リネットはまた息を止める羽目になった。
私が呼んだ客人。
軽く扱わせるつもりはない。
それは守るという意味だ。
少なくともリネットには、そう聞こえた。
「……本当に、ずるいです」
ぽろりとこぼれてしまってから、リネットはぎょっとした。
「あっ」
しまった。
心の声が出た。
慌てて顔を上げると、アルベルトは意外そうにわずかに眉を上げ、それから静かに笑った。
「何がだ?」
「そ、その、いろいろです……!」
「具体性がないな」
「具体的に言わせないでください……!」
自分で言っておいて何だが、具体的に言語化したら死んでしまう。恥ずかしさで。
アルベルトはしばらくそんな彼女を見ていたが、やがて楽しそうでもあり、どこか満足そうでもある小さな笑みを浮かべた。
「そうか」
それだけだった。
けれどその短いひと言に、妙に甘い響きが混ざっている気がして、リネットはもうそれ以上何も言えなくなった。
◇
茶会が終わるころには、庭園の花々は夕方の光を受けてまた違う表情を見せていた。
客人たちが帰っていくのを横目に、リネットは花の状態を軽く確認する。崩れているところはほとんどない。風に揺れながらも、ちゃんとその場に馴染んでいる。
「無事終わりましたね」とエマが明るく声をかけてくれた。
「はい……なんとか」
「旦那様もとてもご満足でしたよ」
「そ、そうですか……」
それを聞くだけで、疲れのなかに少し甘いものが混じる。
帰り際、アルベルトは当然のようにまた馬車を用意していた。もう驚く気力も残っていなかったが、それでも送り出される直前、彼が静かに言った言葉だけは、はっきり耳に残った。
「今日は来てくれてよかった」
リネットは扉の前で立ち止まる。
その一言が、花の出来を褒められるのとはまた違う意味を持っている気がして、胸がぎゅっとした。
「……私で、よかったんですか」
思わず聞いてしまう。
身分も立場も違う。場違いだと見られても仕方がない。そんな自分でよかったのかと、たぶん本当はずっと気になっていた。
アルベルトは少しも迷わず答えた。
「君がよかった」
あまりにも即答で。
あまりにも自然に。
リネットはもう、どうしていいかわからなくなった。
「っ……」
何か返したいのに、喉がうまく動かない。
真っ赤になって俯くしかない彼女に、アルベルトはごく穏やかな声で続ける。
「また頼む、リネット」
そうして名前を呼ばれるたび、自分のなかで何かが少しずつ変わっていく。
まだその正体はわからない。
でも、もう前のままではいられない気がした。
馬車が動き出してからも、リネットはしばらく手を胸に当てたまま、窓の外を見られなかった。
公爵様は、今日も甘くて、強くて、ずるかった。
そしてたぶん、リネットが思っているよりずっと、本気なのだ。
薄い生成り色の上品な包み紙に、さりげなく銀の紐が結ばれている。飾りすぎていないのに、見ただけで上等なものだとわかる。
「……花茶」
そっと呟いてみる。
昼間、公爵に手渡されたときのことが思い出されて、頬が熱くなった。
――花を扱う君なら嫌いではないかと思ってな。
あの落ち着いた声で、まるで当然のように言うのだ。
こちらの心臓がどうなるかなんて、絶対に少しも考えていない。……いや、あの人なら、もしかしたら考えたうえでああなのかもしれない。だとしたらますますずるい。
「リネットー、湯、沸いてるぞ」
階下から父の声がして、はっと我に返った。
「は、はい!」
包みを抱えて下へ降りると、店の奥の居間にはすでに湯気の立つポットが用意されていた。父は椅子にどっかり座って腕を組んでいる。どう見ても、娘が花茶を持って降りてくるのを待っていた顔である。
「飲まないのか」
「の、飲みますけど……」
「じゃあ淹れてみろ」
言われて、リネットはおそるおそる包みを開いた。
中から現れたのは、乾燥させた花びらを中心に、細かな葉や実が美しく混ぜられた花茶だった。淡い桃色、明るい黄色、白に近い薄緑。香りもやさしく華やかで、思わず「わあ……」と小さく声が漏れる。
「きれいだな」と父も素直に感心したように言った。
「……はい」
きれいだ。
そして、いかにも自分が好きそうなものだった。
そこがいちばん困る。
リネットは丁寧に花茶をポットへ移し、湯を注いだ。ふわりと立ちのぼった香りは、思った以上に柔らかく、鼻に抜ける甘さも控えめで心地いい。少し待ってからカップへ注ぐと、透き通った淡金色の液面に花びらが揺れた。
「……可愛い」
「まず見た目で言うんだなおまえ」
「だって可愛いんです」
父は苦笑したが、それ以上は何も言わなかった。
ひと口飲んでみる。
香りほど甘くはなく、すっきりしているのに、飲み込んだあとにやさしい余韻が残る。
「おいしい……」
ぽろっとこぼれた本音に、父がにやりとした。
「気に入ったか」
「そりゃ、おいしいですけど……」
「でも困る?」
「困ります……」
心底そう思って答えると、父は肩を揺らして笑った。
「難儀だなあ」
「だって、お父さん。どうして公爵様が私なんかに、こんな……」
「私なんか、はやめとけ」
父の声が少しだけ真面目になった。
リネットが顔を上げると、ミハイルはカップを持ちながら、いつになくまっすぐ娘を見ていた。
「相手が公爵閣下だからって、おまえが急に価値のない娘になるわけじゃねえよ」
「でも……」
「うちは花屋だ。で、おまえは誰より花を大事にして、客のことを考えて、ちゃんと仕事してる。公爵閣下がそこを見てるんなら、変なことじゃねえだろ」
リネットは言葉に詰まった。
父の言うことはわかる。わかるけれど、それとこれとは別だと思ってしまう。公爵様はあまりにも遠い人だ。そんな人に何かを選ばれたり、気に留められたりするのは、どうしたって現実味がない。
それでも、父の言葉は少しだけ胸の奥に残った。
私なんか、はやめとけ。
そのひと言が、思ったよりあたたかく沁みた。
◇
その翌々日、公爵家から再び使いが来た。
今度はクラウスではなく、若い従者だった。丁寧に頭を下げた彼が差し出したのは、注文書ではなく、一通の招待状だった。
「……招待状?」
思わず復唱すると、従者は「はい」と端正に頷く。
「今週末、公爵家の庭園で小規模な茶会を催します。その折の花の設えについて、旦那様よりぜひフロール花店にお願いしたいとのことです」
「茶会……!」
リネットは目を白黒させた。
花の注文だけならもう驚くまいと思っていたのに、さすがに茶会となると規模が違う。いや、小規模と言っていたが、公爵家の“小規模”が庶民の感覚と同じとはとても思えない。
父が受け取った招待状を開き、内容を確認する。
「花の搬入と飾り付けのため、当日は少し早めに来てほしい、か」
「は、はい」
従者はそこで、少し言いにくそうに付け加えた。
「また、旦那様より……その、設えの完成後、もし差し支えなければ、茶会のあいだも庭園に残っていただきたいとのことです」
「…………はい?」
父娘そろって固まった。
従者も少し困った顔になる。
「花を手がけた方にも、実際の雰囲気をご覧いただきたい、と」
それは、もっともらしい理由のようにも聞こえる。
聞こえるけれど、どうして花屋の娘が公爵家の茶会に残ることになるのか、まったくわからない。
「わ、私が、ですか?」
「はい、リネット・フロール様に」
名前まではっきり出されてしまって、リネットは逃げ場を失った気分になった。
自分で飾った花がどう場に馴染むかを見るのは、たしかに勉強になる。なるけれど、それはもっと別のやり方でもいいのではないだろうか。どうして“茶会に残る”という話になるのだ。
父も同じことを思ったらしく、ちらりと娘を見た。
「……無理にとは?」
「申しておりません」
従者はすぐに答えた。「あくまで、旦那様のご希望です」
ご希望。
その言葉の圧が強い。
リネットは招待状を見つめた。厚みのある紙、控えめだが高級感のある文字の装飾、公爵家の紋章。これを手にしているだけで心臓に悪い。
「どうする?」と父が小声で聞く。
「どうするって……」
断るべきなのだろうか。
けれど、仕事として頼まれた花の設えに関わること自体はありがたい。残ることについても、“花を見てほしい”という名目なら完全におかしくはない。……完全ではないが。
何より、アルベルトがそう言ったと聞くと、強く断るのが難しくなる自分がいた。
「……ご迷惑でなければ、伺います」
そう答えると、従者は穏やかに一礼した。
「承知いたしました。お伝えいたします」
そして帰っていったあと、店にはしばし沈黙が落ちた。
先に口を開いたのは父だった。
「リネット」
「はい……」
「それ、もう“花屋の娘”の扱いじゃない気がするんだが」
「私もそう思います……!」
思わず机に突っ伏した。
◇
その日の夕方、当然のようにサラが来た。
「招待されたの!?」
「声が大きい!」
店先に響いた親友の声に、リネットは慌てて口元へ指を立てた。だがサラは興奮を隠せない様子で、ぐいぐいと距離を詰めてくる。
「だって、公爵家の茶会でしょ? それって貴族の集まりでしょう? リネットがそこに?」
「花の設えのためだから!」
「でも残ってほしいんでしょ?」
「……そうだけど」
「それってもう特別枠じゃない?」
「言わないで……!」
自分でもそう思っていることを、はっきり口にされるとつらい。
サラは腕を組んでしみじみ頷いた。
「公爵様、やることが丁寧なくせに強引ね」
「そうなの……!」
つい強く同意してしまった。
「全部もっともらしい理由をつけてくるのに、気づくと逃げ道がないの」
「うわあ、本気だ」
「そこで目を輝かせないで」
サラはけろりとしている。
「だって、素敵じゃない。横暴じゃなくて、ちゃんと気遣ってるんでしょ?」
「それは、はい……」
「でも引かない」
「引かない……」
「すごい好きじゃん」
「好きって言わないで!」
また顔が熱くなる。
サラは笑いながらも、最後には真面目な顔になった。
「でも、気をつけてね」
「え?」
「相手は公爵様だから。たぶん意地悪な人じゃないけど、周りはそうとも限らないでしょ」
その言葉に、リネットの背筋が少しだけ伸びた。
たしかにそうだ。
相手がアルベルトひとりなら、困るほどやさしいだけなのかもしれない。けれど茶会となれば、そこには当然ほかの貴族たちもいる。花屋の娘がぽつんと混ざって、好奇の目を向けられないはずがない。
さっきまで“公爵様に会うかもしれない”ことばかり考えていたが、それだけでは済まないのだと、今さら実感が湧いた。
「……そうだよね」
「うん。でも、困ったらちゃんと逃げてね」
「逃げる……」
「無理して愛想よくしなくていいってこと」
サラはそう言って、少しだけ眉をひそめた。
「公爵様が本当にリネットを大事に思ってるなら、困ってるの見たら助けるでしょ」
その言葉に、リネットはなぜか少しだけ胸が落ち着いた。
助けるでしょ。
そう言われると、不思議なくらい、アルベルトならそうするだろうと思えた。
◇
茶会当日。
朝からリネットは落ち着かなかった。
いつもより少しだけきちんとしたワンピースに着替え、髪も丁寧にまとめる。花屋として場に出る以上、みっともない格好はできない。けれど張り切りすぎても不自然だ。そこを考え始めると終わりがなく、結局サラに「可愛いからそれでいい」と押し切られた。
「可愛いって言わないでってば」
「言うよ。ほら、しゃんとして」
親友に背中を叩かれ、父には「具合悪くなったらすぐ帰れ」と念押しされ、リネットは大きく息を吸って公爵邸へ向かった。
庭園は、この前見たとき以上に見事だった。
春のやわらかな光の下、手入れの行き届いた芝と花壇、その間を縫うように白いテーブルがいくつも置かれている。今日の茶会は庭園の一角を使うらしく、青空の下で開かれるらしい。
リネットは用意してきた花を、指定された場所へ丁寧に飾っていった。テーブルごとに少しずつ色味を変えつつ、全体としては統一感が出るようにする。中央には明るめの色、端の席には落ち着いた色。風が吹いても乱れにくいよう工夫もした。
「こちらでよろしいでしょうか……」
最後の花器を整えたところで、控えていた使用人に確認すると、「はい、とても美しいです」と微笑まれた。
少しだけ肩の力が抜ける。
「ご苦労だった」
聞き慣れた低い声に、リネットはぴくりと肩を跳ねさせた。
振り向けば、そこにアルベルトが立っていた。
今日の彼はいつも以上に“公爵様”だった。仕立てのいい濃紺の正装に身を包み、銀灰色の髪はきちんと整えられている。庭園の緑のなかにあってもまるで埋もれず、むしろ一段鮮やかに見えるのだから不公平だ。
「こ、公爵様……!」
「よく似合っている」
「へ?」
何が、と思った次の瞬間、自分の格好を言われたのだと気づいて硬直した。
「え、あ、その、服、ですか」
「ほかに何がある」
さらりと返されて、リネットは一気に顔が熱くなった。
どうしてこの人は挨拶みたいにそういうことを言うのだろう。しかも、まるで本当にただ思ったことを口にしただけのような顔で。
「……ありがとうございます」
小さく絞り出すのがやっとだった。
アルベルトはそんな彼女を見て、わずかに口元をゆるめる。
「花も見事だ」
「ほ、本当ですか?」
「この庭によく合っている」
そのひと言で、さっきまで張りつめていたものが少しだけ報われた気がした。ほっとしたのが顔に出たのか、アルベルトの眼差しがやわらぐ。
「少し休んでいるといい。茶会が始まったら、そのまま近くに」
「え、ほ、本当に残るんですか?」
「もちろんだ」
「もちろん……」
やっぱりそこは決定事項らしい。
リネットが弱々しく繰り返しているうちに、客人たちが続々と庭園へ姿を見せ始めた。色とりどりのドレス、仕立てのよい上着、抑えた笑い声。見るからに身分の高そうな人たちばかりで、リネットはたちまち居心地が悪くなる。
目立たない場所へ下がろうとしたが、アルベルトが自然に彼女の立ち位置を自分に近い側へずらした。
「えっ」
「ここでいい」
「で、でも……!」
「君の花だ。近くにいて何か問題があるか?」
その理屈はずるい。
まったく反論できない。
客人たちの何人かがこちらへ目を向けた。
その視線の意味がわからないほど、リネットは鈍くない。
誰。
あの娘が?
どうして公爵閣下の近くに?
そんな無言の囁きが、ひしひしと伝わってくる。
胃がきゅっと縮む。
だがアルベルトはまるで気にした様子もなく、むしろ彼女が下がりすぎないようにさりげなく気を配っていた。その態度が逆に、リネットを“特別”だと周囲へ示しているようで、余計に心臓に悪い。
茶会が始まってしばらくしたころ、ひとりの若い男が近づいてきた。
明るい茶髪に柔らかな微笑み。服装も洗練されていて、一見すると感じがよい。だがその目は、どこか“面白いものを見つけた”ような色をしていた。
「アルベルト公爵、珍しいですね」
男は軽く一礼してから、すぐにリネットへ目を向けた。
「そちらのお嬢さんは?」
リネットは背筋をこわばらせる。
アルベルトが淡々と答えた。
「花を手がけた者だ」
「へえ。なるほど」
男はにこやかに笑い、今度はリネットへ向き直る。
「はじめまして。ルシアン・ド・ベルフォールです」
「あ、は、はじめまして……リネット・フロールです……」
名乗り返したものの、声が少し上ずった。
ベルフォール。聞いたことはないが、貴族なのだろう。たぶんかなり上のほうの。
ルシアンは庭園の花々を見回し、感心したように言った。
「君が飾ったのですか? 素晴らしいですね。柔らかくて上品だ。まるで君みたいだ」
「えっ」
突然の言葉に、リネットは固まった。
何と言えばいいのかわからない。褒められた、のだろうか。たぶんそうなのだろうが、あまりに慣れない種類の言葉で処理が追いつかない。
とっさに「ありがとうございます」と返そうとした、その前に。
「ルシアン」
アルベルトの声が静かに割って入った。
低く、穏やかで、しかし妙に冷える声音だった。
「うちの客人を困らせるな」
場の空気が、すっと変わった。
ルシアンは一瞬だけ目を丸くし、それから肩をすくめて笑った。
「困らせるつもりはありませんよ。ただ、花もご本人もとても愛らしかったので」
「そういう台詞は、相手が楽しめる場だけで使え」
「これは手厳しい」
笑っているのに、ルシアンの目は少しだけ引きつっていた。
リネットは完全に固まってしまっていた。
怒鳴っているわけではない。睨んでいるわけでもない。なのに、アルベルトが一言二言発しただけで、会話の主導権が全部そちらへ移ってしまったのがわかる。
これが、公爵様。
普段は穏やかでやさしいのに、必要な場では一歩も引かない。しかも相手に反論の隙を与えない言い方をする。
ルシアンはそれ以上何も言わず、「失礼」と軽く会釈して去っていった。
見送ったあと、リネットはようやく息を吐いた。
「……す、すみません」
「なぜ君が謝る」
「だって、ご迷惑を……」
「迷惑ではない」
きっぱりと言い切られて、リネットは言葉を失った。
アルベルトは彼女の顔を見て、少しだけ眉を寄せる。
「気分が悪いか?」
「い、いえ。大丈夫です」
「本当に?」
「はい……ちょっと、びっくりしただけで」
そう答えると、アルベルトの表情がわずかに和らいだ。
「ならいい」
それから、ほんの少し身をかがめて、リネットにだけ聞こえる声で言う。
「君が困っているのを、見たくない」
どくん、と心臓が強く打った。
すぐ近くで聞こえた低い声。
周囲には人がいるのに、その瞬間だけ世界が狭まったような気がした。
リネットはぱっと顔を上げた。
アルベルトの青い瞳は、冗談ではなく、からかいでもなく、ただ真っ直ぐにこちらを見ていた。
「あ……」
声にならない。
困る。
そんなふうに言われたら、本当に困る。
どうしてこの人は、こんなに落ち着いた顔で、とんでもないことを言うのだろう。しかも、自分ではとんでもないことを言っている自覚があまりなさそうなのが、なお悪い。
リネットが真っ赤になって言葉を失っていると、その少し離れた場所から、今度は澄ました女の声がした。
「まあ。閣下はずいぶんとご熱心ですのね」
振り向くと、淡い紫のドレスをまとった令嬢が立っていた。流れるような金髪を美しく結い上げ、いかにも高位貴族らしい洗練をまとっている。微笑んではいるが、目は笑っていなかった。
リネットは無意識に背筋を縮こまらせる。
アルベルトの表情が、わずかに冷えた。
「セレナ嬢」
「ごきげんよう、アルベルト様」
令嬢――セレナは優雅に一礼してから、ちらりとリネットを見る。その視線には、好奇心と値踏み、それからごく薄い侮りが混ざっていた。
「お噂は耳にしておりましたけれど、まさか本当に……花屋のお嬢さんをおそばに置かれるなんて」
リネットの指先がこわばる。
やっぱり、そう見えるのだ。
場違いだと。おかしいと。そう言われているのと同じだった。
だが次の瞬間、アルベルトが一歩前へ出た。
「何か問題が?」
静かな問いだった。
しかし、その声音は先ほどルシアンに向けたものよりさらに冷たかった。
セレナの笑みがわずかに揺らぐ。
「いえ、ただ少し驚いただけですわ」
「なら、それで済ませるといい」
ぴしゃり、と。
音はしないのに、そんなふうに空気が切られた気がした。
セレナは一瞬だけ言葉を失い、それから何とか笑みを保って言う。
「……失礼いたしました」
「そうしてくれ」
完全に終わった。
誰の目にもそうわかるくらい、アルベルトの返しは明確だった。
セレナはそれ以上何も言えず、硬い笑顔のまま去っていく。
リネットはただ呆然としていた。
すごい。
いや、本当にすごい。
誰かを怒鳴るわけでもなく、感情的になるわけでもなく、ただ穏やかに、でも完璧に相手を退けてしまう。これが社交界で無双するということなのだろうか。言葉の剣、みたいなものがあるなら、たぶんこういうのだ。
「大丈夫か」
再び向けられた声は、さっきまでとは打って変わってやわらかかった。
リネットは何度か瞬きをして、ようやく現実へ戻る。
「だ、大丈夫です……たぶん……」
「たぶん?」
「ちょっと、びっくりして……」
「そうだろうな」
アルベルトは小さく息をついたあと、近くのテーブルから茶器をひとつ取って、リネットへ渡した。
「少し飲むといい」
「えっ、で、でも」
「手が冷えている」
言われて初めて、自分の指先が少し震えていることに気づいた。
どうやら緊張していたらしい。今さらだが。
リネットはおずおずとカップを受け取る。
「あ、ありがとうございます……」
ほんのりあたたかい。
それだけで、張りつめていたものが少しゆるんだ気がした。
アルベルトは彼女がひと口飲むのを見届けてから、ようやく視線を外す。
その自然な気遣いがまた、たまらなく心臓に悪い。
「公爵様」
「なんだ」
「その……助けてくださって、ありがとうございました」
ちゃんとお礼を言わなければと思って口にしたのに、最後のほうは小さくなってしまった。
アルベルトは少しだけ目を細める。
「礼を言われることではない」
「でも……」
「君は私が呼んだ客人だ。軽く扱わせるつもりはない」
さらりと言われたその言葉に、リネットはまた息を止める羽目になった。
私が呼んだ客人。
軽く扱わせるつもりはない。
それは守るという意味だ。
少なくともリネットには、そう聞こえた。
「……本当に、ずるいです」
ぽろりとこぼれてしまってから、リネットはぎょっとした。
「あっ」
しまった。
心の声が出た。
慌てて顔を上げると、アルベルトは意外そうにわずかに眉を上げ、それから静かに笑った。
「何がだ?」
「そ、その、いろいろです……!」
「具体性がないな」
「具体的に言わせないでください……!」
自分で言っておいて何だが、具体的に言語化したら死んでしまう。恥ずかしさで。
アルベルトはしばらくそんな彼女を見ていたが、やがて楽しそうでもあり、どこか満足そうでもある小さな笑みを浮かべた。
「そうか」
それだけだった。
けれどその短いひと言に、妙に甘い響きが混ざっている気がして、リネットはもうそれ以上何も言えなくなった。
◇
茶会が終わるころには、庭園の花々は夕方の光を受けてまた違う表情を見せていた。
客人たちが帰っていくのを横目に、リネットは花の状態を軽く確認する。崩れているところはほとんどない。風に揺れながらも、ちゃんとその場に馴染んでいる。
「無事終わりましたね」とエマが明るく声をかけてくれた。
「はい……なんとか」
「旦那様もとてもご満足でしたよ」
「そ、そうですか……」
それを聞くだけで、疲れのなかに少し甘いものが混じる。
帰り際、アルベルトは当然のようにまた馬車を用意していた。もう驚く気力も残っていなかったが、それでも送り出される直前、彼が静かに言った言葉だけは、はっきり耳に残った。
「今日は来てくれてよかった」
リネットは扉の前で立ち止まる。
その一言が、花の出来を褒められるのとはまた違う意味を持っている気がして、胸がぎゅっとした。
「……私で、よかったんですか」
思わず聞いてしまう。
身分も立場も違う。場違いだと見られても仕方がない。そんな自分でよかったのかと、たぶん本当はずっと気になっていた。
アルベルトは少しも迷わず答えた。
「君がよかった」
あまりにも即答で。
あまりにも自然に。
リネットはもう、どうしていいかわからなくなった。
「っ……」
何か返したいのに、喉がうまく動かない。
真っ赤になって俯くしかない彼女に、アルベルトはごく穏やかな声で続ける。
「また頼む、リネット」
そうして名前を呼ばれるたび、自分のなかで何かが少しずつ変わっていく。
まだその正体はわからない。
でも、もう前のままではいられない気がした。
馬車が動き出してからも、リネットはしばらく手を胸に当てたまま、窓の外を見られなかった。
公爵様は、今日も甘くて、強くて、ずるかった。
そしてたぶん、リネットが思っているよりずっと、本気なのだ。
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